2 第一次世界大戦と戦後秩序

 一九三〇年代から四〇年代の歴史を見るとき、そこには第一次世界大戦とその終結によって構築された戦後秩序に徐々に綻びが生じていく過程が見えるだろう。

 一九一四年に勃発した第一次世界大戦は、ある意味でその後の日米対立、特にアメリカ国内の対日脅威論を醸成する要因となった。この大戦で日本が見せた積極的な姿勢が、アメリカの対日警戒を呼び起こしたのである。

 大戦の勃発について、日本では元老・井上馨のように「日本国運ノ発展ニ対スル大正新時代ノ天祐」と捉える者がいる一方で、同じく元老である山縣有朋などは参戦に慎重な姿勢であった。

 しかし、第二次大隈重信内閣の外相であった加藤高明は参戦を強く主張し、日本は一九一四年八月二十三日、対独参戦を果たすことになる。

 青島を始めとするドイツ租借地や太平洋のドイツ領南洋諸島の攻略を成功させる一方で、日本海軍は同盟国イギリスからの要請により、金剛型巡洋戦艦四隻を基幹とする遣欧艦隊、船団護衛を担当する第二特務艦隊を欧州に派遣した。英独艦隊決戦の場となったユトランド沖海戦にも、四隻の金剛型は参加している。

 また、フランス、ロシアから三個軍団の派兵を要請されたこともあり、閑院宮載仁ことひと陸軍大将(参謀長は青島攻略を指揮した神尾光臣中将)を総司令官とする欧州軍を編成、西部戦線に派遣している。

 このように日本が積極的に大戦へと参戦していった要因には、青島陥落が目前に迫った一四年十一月二日、英外相エドワード・グレイが加藤外相に対して、日本が欧州へ派兵するための費用負担のみならず、日本の満洲権益の保障や英自治領(主にオーストラリアとニュージーランド)における日本人移民差別問題の解消などの踏み込んだ見返りを提示したことが挙げられる。

 また、イギリスの駐日大使ウィリアム・カニンガム・グリーンも、日本の積極的な参戦は戦後の会議における日本の発言力増大に繋がると、しきりに説得した。

 イギリス以上に日本の欧州派兵を望んでいたフランスに至っては、ルネ・ヴィヴィアーニ首相がフランス領インドシナの日本への割譲を、閣議において提案しているほどであった。流石にこれは内閣で認められはしなかったが、フランスも日本の欧州派兵の代価として満洲・朝鮮を開発するための財政援助を申し出ていた。

 大隈内閣は、こうした英仏から提示された参戦の代価を得るために、欧州派兵を決定したのである。

 この当時、日本が日露戦争にて獲得した満洲権益の内、関東州の租借期限が一九二三年に迫っており、列強諸国からの満洲権益の保障は日本にとって重要な問題であった(その他、南満洲鉄道の経営権益は三九年、安奉線の経営権益は二三年)。

 日本国内の新聞では、欧州列強が日本を頼るまでに至ったことへの自尊心・自負心を高らかに書き立てるところがある一方、万朝報よろずちょうほうなどは当初、派兵に慎重な論説を掲載している(その後、万朝報は一転して派兵賛成に回る)。一四年十二月に「欧州出兵期成会」が成立すると、国内世論はこれを国威発揚、対外発展、対外権益増大の好機であるとして、盛り上がりを見せた。

 自らの内閣が大衆からの支持に支えられたものであることを自覚していた大隈は、こうした国内世論もあり、政府として国民に対し積極的に欧州派兵の意義を説いた。

 大衆の反独感情を煽り、国民に派兵を納得させようとしたのである。三国干渉に始まるドイツの東洋政策を過剰に宣伝し、あたかもドイツが戦争に勝利すれば日清・日露戦争で得た領土や権益が失われるかのごとく、国民に説明したのである。

 このように、対外的には第一次世界大戦に深く関与していく日本であったが、国内では元老筆頭の山縣有朋と外相である加藤高明との対立が深刻化していた。二人にとってイギリスが日本の欧州派兵の見返りとして満洲権益の保障を与えてくれたのは望ましいことであったが、満洲権益の維持と袁世凱政権との関係改善を望む山縣に対し、加藤は満洲以外への利権拡大も目指していたのである。

 山縣は、イギリスの後援を受ける袁世凱政権を日本も支持することで、満蒙権益の維持を図ろうとしていた。また、山縣はドイツとの関係も一定程度、維持すべきであると考え、大隈内閣による国民の反独感情を煽ろうとする言説には反発を覚えていたという。

 このため、加藤外相への不信を強めていった山縣は、それまで政敵であった政友会総裁・原敬と手を組み、大隈内閣に圧力をかけることで加藤高明を更迭させるようと画策した。

 すでに中国側は日本が青島攻略作戦に伴い、膠済こうさい鉄道を占領したことへの不信感を募らせていた。第一次世界大戦勃発当初は中立国であった中華民国は、自国領内での戦闘について交戦区域を定めて各国に通告していたのであるが、当然ながらそうした区域を逸脱して戦闘が繰り広げられていたからである。

 加藤外相はドイツの山東権益を日本が引き継ぎ、さらには中国最大の製鉄会社・漢冶萍かんやひょう公司コンスの日中合弁化なども目論んでいた(ただし、彼も満洲権益の期限延長こそが最も重要だと考えてはいた)。

