#4 ゴーストシンガー

「別室のスタジオからなら歌えるなら、兄貴もオフコラボ入る?」

『まあ、出来なくはないよ、一応。ラグが発生しちゃった瞬間に終わるけど』

「流石にリスク高すぎか」

 兄貴の声帯から出る音は、歌だけだ。

 だからこそ、今日神波かんぱネラの歌として届けられるものがすべて俺の歌になることに対して思うところはあった。

 

 ほら、もう、息を吸うタイミングから違う。

 同じ曲、同じキー、ほとんど同じはずの声。

 手を取り合っているのではなく、むしろ正面から殴り合っている。

 元の声自体は同一人物のようなものだから、お互いの声は混ざる方が自然だ。

 でも、決して溶け合ってはいない。

 それぞれが個だと、主張し合っていた。

 一緒に歌っているのに、対立している。

 舐めるなよ偽者、歌声の主が本当は誰であるのかを。

 兄貴の声にそんな感情が宿っているように見えるのは、果たして俺の考えすぎなんだろうか。


 邪魔な前髪を払うように顔を横に振ると、ついでに憑き物も振り落とせたような気がした。

 俺に降りていた何かを逃がせた、みたいな。

 歌うために体力を消耗するのとは別で、何かを何かに捧げているような気がする。

 常温の水をペットボトル半分、一気に飲み干した。


「この曲の打ち合わせ、した?」

 幽禍かすかの声はじんわりとした揶揄を含んでいる。

 曲に対する擦り合わせの類を一度でもしたことがあったら、殴り合うようなデュエットにはならないだろう。

『なんもしてないね』

「兄貴が歌詞入れ出来てるって知らなかったくらい」

 淡々と諦念を歌う俺に対して、兄貴のそれは荒んでいた。

 兄貴が管を巻いているんだとしたら、俺は同じ歌詞を呟きながらも冷笑している。

 別に途中から合わせようと思えば合わせられたんだろうけれど、どちらも譲らないまま最後まで駆け抜けてしまった。


『歌自体が孤独な青年って感じじゃん、それに引っ張られたわ』

「こいつに負けてたまるかって」

『やっぱそうなるよな』

 世俗的な言い方をするのなら、何かに取り憑かれている時のそれ。

 全米が泣いた名作映画を見て泣いたことはないけど、一曲聴けば泣ける。


「それってさぁ、逆に青春全開の歌だったら仲良しになるの?」

「どうなんだろう、そういう曲選ばないわ、声質にあんまり似合わないし」

らんみたいな主人公系の声してないから』

 どちらかと言わなくても、ライバルや敵役が似合う声ではある。

 その癖、体格や体の年齢はきっちりと声に反映されていて、まあ十代後半から二十代前半、ガタイもそこまで良く無さそうな声だ。

 口調自体は、ずっと一緒に居た紗鳥さとりのものにかなり寄っているから、発声の癖なんだろうか。


「がなると迫力あるやんな、ネラは」

「声変わり前はあんなに可愛いボーイソプラノだったのに」

 しみじみと懐かしんでいる幽禍かすかのそれは、若干の揶揄を含んでいる。

『言ったな?』

「オレより地声が低くなるとは思わないじゃん、ねぇ?」

『歌う時の最高音は今だってお前より高いけど?』

 放っておくと、兄貴は幽禍かすかとばかり話を続けそうだ。


「兄貴の歌い方を聴けたから、配信ではそっちに寄せようか」

『いい、いい。好きに歌いな、ゴーストシンガーじゃないんだから』

 初めて俺が神波かんぱネラとして歌を投稿した時、知らない声だとコメントがついた。

 歌い方がいつもと違う、ネラくんは何人居るんだろうなんて、誇張表現だろうそれが、実は二人だという事実に最も近しい。

 後から兄貴に同じ曲を歌って貰ったら、歌い方が違いすぎて手を叩いたんだったか。

 兄貴が歌動画の中の神波かんぱネラのことをあまりにも他人事みたいに語るから、動画のちょっとした目の色味の違いにまで存在しない意味を見出されたりして。


「また、別人みたいとか言われない?」

『いいんじゃない、実際別人だしな』

「好きに言わせとけばいいよ。僕も、馬酔木濫あせびらんふたりいるだろって言われたことあるし、そんなもん」

 らんは柔らかく優しい声で、随分と視聴者に冷たいことを言う。

 二人居ると言われる理由はその辺りなのかもしれない。

『俺はそろそろこの辺で。じゃ、また後で』

 幽禍かすかがアプリを閉じて、兄貴の声が聞こえなくなって、らんがマイクを持った。


 俺に視線の集まる時間は一旦終わり。

 マラソン直後のような心拍数の上がり方、歌い終わってから今でもずっと、小刻みに震え続ける手足。

 兄貴が人前で歌えない理由は、俺自身の体が明示している。

 むしろ、俺だってゴーストシンガーに徹したいくらいだ。

「ネラ、車椅子押して。そっち行きたい」

「……はいよ」

 幽禍かすかの声が、兄貴に甘えているそれに聞こえて、返事を躊躇った。

 美甘周みかもあまね伴紗鳥ばんさとりの足で、伴紗鳥ばんさとり美甘周みかもあまねの声だった。


 幽禍かすかは子どもの頃、自宅の駐車場で親に車で轢かれた。

 

