第109話 紫宸殿での対立
季節は秋——。禁中では季節を愛でる様々な年間行事が中止とされていたが、唯一、菊の花が好きな
「あの阿呆め、目立つなとあれほど申したであろうにっ……」
苛立つ晴政に、「嵐とならぬと良いがのう」と道久も鼻息を漏らす。異様な雰囲気の紫宸殿にて、誰も彼もが戦々恐々とする。その場にいるすべての者が、鷲尾帝の異常さに気づいている。そうして、時宮がこの場にて
「……これで良いのでありましょうや、水影殿。主上が我らを一網打尽とされれば、いくら何でも分が悪すぎまするぞ」
ひそひそと、安孫が隣に座る水影に話す。
「ご案じ召されますな、安孫殿。左様なことが起きたらば、私が時宮様をお連れして逃げまする。貴殿は一人、追っ手を食い止めて下されば良いのです」
「それは、
「左様。勇猛果敢な武人であらば、それも誉にございましょう?」
「うーん、誉かと聞かれれば、誉……か?」
安孫が頭の中で、誉とは何ぞやという、その神髄に迫るも、うーんと眉間にしわを寄せる。
「
「ん、んー……ぎょい」
どこか納得のいかない安孫であったが、前に座る時宮の冷静な背中に、「守るべきは、時宮様」と父ら同様、覚悟を決めた。
御簾の奥に座る鷲尾帝が、目の前に鎮座する時宮に、ふっと笑う。傍らには
「——ふむ。何やら臭うのう。
俄かに鷲尾帝が言葉を発し、紫宸殿内がしんと静まり返る。雨だけが、強く地面に打ち付ける音がする。
「時宮よ、そなたから臭うてくる。この臭いは何ぞ」
「おや、
どこか愉快そうに話す時宮が、扇にて自分の匂いを嗅ぐ。
「主上が不快に思われる匂いならば、お詫び申し上げまする」
笑みを浮かべ、御簾の奥に鎮座する鷲尾帝に、ほんの少しばかり
「臭い。臭いぞ、時宮。
ぐっと鷲尾帝を見据える時宮が、「……御意」と、その意向に従う。
「……そなたらは
ぽつりと水影と安孫に伝えた時宮が、紫宸殿の廊下まで下がった。
「此処ならば、匂いませぬかな?」
いきり立った鷲尾帝が、御簾から出てずんずんと時宮の元まで下った。冷酷な表情で、時宮を見下す。
「臭うぞ、時宮。
「地べたとは、
「丁度良いではないか。泥にまみれれば、そなたの臭いもましになろう。それに、その美麗な顔立ちも、
幼子とは思えない発言に、群臣らは固唾を呑んで、沈黙している。この場にて待つよう言われた水影と安孫は、ぐっと奥歯を噛み締め、怒りを抑えている。
時宮は言われるがまま、雨が降りしきる地べたに座った。目の前には雨溜まりが出来ていて、泥水が、対峙する時宮と鷲尾帝の姿を映している。その雨溜まりに、鷲尾帝が自分の扇を放り投げた。跳ね返った泥水が、時宮の顔に飛んだ。
「……手が滑った。朕の扇を拾うことを赦そう、時宮」
「それは、有難き名誉にございまするな、叔父上」
対立する両者に、「……兄上」と東宮、
「何を手で拾おうとしておるのじゃ、時宮よ。口で拾うのじゃ」
その発言に、周囲に動揺が走った。
「なっ……、いくら主上とあれど、節度がなさすぎまするっ! 貴殿はどう思われるか、水影殿。……ん? 水影殿?」
いきり立つ安孫が、隣にいた水影に話しかけるも、その姿はなかった。両者の間にそそくさと現れた水影が、時宮の隣に座り、口にて鷲尾帝の扇を拾い上げた。
「水影……?」
時宮の目が見開く。その屈辱に、ぎりっと鷲尾帝を睨みつけた。
「何をやっておるのじゃ、
「ふふ。弱き者が強き者に虐げられるを見ておられぬは、誰かにそっくりじゃのう、晴政」
「はあ~」
