第109話 紫宸殿での対立

 季節は秋——。禁中では季節を愛でる様々な年間行事が中止とされていたが、唯一、菊の花が好きな鷲尾わしお帝の意向によって、菊見の宴だけは開催の運びをなった。雨の中、紫宸殿ししんでんに集まる群臣、女官らに、華やかな要素など一つもない。みな、『美麗狩り』によって、家族や大切な者らを亡くし、自らも醜く生きるため、どこかしらに痛々しい傷を負う者ばかりであった。そこに颯爽と現れた、見目麗しい時宮ときのみや。背後には豪華な狩衣姿の水影みなかげ安孫あそんが控え、御簾みすの前で、鷲尾帝と対峙するように座った。

「あの阿呆め、目立つなとあれほど申したであろうにっ……」

 苛立つ晴政に、「嵐とならぬと良いがのう」と道久も鼻息を漏らす。異様な雰囲気の紫宸殿にて、誰も彼もが戦々恐々とする。その場にいるすべての者が、鷲尾帝の異常さに気づいている。そうして、時宮がこの場にて粛清しゅくせいされる未来が、容易に想像できた。

「……これで良いのでありましょうや、水影殿。主上が我らを一網打尽とされれば、いくら何でも分が悪すぎまするぞ」

 ひそひそと、安孫が隣に座る水影に話す。

「ご案じ召されますな、安孫殿。左様なことが起きたらば、私が時宮様をお連れして逃げまする。貴殿は一人、追っ手を食い止めて下されば良いのです」

「それは、それがし一人が犠牲になれと?」

「左様。勇猛果敢な武人であらば、それも誉にございましょう?」

「うーん、誉かと聞かれれば、誉……か?」

 安孫が頭の中で、誉とは何ぞやという、その神髄に迫るも、うーんと眉間にしわを寄せる。

如何どうでもよいことで悩まれますな、安孫殿。貴殿はただ、我らの盾となれば良いだけのこと」

「ん、んー……ぎょい」

 どこか納得のいかない安孫であったが、前に座る時宮の冷静な背中に、「守るべきは、時宮様」と父ら同様、覚悟を決めた。

 御簾の奥に座る鷲尾帝が、目の前に鎮座する時宮に、ふっと笑う。傍らには烏丸衆からすましゅうらの公達が控えており、すでに摂政、春日道久と、後見人、三条晴政の後ろ盾など必要なかった。

「——ふむ。何やら臭うのう。の臭いの元は、誰じゃ?」

 俄かに鷲尾帝が言葉を発し、紫宸殿内がしんと静まり返る。雨だけが、強く地面に打ち付ける音がする。

「時宮よ、そなたから臭うてくる。この臭いは何ぞ」

「おや、竜胆りんどうが花にて調合した匂い袋を持っておりまするが、それが匂うのでありましょうや? されど、竜胆が花の匂いなど、かすかなものにございまするがな」

 どこか愉快そうに話す時宮が、扇にて自分の匂いを嗅ぐ。

「主上が不快に思われる匂いならば、お詫び申し上げまする」

 笑みを浮かべ、御簾の奥に鎮座する鷲尾帝に、ほんの少しばかりこうべを垂れる。どこまでも余裕を見せつけてくる時宮に、鷲尾帝の怒りが向けられた。

「臭い。臭いぞ、時宮。ちんから離れよ」

 ぐっと鷲尾帝を見据える時宮が、「……御意」と、その意向に従う。

「……そなたらは此処ここで待て」

 ぽつりと水影と安孫に伝えた時宮が、紫宸殿の廊下まで下がった。

「此処ならば、匂いませぬかな?」

 いきり立った鷲尾帝が、御簾から出てずんずんと時宮の元まで下った。冷酷な表情で、時宮を見下す。

「臭うぞ、時宮。くそうて堪らぬ。地べたに這いつくばれ」

「地べたとは、雨溜あめだまりが出来ておりまするが?」

「丁度良いではないか。泥にまみれれば、そなたの臭いもましになろう。それに、その美麗な顔立ちも、けがれて、朕好みにもなろうぞ」

 幼子とは思えない発言に、群臣らは固唾を呑んで、沈黙している。この場にて待つよう言われた水影と安孫は、ぐっと奥歯を噛み締め、怒りを抑えている。

 時宮は言われるがまま、雨が降りしきる地べたに座った。目の前には雨溜まりが出来ていて、泥水が、対峙する時宮と鷲尾帝の姿を映している。その雨溜まりに、鷲尾帝が自分の扇を放り投げた。跳ね返った泥水が、時宮の顔に飛んだ。

「……手が滑った。朕の扇を拾うことを赦そう、時宮」

「それは、有難き名誉にございまするな、叔父上」

 対立する両者に、「……兄上」と東宮、鷹宮たかのみやが、ぎゅっと唇を噛み締める。泥水に浮かぶ扇を拾おうとした時宮を、鷲尾帝が制止する。

「何を手で拾おうとしておるのじゃ、時宮よ。口で拾うのじゃ」

 その発言に、周囲に動揺が走った。

「なっ……、いくら主上とあれど、節度がなさすぎまするっ! 貴殿はどう思われるか、水影殿。……ん? 水影殿?」

 いきり立つ安孫が、隣にいた水影に話しかけるも、その姿はなかった。両者の間にそそくさと現れた水影が、時宮の隣に座り、口にて鷲尾帝の扇を拾い上げた。

「水影……?」

 時宮の目が見開く。その屈辱に、ぎりっと鷲尾帝を睨みつけた。


「何をやっておるのじゃ、彼奴きゃつは……」

「ふふ。弱き者が強き者に虐げられるを見ておられぬは、誰かにそっくりじゃのう、晴政」

「はあ~」

 額を搔きながら、晴政が、どっと溜息を吐いた。

 

