第6話

「荷物、これで全部?忘れ物ない?」

「うん。大丈夫」

「じゃあ、行こうか」

翌朝、中西さんに手伝ってもらいながら、俺の自宅へと向かう。歩いてもそんなに距離はないけれど、荷物のこともあり、中西さんが車を出してくれた。

「そういえば、竜樹君の通ってる高校ってどこなの?」

「中南高校」

「え!?名門校じゃないか!」

中西さんが、かなり驚いた様子で僕を見た。

「ずっと勉強、勉強ばっかりで楽しくないけどね。中西さんといる方がずっと楽しい」

運転する中西さんの左手は、ずっと俺の右手を握ってくれていた。

「志望する大学に入れるといいね」

「うん。頑張る」

どうしよう。もうすぐ家に着いてしまう。

「俺、中西さんに会ってから、毎日が本当に楽しくて幸せで…。なのに、どうして…」

そこまで言って、言葉に詰まる。

「僕もだよ。竜樹君と出会ってから、平凡で同じ時間をただ過ごしていた毎日が、百八十度変わった。すごく幸せで、楽しかった」

車が家の前に止まる。嫌だ。車から降りたくない。そんな俺の気持ちも知らずに、中西さんが、車から降りて、先に荷物を玄関へと運んでくれる。そして、助手席のドアが開く。

「竜樹君」

名前を呼ばれるけど、俯いたまま、顔を上げられずにいた。涙が、一つ、また一つと零れる。

「ほら、泣かない!半年なんて、あっという間だよ」

「でも…」

「今は、学業に専念して、大学に無事合格したら、また一緒に住もう」

中西さんの言葉に驚いて、思わず顔を上げた。

「いいの?」

「竜樹君さえ、嫌じゃなければ、だけどね」

「嫌なワケ…ないじゃん」

嬉しさに、顔が歪み、より涙が溢れた。

「だからさ、寂しいけど、二人で一緒に半年間を乗り越えよう」

そう言いながら、中西さんが笑う。

「うん!合格したら、すぐに中西さんに、直接報告しに行くから」

そして俺たちは、今までにないくらい、強く強く抱き締め合ったのだった。


中西さんと離ればなれの生活が始まり、夏休みも終わり、九月を迎え、学校が始まった。始業式の日に担任に呼び出された俺は、二人で教室の机に向かい合って座った。

「受験生が一度も課外授業に出ずに、いったいどういうつもりだ?」

「すみません。ずっと体調が良くなくて」

「お母さんから、火曜と金曜の放課後に数学の勉強を見てほしいって、先週連絡があったぞ」

「母さんから?」

「前の学校で一緒に仕事してたから、頼みやすかったんだろ」

「でも、俺、文系の大学希望なんで、別に数学はそこまで…」

「だとしても、推薦狙ってるんだろ?」

「まあ、一応」

「そしたら、成績をこれ以上下げないようにしないと難しいぞ?」

「…分かってます」

「明日の金曜から、放課後に勉強見てやるから、ちゃんと残れよ」

そう言って、担任の明石は俺の頭にポンと軽く手を置いた。

まあ、ずっと母親に付きっきりで勉強を見てもらうよりは、気分転換になっていいのかもしれない…。俺はその時、その程度にしか思っていなかったのだった。


「で、ここで、この数式を使うと…」

担任の明石は、なぜか背後から、かなり体を密着させ、勉強を教えるスタイルだった。最初は気になっていたけれど、三度目にもなると、そのスタイルにも少し慣れてきて、なるべく顔を近付けないように、前を見たままの姿勢ではいたけれど、さほどその距離感も気にならなくなってきていた。

「…あ、そっか。なるほど」

明石先生は教え方も上手で、すごく分かりやすかった。そこに、先生の右手が俺の頭を撫でたかと思うと、突然、背後から左側の首筋に、先生の唇が這い、チュッと音を立てて、きつく吸われた。ゾワッと全身に鳥肌が立つ。

俺はガタンと勢い良く席を立ち、

「何すんだよ!」

と、思わず怒鳴った。

「推薦、欲しいんだろ…?」

俺へと歩み寄る。

「一回、俺とするなら、絶対に推薦を松島で押し通してやるけど、どうする?」

「何言って…」

「みんな、今までそうやって推薦取ってきたんだ。断った奴らは、推薦を逃して、自力で共通テスト受けてたけど、お前の兄貴は俺の誘いを断ったせいで、推薦ももらえず、受験にも失敗して可哀想だったよ」

「…卯月にも、そんな条件を出してたのか?」

「めちゃくちゃ魅力的だったしタイプだったから、一番手に入れたいと思っていたのに、残念だったよ」

俺は、その真実を聞いて、ショックで足元から崩れてしまいそうだった。

先生の腕が伸び、俺の腕を掴む。

「やめろよ!離せ!」

俺は必死で抵抗しようと、机の上に置いてあった教科書や、ペンケース、カバンをとにかく無我夢中で先生へと投げ付けた。教室の窓ガラスが、バリンと大きな音を立てて割れた。廊下にガラスの破片が、いくつも飛び散る。

