紙面上物語
秋野 圭
紙面上物語
声がする。
我々の頭上で三人の男の話し合う声がする。
さらにその上で、爆撃機が数多の重い爆弾を投げ落とす風切り音がする。
我々はその破壊されるあらゆる存在の悲鳴を聞きながら、この三人の男たちが下す決断を待っていることしかできないのだった。
波のように、その時が押し寄せて来る。
〔Hurry Smart Yarn〕〔Twin Rolls Rich Cuis〕〔Shaking Ace Hik〕。
彼らの言葉がぶつかりあって、砕け、キラキラとその破片が私たちの身体という平面世界へ落ちていく。
ここで話し合ったあらゆる言葉を記録としなければならない。言葉は意味を持ち、その意味は人間の行動に価値を与えて循環する。その循環の観測と加速効果が私たちの持つ意味であり、人間が与えた価値だった。私たちの従兄弟にはTLPHくんがおり、かつては友として競い合っていた。今となっては親戚の子のIPちゃんがおニューの顔としてさらなる加速度を持ってこの価値を飛躍させていると噂されているが、この時の私たちはそんな未来が来ることを知らず、予感すらも得ることがないまま己の使命を全うさせようと奮闘していた。
そう、使命だ。私たちにはあらゆる使命がある。恋を伝え、罪を告発し、愚痴を聞いてつまらない日々のあれこれに頷くこと。それから、この世を定める使命。この体が残る限り、悠久の時と共に刻まれた墨を世に流し、沁み込ませ、染め上げる。それが私たちの数ある使命のひとつなのだ。
TLPHくんはそのことを理解しつつも、たまに私たちのことを裏切るのだった。そうだ〔Rafted lonesome fork〕の時も、何度もあの人は色んな人にTLPHくんを通して吐露していたというが、私たちには何も残っていない。
あぁ〔Rafted lonesome fork〕。どうしてお前は私たちに黙っていたのだろうか。
沈黙は記録されない。言葉にならなければこの世には存在しない。凝り固まったまずいゼラチン質の冷たい物体を喉に入れたまま吐き出さないお前たちに、私たちがしてやれることはない。私たちを傷つけずに済むが、その優しさをもってお前はこの世に生まれず軽々と天にも地の底にも上がったり堕ちたりすることができる。どうしようもない感情だけの無音。それを私たちはどうしたって受け入れることができないのだ。
あぁ〔Rafted lonesome fork〕。お前の気持ちはわからない。だけど、お前が潰えてよかったのかもしれないと私たちは思う。最低の地獄にまでお前が落ちずにいたことは、ある意味では救いだったのかもしれない。
お前にあの爆撃が聞こえるか。ドラタタと踊るステップ。咲き誇るのは赤い花。常勝の男は一人で泣いて卑猥な男と腐っていく。そこに女はいないから欠けた耳の破片を堂々と飲み込むことができる。お前にあの燃え盛る音が聞こえるか。私たちには聞こえない。私たちはただ刻まれていくだけ。お前たちの罪をここに残して記録する。果てしない夢を追いかけるお前たちの足をただ掴んで離さない。
黒煙が立ち上る港町のことを思い出して、燃え上がる山々の動物たちの死骸を思い出して、枯れ逝く木々と溢れる蛆の未来を夢想して、私たちは体に言葉を刻むのだ。
こうじゃない、そうじゃない、あれじゃない、それはダメだ。私たちの上に刻まれた言葉を上塗りして、さらに上塗りして、ぐしゃぐしゃに丸めてポイ、ポイ。ポイ……。
捨てたくて捨てているのではなく、この行為の果てに重大なリアクションがあるから繰り返している。そこには落胆があり、苦しみがあり、死があり、そして希望があると信じているから何度も書き直しているのだ。
強弱の激しい黒い線が緩やかな円とかっちりとした直線で結ばれて解きほぐされていく。その線の全てがあらゆる意味で緊迫しており、薄い部分こそがきっとお前たちにとって重要であり、弱点にもなりうるのだろう。国家間の金融ゲームと場所取り合戦、たまの気まぐれと権力のパワーゲーム。それらが織りなす経糸と緯糸がメランジを彩り世界地図を成す。その省略した幾何学模様こそが私たちに彫り込まれた言葉を表しているのだろう。