 これを、山縣は阻止しようとしたのである。

 原敬まで巻き込んだ政府中枢での暗闘は、結果として山縣の勝利に終わった。

 加藤は一四年十二月、駐華公使・日置えきに対して袁世凱との直接交渉を指示する訓令を発したが、それは当初、構想していた五号二十一項からなる対華要求ではなく、満洲権益の延長のみを求める要求となっていたのである。

 その後、山縣との政争に敗れた加藤は外相を辞任する。後任外相には、一時大隈が兼任した後、石井菊次郎が就任している。

 自身の望む通りの対中政策を実現しつつあった山縣ではあったが、ここで一つ、誤算が生じた。

 それは、満洲権益の期限延長をアメリカが中国の門戸開放を理由に反発したことである。すでに日露戦争直後から満洲市場の開放を望んでいたアメリカにとって、日本の満洲権益の期限延長は認められるものではなかったのである。かつて満洲権益の日米共同経営を定めた桂・ハリマン協定を反故にされ、満洲鉄道中立化提案も拒絶されているアメリカは、こうして対日不信を強めつつあった。

 結果、外相となった石井菊次郎の最初の課題は、アメリカとの関係改善となった。

 この問題は一九一七年、寺内正毅内閣において駐米大使となった石井菊次郎とランシング米国務長官との間に「石井・ランシング協定」が結ばれたことによって一応の決着が付けられた。これにより、日本は中国の門戸開放・機会均等や領土保全を認める一方、アメリカも満蒙における日本の特殊的地位を認めるという合意がなされたのである。

 第一次世界大戦は一九一八年十一月十一日に終結することになるが、それは新たな日米対立の始まりをも意味していた。

 アメリカが連合国側に立って参戦したのは一七年四月であり、日本軍の欧州派兵よりも二年近くも遅れていた(アメリカ軍が欧州戦線に到着したのは、一七年十月以降)。

 しかし、四十二個師団、約二〇〇万もの兵力をヨーロッパ大陸に送り込んだアメリカが、連合国陣営の勝利に大きく貢献したことは明らかであった。これに対し、日本が一九一五年以降、欧州戦線に派兵した兵力は十五個師団(戦時編制、約三〇万)であった。

 日本としては、欧州戦線で多くの将兵が犠牲になった以上、戦後の講和会議における発言力、そしてドイツ権益の継承は重要問題であった。だというのに、ヴェルサイユ講和会議におけるアメリカの発言力は、先に欧州戦線に派兵し多くの犠牲を出した日本よりも上であった。

 アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンは、国際連盟を始めとする戦後新秩序の構想を、この会議で訴え続けたのである。

 しかし、これには日本側の全権代表団の人選にも問題があった。首席全権代表の西園寺公望はすでに七〇歳になろうとする人物であり、講和会議の場でほとんど発言しなかったのである。

 実際に講和会議の場で日本の意見を主張したのは、英語が堪能な次席全権の牧野伸顕のぶあき、駐英大使の珍田ちんだ捨巳すてみであった。ヴェルサイユ会議は、それまでフランス語が主流であった国際会議において、初めて英語中心で行われたものであった。ここにも、アメリカの存在感の大きさが表れていた。

 日本側は、語学力の問題もあって十分に会議に参加出来たとは言い難かった。

 そうした中でも、日本は国際連盟の成立にあたって、人種平等条項を連盟規約に盛り込もうとした。アメリカ・カリフォルニア州では排日土地法が成立するなど、アメリカにおける日本人移民排斥運動は日本にとって懸念事項だったからである。

 さらにこの時期、アメリカ国内では日本陸軍の欧州派兵、日本海軍の大西洋回航などに脅威を覚えているアメリカ人も多くいた。実際、アメリカ西海岸に近いメキシコ・マグダレナ湾でドイツ艦隊を追っていた巡洋艦浅間が座礁すると、アメリカ国内の新聞は日本がわざと座礁してその地域を占拠しようと陰謀を企んでいると書き立ているほどであった。

 そうしたことから、アメリカ国民の中には日本軍のカナダ上陸を本気で危惧する者たちも現れていた。

 日本の第一次世界大戦への本格参戦は、アメリカの対日警戒感や差別感情を助長する結果をもたらしたのである。

 そして、この日本による人種平等提案に対し、最も強硬に反対しようとしていたのが白豪主義を掲げるオーストラリアであった。こうしたオーストラリアの姿勢に対し、イギリスはかつてグレイ外相が日本に差別問題の解消を約束した通りに説得を試みたが、オーストラリアの白豪主義感情はあまりにも激しく、宗主国による説得も意味をなさなかった。

 当然、アメリカ側も反対に回り、結局、日本の人種平等構想は挫折する。

 南洋群島の統治継承などドイツ権益継承問題に比べれば日本外交における人種平等構想の優先順位はそれほど高くなかったのであるが、その内容が内容であっただけに、全権団に随行した近衛文麿などに反米的な思想を抱かせることとなってしまった。

 そして、外交の舞台において日本とアメリカが次に対決することになったのは、続く一九二一(大正十)年十一月から始まるワシントン会議においてであった。

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