「こんなに抵抗する生徒は、初めてだな」

そのまま勢い良く腕を引かれ、再び首筋に唇と舌が這った。

気持ち悪くて、思わず吐きそうになる。

カッターシャツのボタンに手をかけられ、俺は思いっ切り腕を突っぱねた。その瞬間、ビリッと、何かが破れた音がした。

そこに、

「何の音だ!?」

と、階段を駆け上がるいくつもの足音と声が響き渡る。先生が少しひるんだスキに、俺は瞬時に先生の胸倉を掴んだ。

「お前が卯月を追い詰めたのか?ふざけんな!」

胸倉を掴んだまま、勢い良く、教室の割れた窓の方へと移動する。

「おい!何してるんだ!」

教頭と生徒指導の先生が教室へと入ってきて、俺と先生を引き離した。

「離せよ!卯月のこと苦しめやがって!絶対に許さない!」

「落ち着きなさい!」

教頭が怒鳴る。そこに他の先生や生徒も集まり出し、誰かが呼んだ警察が来るまで、俺の怒りと悔しさは収まらなかった。

「いいか。推薦が欲しかったら、何も言うなよ?分かったな。先生の言う通りです、で押し通せ。今後のことは、後日ちゃんと二人で話し合おう」

二人してパトカーに乗せられる前に、先生に耳打ちをされる。俺は口答えもできずに、黙ってただ俯いていただけだった。


警察署に着くと、先生とは別の部屋へと連れて行かれた。ここに来るのは、二度目になる。

「せっかく、頑張るって決めたのに…」

こんなことになってしまって、つい中西さんに対して申し訳なくなり、涙が零れそうになるのを必死に堪えた。

コンコン、とノックの音がして、扉が開く。俺は俯いたまま、顔を上げることなく、椅子の背もたれに寄りかかったままでいた。

「松島竜樹君だね?ちょっといろいろ話を聞かせてもらうよ」

机を挟んで、警察の人が椅子に座るとすぐに、

「野口、悪いけどカメラを持って来てくれないか?」

と、一緒に入って来たもう一人の男に声を掛けた。

「先生と何かあったの?」

「別に、何も」

「教室のガラス割ったんだって?」

「わざとじゃありません」

「そっか。何も話したくない、って感じだね」

「全部、先生から聞いて下さい。俺から言うことはありません」

「なるほど。先生からは、今、別の刑事が話を聞いているところだから、まだこちらに話は伝わってきてなくて」

俺は、再び黙り込んだ。そこに、野口と呼ばれた男がカメラを持って戻ってきた。

「ありがとう」

そう言って、担当の刑事がカメラを受け取ると、

「その、首筋のアザと、ちぎれかかってるボタンの写真、証拠として撮らせてもらうよ?」

「え?…証拠って、何の…?」

そんなことして、もし先生にバレたら、俺の推薦の話がなくなるかもしれない。

俺は思わず顔を上げた。その瞬間、見覚えのある顔に、思わず絶句してしまった。

「あ…。自己紹介がまだだったね。北警察署の中西と言います」

言いながら、目の前に警察手帳を出し、本物の刑事であることを証明する。

「取りあえず、写真を撮らせてもらっていいかな?」

中西さんがカメラを持って席を立つと、俺へと近寄る。

「やだ、って言ったら?」

「無理強いはしないよ」

「先生にバレない?」

「バレたら何か困ることでも?」

「…別に、何も」

「大丈夫。バレないよ。ここに立ってもらえる?」

俺は中西さんに言われた通りに立つと、写真を何枚か撮られた。中西さんは画像を確認すると、

「現像に回しといて」

と、野口という刑事へとカメラを手渡した。

そして、机の上に置いてあるアルコール入りのウエットティッシュを二枚ほど手に取ると、突然、俺の首筋を拭き始めた。

「な、何…?」

「消毒」

「え…?」

そこに、ノックの音がした。扉が開いたかと思うと、北山さんが現れ、中西さんを呼んだ。二人で何やら話をしていたかと思うと、中西さんが戻ってきて、

「大きな虫が教室に入ってきて、驚いて物を投げてガラスが割れただけで、二人の間に揉め事はなく、ケガもなかったから被害届も出さないと、向こうは話してるみたいだけど?」

と言った。

「…はい。先生の言う通りです」

「分かった。じゃあ、もうこれで帰っていいよ。親御さんに迎えに来てもらうように、こちらから連絡するね。一応、まだ高校生だし、説明しないといけないから」

中西さんに促され、取り上げられていた私物を全て返してもらった中のスマホから、母の携帯番号を調べて、中西さんに教えた。電話が済み、

「今すぐに向かうそうだよ。お疲れさま」

中西さんが立ち上がり、扉を開けてくれる。

俺が部屋を出ようとした時に、耳元で、

「自動販売機の横の椅子に座って待ってて」

と、囁いた。

座って待ってると、廊下をスタイルの良い中西さんが歩いて来るのが分かった。そのカッコよさに見惚れていると、さりげなく俺の前を通り過ぎ、自動販売機でジュースを買うふりをして、俺へと話かけてきた。

