第十九話 悪夢の果て

 悪く思うな?


 私は新井先生の言った言葉の意味が理解できなかった。散々他人を不幸にして、私の目の前で殺人までしておきながらそんな言葉を口にするなんて、一体どういう了見だと糾弾したくてたまらない。


 その時、今日何度目かもわからない鉄扉の開く音が倉庫内に響いた。今度こそ新井先生の協力者が到着したのだろう。私はもう自分の命など惜しくなかった。私はただひたすらに、何度転生しても薄れないほどに犯人たちの顔を記憶に刻み付けてやろうと歯を食いしばっていた。


 徐々に近づいてくる足音と懐中電灯の光。私は現れるもう一人の犯人の顔を確認すべく、コンテナの角を睨みつけていた。そしてついにその姿が明らかになったとき、私はそこから顔を出した人物に言葉を失った。


「遅くなりましたー」


 この場にそぐわない剽軽な声が新井先生に対して向けられた。私はその声を聞いてもなお、混乱する頭に収集がつけられない。なぜ、という問いだけが私の思考を完全に支配した。


「遅いぞ!!」


 溜まっていた苛立ちを発散するかのような新井先生の怒声に、怒鳴られた側は大げさに驚いて見せた。


「うわ。びっくりしたー。急に大声出さないでくださいよー新井先生……って、なぁに? この状況?」


 始終戯けた様子の男は、私が拘束されているベッドに近づいてくると、私の足元で倒れ伏す彼を指さして言った。


「知るかっ! 急にそいつが倉庫の中に入ってきたんだ!」

「ふぅーん。で、コレどうするわけ?」

「は?」

「だーかーらー。コレはもともとの予定に入ってなかったんだからどう処理するつもりなんですかって言ってんの」


 私は動かなくなってしまった彼のことを物呼ばわりするその男に、言葉では言い尽くせないほどの憎悪を感じる。それがかつて友達だった相手に対して向ける言葉なのかと。


「それはお前の仕事だろう。俺は知らん」


 急に語気を弱め、ばつが悪そうにする新井先生に、男は顔に張り付けていた笑みを消して歩み寄っていく。そしてそれまでとは全く違う酷く冷淡な声音で新井先生に語りかけた。


「なんか勘違いしてないか?」


 体の芯まで冷え切るような脅しの響きが、男の口から発せられた。対する新井先生はそれに怯えた様子で一歩後ずさる。


「あんたは今お願いする立場なんだよ。『どうか私の尻拭いをして下さい』って頭を下げて僕に頼むべきなの。まぁ僕は別に構わないけどね? 今ここで警察を呼んだってさぁ」


 新井先生が長身であるため、男は少し見上げるような形で新井先生に語りかけている。しかしその現実とは裏腹に、男は完全に新井先生を見下していた。新井先生は一瞬唇を噛み、うなだれるようにして顔を伏せると、小さな声で男に謝罪をした。


「すまなかった……。私は、何をすればいい?」


 それを聞いた男は満足げに大きく頷くと、再び声の調子を整えて道化としての姿を取り戻した。


「そうそう。それでいいんだよ。こんなことがバレたら新井先生も大変だもんね。うんうん。じゃぁ今から僕が言うものをすぐに買ってきてくれないかな。あ、ちゃんと血は拭いてから行くんだよ?」


 そう言って男は新井先生の耳元で何かを囁いた。恐らくは買ってくるものを伝えているのだろうが、流石にここからではその内容は聞き取れない。


「じゃぁ頼んだよ」


 男はあくまで軽い口調でそう言いながら新井先生の肩をポンと叩いた。新井先生はそれに素直に従い、通路の奥へと姿を消す。再び鉄扉の開閉する音が倉庫内に響き、そして静けさが訪れた。


「ははは」


 急に男が変な笑い声を漏らした。そしてそれは徐々に声量を増し、ついには倉庫内に響き渡る大きな奇声へと姿を変える。


「ははははははは! まさか! まさかだよ! 本当に!」


 腹を抱えながら笑う男に、私は鳥肌が立つほどのおぞましさを感じた。一体何がそんなにおかしいのか。なぜ背中に刃物を突き立てられた同級生を見てそんなに笑い転げられるのか。私には何一つ理解ができなかった。


「全く、まさかこんなにうまくいくなんて思わなかったよ。これであのセンコーも完全に僕の手駒ってわけだ。はははは!」


 男は非常に愉快そうに笑い倒したあと、振り返って私の方に近づいてきた。そしてベッドの上に膝から乗り上げると私の目の前まで来て、その顔を息遣いがわかるほどの距離まで近づける。