額を搔きながら、晴政が、どっと溜息を吐いた。
扇を咥えたまま、じっと鋭い眼差しを向ける水影に、鷲尾帝が冷笑を浮かべる。
「そなたが
鷲尾帝が水影の口から扇を受取り、そっと微笑みを浮かべる。
「……嫌にございまする。我が主は、時宮様ただ御一人にございますれば、嫌いな帝に仕えるなど、虫唾が走る蛮行にございまする」
「水影っ……!」と時宮の顔が明るんだ。
きっぱりと言い放った水影に、なにを……、と晴政が言葉にならない声で言う。
「……左様か。ならば仕方あるまい。壊すには、ちと惜しいがのう。朕のものにならぬのであらば、そなたなどいらぬ。今この場にて、ずたずたに切り裂いてくれよう」
懐から短刀を取り出した鷲尾帝が、それを水影に向かい振りかざす。
「水影っ……」
咄嗟に時宮が庇うも、その背に短刀が突きつけられることはなかった。
「——我が主を傷つけんとする者は、たとえ帝であっても、許しませぬ!」
時宮を庇うようにして、短刀を太刀で受け止めた、巨漢。
「安孫っ……!」
「春日安孫っ……」
鷲尾帝の悔しがる表情に、晴政の愉悦が止まらない。
「ふふ。主に絶対の忠誠を誓うは、誰かにそっくりじゃのう、道久」
「まったく。言うことを聞かぬ息子らよ」
今度は道久が大きく溜息を吐いた。それでも、息子らの行動は、父としては誇らしかった。二人が顔を見合わせ、口を開く。
「まったく。誰かに似て、不憫な(愛らしい)子よ!」
晴政が不憫と言ったのに対し、道久は愛らしいと言った。
自分に歯向かう三人の公達を、鷲尾帝が忌ま忌ましく見つめる。
「すべては時宮、そなたのせいぞ! そなたのせいで、朕は斯様にもっ……」
左目の
「……
「なにを申すかっ、三条! 斯様な無礼が赦されてなるものかっ……!」
「幼き帝の、哀れなる世は終わりを迎えたのですぞ。この場にて、時宮様を帝とし、主上を鷲尾院と奉りまする。世を乱した罰として、院は我らと共に、
相当の覚悟を持って、道久が引導を渡す。
「なっ……! 隠岐とは、それ即ち流罪ではないか! 朕を流刑に処すなど、何人たりとも出来ぬ!」
取り乱す鷲尾帝に、ふっと時宮が笑う。
「今この場にて、私が帝に即位いたしましたぞ、叔父上。ゆえに、今この場にて
「御意!」
その場に居合わせる武官らが、束となり烏丸衆一派を捕らえた。
「斯様な即位など認められぬっ……! 朕はこの国が神ぞ! 朕こそが絶対君主!」
「っふ。此の世に神などおりませぬ。人が神になることもありませぬ」
信仰心を捨てた水影が、冷めた目で言い放つ。
「おのれ時宮っ……! 此れで終わりと思うでないぞ! 必ずや我が世を取り戻してくれようっ……!」
武官らに捕らえられた鷲尾院の
「……父上」
「
「御意……」
そっと微笑みを浮かべた道久が、安孫の頭をなでる。
「……父上」
「水影、……
「……っ、存じておりまするっ」
晴政が、泥水のついた水影の口元を拭った。
「……自分で拭えまするっ」
どこまでも不遜な息子の態度に、晴政は最後の言葉はかけなかった。
思いかけず帝に即位した時宮が、夕暮れ空に浮かんだ月を見上げた。目の前を、
「ほう、朱鷺か。これは縁起が良いのう」
かつて、
「時、朱鷺……。うむ、朱鷺さえずりし世の始まりを、我が帝の名としよう。そなたは
帰ってくる言葉はなくとも、遠くから聞こえた朱鷺の鳴き声が、それを肯定していると信じてやまなかった。
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