三つ指に夜咄

@yonakahikari

キリカ

 彫刻刀で眼を刺すと痛い。

 斯様に文字として起こしてみれば、なんと間抜けな字面だろうか。

 無論、間抜けなのは表面だけではない。内に包んだ意味もまた深からず、語る程の事でもなければ、想像するまでもない奇行蛮行である。ましてや試そうなどと、誰が思うだろうか。

 握り締めた刃を以て自らの虹彩を抉り、視神経と毛細血管を八つ裂きにして、何の機能も果たさないゼラチンの塊にしてしまおうなどと。まぶたから零れる赤黒いおり生温なまぬるさ、その感覚に酔いしれ、退廃的な自滅願望を満たし己を慰めようなどと、誰も思うまい。これも阿呆な言い方になってしまうが、そんなのは試すまでもない事だ。彫刻刀で目を刺すと痛い。決まっている。そんな事は、狂気の沙汰なのである。

 もし仮に其を成した人間が居たならば、その動機は決して知的好奇心の類ではないだろう。円藤桐花えんどうきりかの右目が最期に映したのは、鈍色に輝く鋭利な尖端であり、脳天に直接叩き込まれたかの如き煩悶はんもんは、断末魔の叫びのようだった。

「   」

 言葉の体を為さない悲鳴が四方八方を囲んで埋め尽くす。昼下がりの校舎に似つかわしくない、鼓膜を劈くほどのおどろおどろしいノイズ。その奔流を受けながら、少女は歯を食いしばる。

 ひざまずき、蠕動ぜんどうするおのが骨身を抑え込むようにうずくまっていた。視覚を失った右目の奥深くで、異物が不安定に揺れる感覚を覚える。その度にがん、がんと、釣鐘を叩くように、絶え間ない痛みが脳裏に木霊する。

 左の視界も曖昧だ。目前のタイルにぼたぼたと落ちる赤い斑点、その輪郭を捉える事すら困難で、後頭部から沸き立つ熱が、景色を赤いもやで染め上げる。

「ゥぐ」

 うなされるように溢した声は、獣の唸りに似ている。其がよわい十にも満たぬ少女の喉元から発せられているという事実を、直視できる人間は数少ないだろう。愛らしい水玉のワンピースは延々としたたる血に浸かり、か細い腕には青筋が浮き上がっていた。

 皺の寄った眉根。高い鼻骨に汗が伝う。荒い吐息の間から覗く犬歯が、紫がかった下唇をぎりぎりと噛む。滲み出る血がべにの如く、少女の口元に艶めきを与えている。

 手負いの獣。

 其を思わせる風貌の中で、然し何よりも——右目にそびえる凶器よりもだ——際立っていたのは左目の虹彩だった。否、そのように暴力的な姿であるからこそ、其は異彩として燦然さんぜんえていた。

 瞳孔の黒を縁取るオレンジは、日食を連想させる。拡散する青、其を幾条かに裂く白が揺らめき、外周をなぞる碧まで伸びている。正円の中に描かれた鮮やかな色彩は、星のようだとも、或いは宝石のようだとも喩えられる。歪んだ余白にひび割れの如く走る血管の、その野蛮な赤さえも、麗しさを飾り立てる〝細工〟として機能していた。 

 其に睨まれて、たじろぐ事をはたから咎めるのは、些か以上に無慈悲だ。

 まして舞台は午後の微睡み、普段なら児童たちの笑みや喚声が沸き立っている筈の図工室である。今や惨劇の壇上と化した室内には、恐れに惑う悲鳴と騒乱が忙しなく蠢いている。

 赴任して間もなく、経験にも乏しい若年の男性教師の手には余る状況だという事は、想像に難くあるまい。尤も、斯様な状況にまみえた経験のある教職員など、その方が稀であろうが。

「ぁア」

 故に、責めるのはあまりにもむごい。

 息を呑み、茫然と佇んでしまった事。ふと我に返った彼が、児童たちを落ち着かせようと張り上げた大声が、全くの逆効果であった事も。

 その声よりも低く獰猛な声を上げた少女が、自らの顔面から凶器を引き抜き、ゆらりと立ち上がった刹那……その視線に射貫かれた彼が反射的に感じた畏れの中に、一縷いちるの陶酔が含まれていた事も。