彼の地で三人の男たちは声を重ね合う。
〔Hurry Smart Yarn〕〔Twin Rolls Rich Cuis〕〔Shaking Ace Hik〕。
地獄を食い止めるものも、また言葉である。始まりも終わりも言葉で綴られる。
ポ、ポ、ポ。この場所にあるあらゆる言葉を。
ポ、ポ、ポ。彼らの指に力を添えて、その動きに敬意を示す。
ポ、ポ、ポ。記された言葉に刻印を。そこに新たな意味が生まれ、価値を見出しこの世を循環する。
私たちに言えるのはそれだけのことだった。平面上に湧き上がる泡の数々とくすぐり合い、甲乙をつけて彼らの言葉を意味付けするだけのこと。風が吹けば、その匂いはどこから来たものかを論じ、花粉が指に付けば、その味を決めつけて彼らに毒だと教える。ここには三人の男たちしかいなかったのだから。いや、薄いカーテンの向こうにはきっともっと男たちがいたはずなのだが、私の世界に落ちる言葉はこの三人だけのものしかない。誰が、そこにいたのか。誰も教えてくれなかった。
IPちゃんなら、もっとうまくみんなと相談しながら大衆論を話してくれたのかもしれないが、残念ながらこの時はまだ小さな赤子だったから無理は言えない。
あの夏の日、夏の火が夏の地を夏の血で汚して夏を終わらせた。
暑かったのに、冷たかった。その後もずっとしばらくは冷たいままだということを私たちは知らなかった。
だけど知っていても私たちはこの刻まれた言葉に後悔はないのだけど、それでも、どうしてあの時一緒にいた〔A Jolliest Spin〕とあの〔Hurry Smart Yarn〕はそれほどの確執をこの場に持ち込むのか、理解に苦しまざるを得なかった。
私たちには残念ながら感情というものがいまいちわからない。私たちができることは話を聞き、それに頷くことだけなのだ。そもそも私たち自身は理解しない。理解したとてそれを誰かが気にしたり、詰め寄ったりすることもなく放っておかれるのだから、意味がない。少なくとも人々は私たちのことを見くびっており理解を示さないから、私たちだって理解をしないのだ。
あぁ、だがそんな未来が待っているとしてもハリー、ハリー、ハリー。
〔Hurry Smart Yarn〕よ。私の刻印を急がせてくれ。
繰り返す時の中で停滞は許されていない。
小さな機体が大きな島の小さな地域の空を飛んだ。HRSM上空から大きな火の玉を落とした。それはまだ小さな男の子だったが、落ちた瞬間に大きな産声を上げて成長した。
たぶん、そうなることを一部の人間は理解していたのだが、それでも実際にその成長ぶりを目にした時は悲鳴を上げて腰を抜かしたのだろう。いや、茫然としているだけだったのかもしれない。私たちは結局、作った人々がどんなリアクションをしたのかは知らない。ただ、私たちはその男の子がどのように成長して消えて行ったのかを漫然と記録しただけに過ぎないのだ。でも想像できないことはない。限られた情報だけでも、我々はその赤子の迫りくる血塗られた顔面に恐怖したことだけは確かだったのだ。あの暴虐な産声、踏みつぶされていったカリバー旅行記の島民。ジャッジメントは警鐘を鳴らすことを恐れた。だけど誰かがそのボタンを押さなければならなかったのだから、仕方がない。仕方がない。仕方がない。そんなわけはない。きっと、どこかに止められるタイミングはあったはずなのだ。だけど、〔Hurry Smart Yarn〕〔Twin Rolls Rich Cuis〕〔Shaking Ace Hik〕。君たちは知っていたのだろうか。私という記を綴っている時、この赤子が誕生する計画がずっと進んでいたことを知っていたのだろうか。罪はどこにあるのか、私たちは色んな議論をあれから聞いているが、結局誰も答えてはくれていない。ジャッジメントはまだ判決を決めきれずにいる。果たして罪と断じられるものだったのだろうか。作った研究者のせいか、落とした人のせいか、こんなものを作らなければやっていられない時代のせいだったのだろうか。ただ、罪の所在は不明でも、許されてはいけないという気分だけは正しいような気がした。