「そこに談話室があるの分かる?」

ガチャンと、飲み物が落ちてきて、それを手に持つと、

「行こう」

と、コーラを片手に、俺の手を握って、足早に歩く。

扉が閉じた瞬間にコーラをテーブルの上に置くと、背中を壁へと押し付けられ、身動きが出来ないように両手で挟まれる。

そして、首筋へと顔を近付けてきたかと思うと、激しく唇で先生と同じ部分を吸われた。

「ん…」

ズクン…と全身が疼く。先生の時は気持ち悪くて仕方なかったのに、中西さんとだと、どうしてこんなに高揚した気持ちになるんだろう…。

左手で顎を持ち上げられ、親指で唇をなぞられる。

「こっちは?」

「…大丈夫。まだ中西さんとしか、したことない」

「まだ…って。誰かとする予定でもあるような言い方だね」

「そんなこと…」

言う唇を塞がれる。足に力が入らなくなるくらいの、激しくて熱いキスだった。

「これは警察としてじゃなく、恋人として聞くよ?何があったの?」

優しいけれど、口調は少し強かった。それでも、恋人と言ってくれたことがすごく嬉しくて、つい弱気になってしまいそうになる。でも、中西さんに心配はかけたくなかった。

「…本当に何もない。それより、いつ警察に戻ったの?」

「九月から勤務してる。竜樹君に、向いてるって言われて…。単純だろ?復帰して初めて担当する案件だったんだけど、名前を見てびっくりしたよ」

「…ごめんなさい。もう大丈夫だから」

「分かったよ。竜樹君がそう言うなら、信じる。残念ながら、証拠がないと警察も動けないし…。受験、頑張って」

言いながら、俺から離れると、机の上のコーラを手渡してくれる。

「ありがとう」

それを受け取り、お礼を言う。本当は抱きついて、さっき学校であったことを全て洗いざらい話して、中西さんにすがりたかった。でもそんなことをしたら、先生に調査が入って、受験に影響が出るかもしれない。そう思うと、すごく怖くなった。

「連絡、待ってるから。それから、俺のためにも、ちゃんと自分のことを大事に考えるんだよ?」

中西さんが、静かに言う。その言葉に、つい涙が出そうになった。

「うん…。じゃあ」

そして俺は一人で先に談話室を出たのだった。


それにしても、本当にめちゃくちゃカッコよかったな…。スーツ姿は見慣れていたはずなのに、全然雰囲気も違って見えたし、的確に対応しながら仕事をこなす中西さんは、本当に素敵で、より惚れ込んでしまった。

「恋人か…」

呟いて、ニヤけてしまう。

「竜樹!ちゃんと聞いてるの?この大事な時期に、警察にお世話になるなんて!」

警察からの帰りの車の中で、母から散々説教される。

「ごめんてば。そう言えば、今日、卯月は?」

「明日は土曜で予備校が休みだから、バイトのあと、彼女のアパートに泊まるって言ってたけど?」

「そっか。話したいことあるから、バイト先に行ってみるよ」

「そう…」

母が心配そうに、バックミラーで俺を見た。

「大丈夫だよ。卯月、ちゃんと謝ってくれたし、もう昔みたいに普通に接してくれてるから」

そうなのだ。前に起きていた忌まわしい出来事が、夢だったのかもしれない、と思うくらい、卯月とは良い関係に戻りつつあった。


「悩んでるなー」

北山が、頭に手をやりながら資料を見ている中西に声を掛ける。

「そりゃ、悩みますよ。中南高校の件、かなり前から問題になってたじゃないですか。推薦を条件に体の関係を求められた、って、卒業してから被害を訴えてきてる生徒が過去に何人もいるのに、証拠がないせいで、受理すらできてないなんて、おかしいですよ。しかも、毎回、今回と同じ先生ですよ?」

「仕方ないだろ。証拠がないと、こっちも動けないんだから。しかも、その明石って奴はかなり用意周到で、一年に一人にしか手を出してないから、他の生徒に聞いたところで、証言も出てこないからな」

「今年のターゲットが、松島竜樹ってことですよね?」

「まあ、今日の状況から行くと、そうなるな。あれは、明らかにキスマークだろ。さすがの俺でも分かったぞ?」

「でも、本人は口を割らなかった」

「どうしても推薦が欲しいんだろ?」

「関係を持つと思いますか?」

「さあな。でも、もう未成年でもないんだし、同意の上なら問題ないだろ?」

「北山さんに聞いた僕がバカでした。帰ります」

中西は資料を勢いよく閉じ、ガタンと大きな音を立てて椅子から立ち上がると、めずらしく苛立ったように足早に事務所をあとにした。

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