 扇を咥えたまま、じっと鋭い眼差しを向ける水影に、鷲尾帝が冷笑を浮かべる。

「そなたがの有名な三条水影か。“視えざる者”らの身代わりをするには、ちと美しすぎるのう。如何どうじゃ、。朕の愛玩にならぬか? そなたであらば、朕の目に触れることを赦そう」

 鷲尾帝が水影の口から扇を受取り、そっと微笑みを浮かべる。

「……嫌にございまする。我が主は、時宮様ただ御一人にございますれば、嫌いな帝に仕えるなど、虫唾が走る蛮行にございまする」

「水影っ……!」と時宮の顔が明るんだ。

 きっぱりと言い放った水影に、なにを……、と晴政が言葉にならない声で言う。

「……左様か。ならば仕方あるまい。壊すには、ちと惜しいがのう。朕のものにならぬのであらば、そなたなどいらぬ。今この場にて、ずたずたに切り裂いてくれよう」

 懐から短刀を取り出した鷲尾帝が、それを水影に向かい振りかざす。

「水影っ……」

 咄嗟に時宮が庇うも、その背に短刀が突きつけられることはなかった。

「——我が主を傷つけんとする者は、たとえ帝であっても、許しませぬ!」

 時宮を庇うようにして、短刀を太刀で受け止めた、巨漢。

「安孫っ……!」

「春日安孫っ……」

 

 鷲尾帝の悔しがる表情に、晴政の愉悦が止まらない。

「ふふ。主に絶対の忠誠を誓うは、誰かにそっくりじゃのう、道久」

「まったく。言うことを聞かぬ息子らよ」

 今度は道久が大きく溜息を吐いた。それでも、息子らの行動は、父としては誇らしかった。二人が顔を見合わせ、口を開く。

「まったく。誰かに似て、不憫な(愛らしい)子よ!」

 晴政が不憫と言ったのに対し、道久は愛らしいと言った。

 

 自分に歯向かう三人の公達を、鷲尾帝が忌ま忌ましく見つめる。

「すべては時宮、そなたのせいぞ! そなたのせいで、朕は斯様にもっ……」

 左目の繃帯ほうたいを押さえ、鷲尾帝が喚き散らす。それを勝機と見た道久と晴政の二人が立ち上がり、鷲尾帝の目前に平伏した。

「……れまでにございまする、主上。臣下は……民は、主上が世を望んではおりませぬ」

「なにを申すかっ、三条! 斯様な無礼が赦されてなるものかっ……!」

「幼き帝の、哀れなる世は終わりを迎えたのですぞ。この場にて、時宮様を帝とし、主上を鷲尾院と奉りまする。世を乱した罰として、院は我らと共に、隠岐おきへと下りましょうぞ」

 相当の覚悟を持って、道久が引導を渡す。

「なっ……! 隠岐とは、それ即ち流罪ではないか! 朕を流刑に処すなど、何人たりとも出来ぬ!」

 取り乱す鷲尾帝に、ふっと時宮が笑う。

「今この場にて、私が帝に即位いたしましたぞ、叔父上。ゆえに、今この場にて初勅しょちょくを宣言する。我が愛する者らを悉く粛清し、貴重な民らの命を奪った鷲尾院は、隠岐へと流罪とする。鷲尾院を担ぎ上げんとする烏丸衆一派も捕らえよ」

「御意!」

 その場に居合わせる武官らが、束となり烏丸衆一派を捕らえた。

「斯様な即位など認められぬっ……! 朕はこの国が神ぞ! 朕こそが絶対君主!」

「っふ。此の世に神などおりませぬ。人が神になることもありませぬ」

 信仰心を捨てた水影が、冷めた目で言い放つ。

「おのれ時宮っ……! 此れで終わりと思うでないぞ! 必ずや我が世を取り戻してくれようっ……!」

 武官らに捕らえられた鷲尾院の鳩尾みぞおちを、「御免っ……」と安孫が刀の柄で突く。ぶらんと気を失った鷲尾院を、晴政と道久が隠岐へと幽閉するために、連れていく。

「……父上」

しばしの別れぞ、安孫。そなたが主上をお守りせよ」

「御意……」

 そっと微笑みを浮かべた道久が、安孫の頭をなでる。

「……父上」

「水影、……実泰さねやすを頼んだぞ」

「……っ、存じておりまするっ」

 晴政が、泥水のついた水影の口元を拭った。

「……自分で拭えまするっ」

 どこまでも不遜な息子の態度に、晴政は最後の言葉はかけなかった。


 思いかけず帝に即位した時宮が、夕暮れ空に浮かんだ月を見上げた。目の前を、朱鷺ときが三羽飛び交っていった。

「ほう、朱鷺か。これは縁起が良いのう」

 かつて、朔良さくら式部が自分のことを時様と呼んでいたことを思い出した。

「時、朱鷺……。うむ、朱鷺さえずりし世の始まりを、我が帝の名としよう。そなたは如何どう思う? 朔良式部」

 帰ってくる言葉はなくとも、遠くから聞こえた朱鷺の鳴き声が、それを肯定していると信じてやまなかった。

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