 凶器を構えた少女の腕に衝動を突き動かされ、華奢な体躯を、一切の加減無い膂力で強引に押さえ込んだ事も。それが少女の左目に今一度、刃が突き立てられる寸前にしてようやく遂行された事も。

 事態の収束には遅過ぎる一手だったとしても。

 責めるのはあまりにも、惨い。

 それが罪だというならば、彼は誰に咎められるまでもない、相応の罰を受けている。この日を境にして、彼が再び教壇に立つ事は、二度となかったのだから。

 そんな或る日の記憶を、宙に指差して少女、桐花は呟く。

「つまんない思い出」

 その出来事は居合わせた者、異変に気付き駆け付けた者、それら全ての人間にとって鮮烈で、凄惨な記憶として焼き付いている。

 当日、桐花の隣席に座っていた女の子は、翌日から自室に閉じこもるようになったという。前に座っていた男の子は、騒ぎの中で揉みくちゃになって、全治三ヵ月の怪我をしたらしい。クラスメートにはメンタルケアが施され、全生徒、教員を対象に事情聴取を兼ねたアンケートが実施された。

 強制的に運び込まれた病院で、治療と聴取を終えた桐花が再び登校するようになってからというもの、周囲の態度は以前と全く異なる形に変化していた。

 あどけない少女の顔立ちに不釣り合いな大きさの眼帯の奥、失われた右目の輝きを補うかのように、煌々と鋭さを増した左目に、彼等は怯えた眼差しを向けるようになったのだ。

 マスコミが連日連夜、群れを成して桐花の自宅を囲み、母親はノイローゼになって、父親はひどく神経質になった。テレビのニュースを見ても少女Aの異常行動は、現代社会が抱える精神的問題の現れであるとして取り上げられていたし、著名なコメンテータが口を揃えて「恐ろしい世の中だ」「彼女もまた被害者なのだ」という、明後日の方向に向けた感想を述べていたものだから、思わず笑ってしまいそうになったのを覚えている。

 きっとあの出来事は、それくらいにセンセーショナルだったのだろう、と。社会的には三ヵ月ほど、付近の人々にとっては、五年以上過ぎた今でも噂するほどに。

 少なくとも、少女A以外にとっては。

 当の桐花といえば、何処どこ吹く風。必要に迫られて渋々と覗いた鏡に映る眼帯を眺めた時、たまに思い出すくらいである。それも忌々しい光彩を放つ左目と視線が合えば、舌打ちの空音そらねと共に消え去ってしまう程度の代物だった。

 だから、というわけでもないのだが。

「つまんない、て。お前さぁ」

 澄み渡る青空から視線を外し、横合いを見下ろせば、冷たい床に座り込んだ少年が、錆びたフェンスにもたれかかって溜息を吐いている。

「その認識、改めるなり隠すなりしといた方がいいぞ。マトモじゃないから」

 少年は生温かな助言を宣いつつ、膝に置いたレジ袋に手を突っ込んだ。ガサガサと音を立てて、中から惣菜パンを取り出した。なんとはなしにその姿を眺めていると、視線に気付いたのかこちらを一瞥して。

「やらねぇぞ」

「いらねぇよ」

 今度は桐花が呆れる番だった。

「言われなくても、マトモな人にこんなの言ったりしないよ」

 吐き捨てるように呟けば、パンを一口齧った少年、廣峯ひろみねはもごもごと口を動かした後、大袈裟に首を動かしてパンを呑み込む素振りを見せた。暢気な様子は年相応というべきなのか、十七にもなって、わざとらしいというべきか。目を細め、訝しむように桐花を見上げ、口を尖らせる。