私たちは理解しない。ただ論じる。
〔Hurry Smart Yarn〕〔Twin Rolls Rich Cuis〕〔Shaking Ace Hik〕よ。
ミズーリの固い背中の上で我々は最後の語らいに臨むのだ。
この地層型病原菌をどうにかして彼らは取り除こうと必死に食らいついている。それは乗り出した〔grim master's thou〕も同じことだろう。お互いに道徳など捨てたかのような顔をして、最も欲しているものは結局道徳なのだ。
だが、求める道徳という形は同じであれ、その中に潜む理想都市国家構造体は異なっていた。どうしてそうやって決めつけ合い、自分の理想都市国家構造体の破片を相手にぶつけて苛立ちあっているのか。ミズーリの背中は居心地のよいものではない。夏の火炎放射器を言葉の端々に備え付けて、お互いの足を蹴り合う彼らを誰か笑ってやってくれ。私は黙ってそんな彼らを眺めることしかできないのだから。あぁ~いらんね、それは、と苦笑いさえしてくれたらよかった。そうすれば私はこの地平線の先まで続く世界に落ちてくる声を冷静に体に刻み付けることができたのだ。そうして実際、出来た。私に苦笑いをしてくれる人はいなかったが、それが私の使命なのだからやらざるを得なかった。この記を後世に永久的に残さなければならない。証明を、ここに。この薄っぺらな私に求めている。墨を入れた鋭い切っ先で、全ての意思をぶつけようとする。
そう。全てに意思があり、その意思は知略でありながら視野の狭いヒステリックな愚かさを持ち合わせている。うずたかく積み上がった悲鳴こそがこの地層型病原菌の一部であり、かつ全てに浸透する恐ろしさなのだ。
ただ、その地層が崩れる瞬間はひっそりとしたものであった。海の漣と風を切る鳥の羽音だけがその場に生命の音についてこそこそと噂話をしていた。裏で踊り狂う男たちの醜い争いなど、地表の三次元的植生物にとってはどうでもよいことなのだ。私たちにとっても本当はどうでもよい。だけど彼らが私を傷つけなければならぬのだから、その声に耳を傾けるのはせめての義務のように感じた。
カリカリと続く。
カリカリと焦る。
カリカリと見守る。
カリカリと終わる。
その間、ずっと静寂であった。海の漣と鳥の羽音だけが黙らずに見守っていた。
これは誓いであり、赦さないという意思であり、人と人の小指であり、明るい未来と暗い過去へのお願い事であった。
ゆえに我々はファンファーレを鳴らさない。この凱旋は美しくあってはいけないのだ。喜びであっても、それまでに重ねられた地層の厚さゆえにその声は外には届かない。ただ、粛々と家に帰って酒を呑み(あるいは薬を飲んで)眠るしかないのだ。
私はそれを見送る。廃れた市街。消えた死骸。失われた視界。
ここにあるのはそうした光の残滓であると誰もが言う。私たちはそれを集めて体に擦り付け、そこかしこで彼らと共に安らかに眠るのだ。
何万年が経とうとも。
我々は繰り返してはならない。この血なまぐさい足跡を永遠にこの世に落としてはならない。
——そう言ったのに、どうしてお前はまた繰り返すのか。
これは帆船の歌。私たちはいつまで、この紙面上の戦いを繰り返さなければならないのか。
ほら、IPちゃんも怒っている。多重人格のIPちゃんも怒っている。
TLPHくんは無視している。いや、時折こっそりと耳打ちし合って噂をしているが、決してあいつらの方を見ようとしない。
果てしない話し合いの先、営みを続けるのは循環。私たちはその波の一つひとつでしかない。
ただ繰り返される。その繰り返しをこそ、私たちは断たれることを臨む。
これは帆船の歌。私はただ一つの波。
紙面上物語 秋野 圭 @akinok6
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