第3話

「お、ぇ」


 咄嗟に手で口元を覆う。指の隙間からからはえずき声が漏れ、先程食べたクッキーと紅茶、そして胃酸が逆流しようと喉元まで登ってきた。

 目頭には意図せずに涙が溜まる。目尻も熱くなって、座っていることすら苦しい。


「りゅ、リュカ!」


 その姿を見て、サイが血相を変えてリュカに駆け寄った。震える手でリュカの背を撫で、大丈夫だよと何度もつぶやく。


「……すまないね。これしかないけど、よかったら」


 すっと目の前に差し出されたのはハンカチだった。ノルは心配そうにリュカの瞳を覗き込んで、そっとリュカの隣に腰掛けた。


「リュカ、ごめんね、ごめんなさい。僕、べつにリュカを泣かせたかったわけじゃなかったんだ」

「わ、わかって、いる、わ」


 吐き出しそうになる感情モノを飲み込んで、サイになんとか笑顔を返そうと試みる。しかしなかなかうまくいかない。


「僕はね、泣きそうなときにこうしてもらえると落ち着くんだ。リュカもそうだといいんだけど」


 そう言ってサイはぎゅっとリュカに抱きついた。

 まだ幼いサイが、自身より大きな体躯のリュカを慰めようと、泣きそうな顔をして必死になっていた。


「……ありがとう、もう大丈夫だから」


 小さな体温を感じながら、本当はまだ大丈夫というには無理をしているが、少しは気が落ち着いたのでリュカはそっとサイから身を離した。

 ノルから借りたハンカチで涙を拭うと、気力を振り絞って微笑んだ。

 これ以上、無関係な人間を巻き込みたくない。善人と関わりを持ちたくなかった。


「無理、しないでね」


 きっとリュカが頑張って笑みを浮かべていると気がついているのだろう。サイは歳に見合わぬ遣る瀬無い表情を浮かべると、そう言って元の席に戻った。


「……まぁ、出会ってすぐの人間には話せないこともあるだろうし、しかたがないよ」

「うん、そうだよね。でももしリュカが話したいときがきたら、僕はいつでもリュカの話を聞くからね!」


 二人はリュカに気を遣ってくれているのだろう。サイは駄々をこねることなく、おとなしく身を引き、しんみりとした空気にならないように明るい笑顔を浮かべていた。ノルもこれ以上リュカの過去に干渉しようとしてこなかった。

 今は凄惨な過去を思い出したくないリュカにとって、二人の対応はありがたくて少し気が救われた。


「よし、リュカ、きみはしばらくここに泊まるといい。アトスには俺から言っておこう」

「え?」


 息を整え、喉に居座る違和感が薄れた頃、唐突にノルはそう言い放った。


「え? もなにも、その様子だと泊まる場所もなにもないのだろう? だからこの家に泊まるといい。それでいいかい、サイ?」

「うん! 僕は大丈夫だよ。リュカのこと、放っておけないもん」

「でも、私は」


 リュカを置いて、ノルとサイはとんとんと話を進めていく。それは困る。優しくしてくれるのは嬉しい。とてもありがたいことだ。

 しかしこれ以上リュカ・ホワイトという人間の人生に、善人を巻き込みたくなかった。


「ここで断ったらまたサイが泣くけど。それでいいのか?」


 ノルはどうしてもリュカを独りにしたくないらしい。

 それはそうだ。目の前でこんなに弱りきって、居場所もなにもない、ただ死に場所を求めていると公言したのだから。心配されて当然だ。

 この場を立ち去るためには、リュカは少し余計なことを言い過ぎてしまったようだ。


「……わかったわ」


 これ以上善人を巻き込みたくなかった。しかしノルの勢いに負けて、リュカは渋々頷いた。

 リュカがこの提案を蹴れば、善人サイが泣く。雑ではあるが、リュカにはよく効く脅し文句だった。


「あ、アトスっていうのは僕のおじいちゃんのことだよ。この家は僕とおじいちゃんの二人暮らしなんだ! 今はデニルおじさんのお家の屋根を直すお手伝いをしに行ってるはずだよ」


 リュカが頷くのを見て、サイは口角を上げると嬉しそうに説明を始めた。

 身振り手振りであっちの家に、こっちには畑があって、などとたくさん説明してくれているが、ここら辺の地形を知らないリュカにはなかなか伝わらなかった。


「それでね、それでね、おじいちゃんが屋根を直している間に僕が薪を集めるお手伝いを……って、ああ!」

「うん? どうしたんだ、サイ」


 先程まで楽しそうに話をしていたサイだったが、急に大声をあげた。驚いてリュカは肩を揺らし、ノルは首を傾げてサイに問いかけた。


「僕、薪の用意してない!」


 サイはしまったと言わんばかりの表情を浮かべると項垂れた。

 自身が任された仕事を忘れてしまっていたことに罪悪感を覚えたのだろう。手で顔を覆ってしまった。


「それは……私のせいね。サイはなにも悪くないわ。ごめんなさい」


 おそらくサイは、リュカと出会った森で薪を用意する予定だったのだ。だというのに、リュカを止めようとすることに必死で自身に与えられた本来の仕事の存在を忘れてリュカと話をしてしまっていた。

 これはサイではなくリュカが悪いのだと、リュカは申し訳なさを感じて頭を下げた。


「ううん、リュカのせいじゃないよ。僕、今からもう一度小屋に行ってくるね!」

「あっ、待て!」


 サイは首を横に振ると、パッと顔を上げてノルの静止を聞かずにそのまま家を飛び出していった。

 窓の外に森の方へ向かうサイの後ろ姿が見えた。


「はぁ、しかたがないな」


 その姿を見て、ノルはため息をついて立ち上がる。扉の取手を握ると振り返り、リュカに声をかけた。


「俺はサイについて行くからリュカは――」

「待って、私のせいだもの。私も手伝うわ」


 きっと優しい人のことだから、リュカには待機するように言うのだろう。それを察知してリュカはノルの言葉を遮って立ち上がった。


「いや、大丈夫だよ。それよりもリュカはこっちにおいで」


 そう言ってノルはリュカに手を差し伸ばす。

 リュカは不思議に思いながらも、家を出て森とは反対方向に進むノルのあとを追った。

 この村は自然豊かなところのようだ。見渡す限り建物よりも畑の方が多く感じた。


「ここだよ」


 リュカが村の光景に目を奪われながら歩いていると、ノルが足を止めた。

 そこは庭先に小さくてかわいらしい色とりどりの花が咲いた、黄色い外壁の家だった。ノルはなんの躊躇いもなく、扉をコンコンと軽快な音を立てながら叩く。


「スニーさん、ちょっといいかな?」

「あら、ノルちゃん。どうしたのって、本当にどうしたのよ、その子! 泥まみれじゃない!」


 ノック音が響き、少しすれば中から中年の女性が姿を現した。シンプルなワンピースの上に白いエプロンを着用していて、人の良さそうな顔をしている。

 そのスニーと呼ばれた女性はノルの後ろに立っていたリュカの姿を見ると、目を丸くした。


「急で申し訳ないけど、彼女に着替えを用意してほしいんだ」

「そういうこと。それなら任せて、嫁に行った娘の着替えが残っているはずだから! ほら、あなたも早くこっちにおいでなさいな、着替えましょう」


 突然の展開に困惑するリュカの手を強引に引いて、スニーは自身の家にリュカを引き込んだ。


「それじゃあ、よろしくお願いしますね」

「ええ、任せてちょうだいな」


 ノルはリュカをスニーに預けると、そのまま森の方へと向かっていってしまった。

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