「それ、俺がマトモじゃないって言ってる?」

「言ってる」

 廣峯は「はん」と鼻を鳴らし、桐花からパンへと目を戻した。

「冗談」

 言って、食事に戻る彼の内心が桐花には分からない。本当に思っているのだろうか。今の言葉が、普段のやりとりと変わらない、他愛のないジョークの延長線上にある、と。

(冗談なわけないじゃん)

 元々、桐花は他人に関心を持つタイプではない。幼少より今に到るまで、友人と呼べる相手は一人もいなかった。

 時々、野次馬のような輩が思い思いの笑顔で擦り寄ってくる事はあったが、大方すぐに姿を消した。理由は語るまでもない。

 廣峯とは小学生の頃、偶々たまたま同じ『いきものがかり』になってからの腐れ縁だが、くだんの出来事の前後で関係性が変わらなかったのは、血縁を除けば彼だけだ。

 あの頃から彼は、今と同じように暢気で、どこか気だるげなふうを纏っている。そうして〝偶々たまたま〟同じ場所に居て、何となく憎まれ口を叩き合いながら、まるで友人のように喋っている。

 あんな事があって、誰しもが変わり、変わらざるを得なくなったというのに、この男だけは何も変わらない。それが、マトモであるはずがない……のだけれど。

「お前と比べりゃよっほどマトモ」

「……」

 そう言われると、何も言い返せなかった。

 マトモであるという事が、何を以て証明されるのかは分からない。けれど自分が、円藤桐花という人間がマトモではない事は、諸々の事情をかんがみれば明白であるように思う。その自分と比べれば、廣峯に感じる異常性など、常軌の範疇なのかもしれない。

「おい、黙るなよ」

 ふと我に返り、廣峯を見る。彼は気まずそうな顔色で、二度目の溜息を吐いた。

「冗談だっての」

「冗談なのかな」

 其は無意識に発した言葉だった。桐花自身、その言葉が自分の口から零れたものだと瞬時に気付けなかった。そうだと認識し、当惑から閉口してしまう。

 昔から、冗談を見分けるのは苦手だ。故にジョークを考えるのも至難で、過去に廣峯が其と認識したであろう桐花の言葉の数々も、桐花からしてみれば全て本意なのである。

 言ったことがないから分からないのか、それとも別の要因なのか。ともあれ、これは桐花が幼少から抱える〝マトモじゃない〟性質だ。否、或いは根源的性質が別にあって、その表出の一つとして、其があるのか。

 ふと、我に返る。

「痛っ」

 ひたいを小突かれる。いつの間に立ち上がったのか、頭二つ分高い所から覗き込むようにして近付けられた黒い瞳が、仄かな温かさを伴って、桐花の左目を映していた。

「悪い癖だからなそれ」

「何が」

「『ワタシ、ホントは可哀想なオンナノコなんです』みたいな雰囲気出したろ、今」

「え?」

 首を傾げる桐花。

「あー無理無理、無理だってそれは」

 片手をひらひらとさせ、否定を示す廣峯。

「お前、とぼけるの下手過ぎん? 女子の才能皆無では?」

 言われ、桐花は顔をしかめる。

「生まれ持った性別に才能とかいう概念絡むのかよ」

「らしいな。俺も今知ったばかりで、驚愕に震えてるよ」

 冗談。これはすぐに見分けられた。芝居がかった口調と動作が、いかにもこちらをあざけっている。

 その態度に苛立ちを覚え、舌打ちをする。ここ数年で身に着けてきた、他者を欺く処世術は、どうにも相手が悪いらしく効き目がない。然もありなん、腐っても古馴染みである。ともすれば彼は、桐花以上に桐花の性根を理解しているのだから。そういった点はやり辛くもあり、楽に思う所以でもある。