 事故で轢いてしまったけれど大切に育てられてはいたのだから、当然彼は事故に遭ってからもその家で育っている訳で。

 でも、それって被害者と加害者の同居だ。しかも、事故現場での。

 迷子紐を着けていそうな年齢だったらしい紗鳥さとり紗鳥さとりから目を離した誰か、轢いてしまった誰か。

 誰だけが悪いという話でも無く、ただただ事故で、だからこそ彼の家族とのぎこちなさはどうしようも無かったらしい。

 彼の悩みや慟哭を俺は知っている。

 でも、彼が打ち明けた相手は兄貴であって、俺じゃない。

 ただ、俺が生まれた時から記憶の中にあるだけ。

 

 車椅子の向きを変えようと二回切り返したところで、知らない大人が駆け寄って来る。

「お手伝いしましょうか?」

 声を聞いても、知らない相手だと再認識したに過ぎなかった。

「……ぇ」

「ありがとうございます」

 口ごもった俺の代わりに、幽禍かすかが礼を言った。

 誰かのマネージャーなのか、今日限定で関わりのあるスタッフなのかも俺には判別出来ない。

 そして、俺が判別出来ていなくても恐らく大きな支障は発生しない。

 こうやって、いきなり話しかけられた時に少し驚くくらいだ。

 色んなことを兄貴に任せきりだからだけでなく、演者とスタッフの属人性は大違いだから。


 コンビニで買い物してくることはこの現場内の誰にでも出来るけれど、神波かんぱネラの声で歌えるのは現場内だと俺だけ。

 他の演者は当然、Vtuberひとり辺り演者ひとりだから、倍居るだけでも属人性はマシな方だ。

 俺が兄貴と共に生きて来た双子の弟だからこそ、同一性を求められている神波かんぱネラの一部を出来ているとも考えられる。

 兄貴と自分に大きく違う部分があるという事実が恐ろしい。

 俺の何がどう作用して、同じ曲を歌う時の解釈がああも離れてしまうのか。

 俺と兄貴の何がどう違うのか。

 俺が直接会ったことがある兄貴は初めから神波かんぱネラでもあって、俺には俺個人としての他者との交流が存在しない。

 仮に兄貴を他人だと切り離してしまうと、他人の記憶を山ほど持って生まれたことになるし。

 俺って、一体誰なんだろう。

 

「音そろそろ入るでぇ」

 レモンからの合図を受けて、幽禍かすかにマイクを手渡した。

『もう音入った?』

 俺用のマイクだけが、机の上に転がっている。

「まだやで、まだ、五、四、三」

 二から先は、スタッフの手の動きだけで示された。


「こんばんはー!」

 誰もその場から一歩も動いていないのに、俺以外の全員が舞台の上に立っているような気がした。

 声の張り方、話し方、表情、それらのすべてが、突然作り物のそれに変わっていた。

 声量は体感で二倍以上になっただろうか。

 確かにこれも彼らではあるんだけれど、例えば電話に出る時の外面に近いような、感覚としてはそれより遥かに遠いような。

 ただ、彼らの創り出す虚像の表面をなぞっている。

 

 俺は、虚像の影でありたい。

 代替性のある歯車になりたい。

 カメラを向けられるのではなく、せめてマイクを差し出す側になりたかった。

 スポットライトの当たらない場所で息をしたい。

 配信で何を話そうか考えると頭が痛くなるから、歌に逃げて。

 配信をつけようと思うと震える指を隠して、徐々に頻度を減らし、こうして周囲に全部お膳立てされた場にようやく立っている。

 どれだけ人手の足りていないコンビニだって、三歳児はお断りだろう。

 だから、俺の居場所はここくらいなんだけれど。


 いつどうなるか分からない彼方者あっちもの、戸籍上は三歳児。

 仮に俺が彼方者あっちものではないか、三歳児扱いではなかったとして。

 選択肢がもっと存在したら、少なくとも俺はここに居なかった。

 出来ることと、やりたいことは違う。

 容姿が世間一般から非常に好ましいと言われる人が居たとして、その人が必ずしもモデルになりたいとは限らない。

 俺だって、それと似たようなものなんだろう。

 中身がしょっちゅう入れ替わる都合もあって、あまりはっきりと表情をトラッキングしないように調整されたガワが心底ありがたかった。

 仮に、もっと喜怒哀楽のはっきりと映し出される他のガワを今の俺が被ったら、さぞかし緊張に張りつめた固い表情をしているだろう。

 固いのなんて右腕だけで十分だ。


 オープニング、挨拶代わりに主催が歌っている。

 レモンの歌声は炭酸がよく効いていて、生ぬるいただの水を飲んでいるのに、よく冷えた水を飲んでいるような気分にもなる。

 瓶のコーラ、もしくはモヒート辺りか。

 彼のさざなみレモンという芸名を決めたのが誰なのかは知らないけれど、随分とセンスがいい。

 

「うっま」

 広げられたポテチを一枚つまみつつ、たった今歌い終わったレモンに賛辞を送る。

 底抜けの明るさ、

「それは、俺の歌が上手いって意味やんな?」

「ん? 菓子のことだけど」

「言いよったなコイツ」

「冗談、冗談」

 声色に笑っているような空気を含ませることは出来ているだろうか。

 指先の温度がどんどん下がっているような気がする。

 温かいものを飲みたい。

「次、席順にするなららんだけど、どう? いけそう?」

「僕? おっけー。あのさ、」

 らんはマイクから口元を離して、俺に顔を寄せた。

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