「女っていうのはもっとあざといし、可憐で、卑しくて、優美で、狡猾なのよ」

 思想が強い。

「そうじゃない子だっているでしょ」

「それは女じゃなくて小娘だ」

 とても思想が強い。

「お前みたいに暴力的で、愚かで傲慢で。それから馬鹿に素直で……」

 大して仲良くもない隣席の女の子に——きりかちゃんのおめめ、きれいだよね。わたしもそのめがいいな。その目がほしかったな。

「なんて言われて。本当に抉り取って渡してあげようなんて思うヤツは、女じゃないね」

 類は友を呼ぶ。

 突然、そんな言葉が脳裏をよぎった。

「じゃあ、ぼくは男?」

「いいや」

 嫌な思考を振り払う為に、なけなしのセンスで吐いた冗句は即答で否決される。

「じゃあなにさ」

「ひとでなし」

 腑に落ちた。

「より厳密に言うなら、ひとでなしになりたい人間、て感じ」

 深く、腑に落ちた。

 善悪や、倫理。

 人間が生み出した、人間の中にしか存在しない概念。

 そういうものがそもそも理解出来ない、人外の何かであったなら、いっそ楽だったのに……と、取り留めのない事を考える時がある。

 妄想だ。有り得ない話だ。自分はどこまでも、人間なのだから。

 いわゆるサイコパスと呼ばれる疾患がそうであるように、喜怒哀楽の感情が欠損しているわけでもない。他人が表す其を、感覚的に理解する事も出来る。

 それでもどこか、専門的知識のある人間が見ても不明瞭な、認知不可能な領域にズレがあって、其が桐花を〝マトモじゃない〟思考、行為に駆り立てる。

(あの時も)

 別に、良かったのだ。それほど仲が良かったわけではないけれど。

 それでも隣の席に座って、それなりに話をした事があって、それなりに親切にしてくれた事もある彼女が、喜んでくれるのであれば。

 こんな物が欲しくてたまらないというのであれば。手元には丁度、便利そうな道具が転がっていた。

「……」

 たまに、ほんの少しだけ。部屋に閉じこもった彼女が何をして、何を考えているのか想像する事がある。手慰みだ。すぐに記憶の彼方へ消え去ってしまう程度の。

「前々から訊きたかったんだけどさ」

「何」

 だから、というわけではないのだけれど。

「楽しいか?」

「何が」

「可哀想な奴のフリ」

 れど。

「正直、見てるだけで鬱陶し痛ぁ!?」

 深く一息吐いてから、手加減なしにすねを目掛けて蹴り上げると、廣峯が間抜けな喚声を上げる。うずくまったその姿を見ていると、何故だかちょっとしたノスタルジーを感じて不快だった。が、それ以上に加虐心が満たされ、カタルシスを得たのでよしとする。

「廣峯のくせに偉そうなんだよ。いつまでも講釈垂れてんじゃねぇ」

「……田舎のヤンキーかよお前は」

 どうやらまだ憎まれ口を叩く元気があるらしい。右の爪先を僅かに床へ擦ると、慌てた様子で後退る。それがまた滑稽で愉快だった。

 嫌みったらしく鼻を鳴らし、足元に転がるレジ袋を手に取る。「あっ」と表情を変える廣峰には構わず、中から菓子パンを一つ取り出した。

「これで許してやろう」

 言って、レジ袋を廣峯に放り投げた。わたわたと其をキャッチした廣峯が不満ありげにこちらを睨んでいるが、それすらも愉快である。妙に泰然自若としている彼に唯一、可愛げを感じられるのがこの瞬間だ。

 わざとらしく口角を吊り上げ、犬歯を剥く桐花。フェンスに背中を預け、強奪したパンを頬張りながら空を眺める。

 別段、空が好きなわけではない。むしろ、コンプレックスを想起させる日輪と青には忌まわしさすら感じるのが常なのだが、今は晴れやかな心持ちで其を見ている。

 何度目か分からない溜息を吐いた廣峯が、やがて何かを諦めたのか、隣並んでフェンスを揺らした。「そうしてりゃあ普通に可愛いのにな」などと、くだらない事を小さく溢している。不愉快だ。

 けれど今は見逃してやっても良いと思えたので『この後はどんな理由で蹴ってやろうか』と思案した。

 暇潰しには丁度良い。その議題は退屈と微睡みを呑み込んで、燻ぶった瞳に仄暗い灯火を宿してくれるには、充分な価値を有していた。

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