 もう見間違いようがなかった。それは紛れもなく幕原隆二だった。


「あはっ。やっぱり目隠しは無い方がいいね。その方が楽しめそうだ」


 幕原隆二はまるでおもちゃで遊ぶ無邪気な子供のような声でそう言うと、私の額にかかっている髪を手でかき分け、信じられないことにそこへ口づけをした。その瞬間、体中を虫が這うかのような猛烈な嫌悪感が一瞬にして私を包み込み、心臓は潰れそうなほどに縮こまる。常軌を逸した幕原隆二のその行動は、一瞬〝私〟が抱く復讐心さえをも怯ませた。


「ねぇ。君はこの世に残すなら、体のどこの部位を残したい?」


 幕原隆二はベッドから降りながら、唐突にそんな意味不明の質問を投げかけた。


「やっぱり指紋がある指? それとも人によって形の違う耳? あるいは眼球っていう選択肢もあるのかな?」


 猿轡で口を塞がれて何も答えられない私に対し、幕原隆二は実に楽しそうに語りかけてくる。


「あぁ、ごめんごめん。ちょっと話を飛ばしすぎちゃったね。実はね、今日から念願だったホルマリン漬けがつくれるようになったんだよ。今までは思い出の品を持ち帰ってもすぐに腐っちゃって困ってたんだけど、これでその問題も解決ってわけさ」


 オタクが自分の推しについて語る時のように、彼の話す速度は徐々に上がっていた。


「あぁ、やっぱり眼球がいいかもしれないなぁ。ほら、目は口ほどにものを言うって言うでしょ? ってことは目を標本にしてしまえば、僕が壊してしまったおもちゃとまた話ができるってことじゃない!? うわぁ、すごくいいアイデアじゃないか! うん、それがいい。そうしよう!」


 どんどんと上気して上ずっていく彼の奇声が、〝私〟のとある記憶と符合した。目隠しで視界を奪われ、体中のありとあらゆる部位から届く痛みに泣き叫ぶ中、わずかに認識できた奇声。五十沢幽が最後に耳にした何かの声。


「ほら、今のその目! すごくいい! 恐怖とか後悔とか憎悪とか、そういうのが全部入り混じってるその感じ。ほんと堪らないなぁ」


 狂っている。


 〝私〟は今までに人でなしと評されるような人々を嫌というほど見てきたが、最早それら全てがかわいく思えてしまうほどこの男は人ではなかった。もはや人外の存在――怪物だ。


「さてと――」


 怪物は私の足元で動かなくなってしまった彼が握っていたメスを取り上げると、それをパネルライトの光に翳しながらニタニタと気持ち悪い笑みを浮かべた。


「ねぇ新星。道具っていうのにはさ、用途ってものがあるんだよ。用途に沿った使い方をして、初めて道具は道具たり得るのさ」


 怪物は手の中でメスを弄びながら、もはや意識のない彼に向かって語りかけていた。


「そしてこれはメスって言ってね、人を切るために作られた道具なんだ。こんなロープを切るためなんかに使ったらだめだよ。いいかい、新星。よく見てるんだよ。この道具はね――」


 怪物はそのメスを倒れ伏す彼の前に位置する私の脛の上に構えた。次に起こることを予想した私は、それから逃れようとして必死にもがいたが、途中まで切断された右足のロープですら、引きちぎることは叶わなかった。


「こうやって使うのさ!」


 怪物は容赦なく私の脛めがけてメスの刃を振り抜き、そこに縦に綺麗な一本の割れ目を作った。私は突然訪れた激痛に意識が飛びそうなほど悶絶する。体は痙攣で大きく震え、下着は失禁したせいで汚物まみれになった。


「ひゃはははは! その反応! やっぱり最っ高だよ! これだからこの遊びはやめられないんだよね!」


 怪物が発する狂気の哄笑が倉庫内に反響した。私は脚からくる激痛に悶えながら、またあの地獄を経験しなければいけないことにただひたすら恐怖していた。


 怪物がメスを放り捨て、ブルーシートがそれを受け取る音がする。一面に広げられたブルーシートはこのようにして発生するゴミと血痕を同時に回収するためのものだった。


「正直目障りだったんだよね、新星。五十沢さんの時も、大森さんの時も、僕が見つけたおもちゃを横からかすめ取ってく感じがしてさぁ」


 激痛に苦しみ悶える中、それを耳にした私は痛みに対する強烈な反応が奔走する頭で辛うじて全てがこの怪物の策略だったことを悟った。


 この怪物は新井先生と彼をわざとエンカウントさせ、強制的に二人が争うように仕向けたのだ。そうやって彼をうまく排除しつつ、その現場を抑えることで新井先生の口をも封じた。そう考えればすべて辻褄があった。


「だからね、新星。これは天罰なんだよ。僕を邪魔したことへのね」


 怪物はそう言ってにやりとすると、メスに代わる次の道具を探すために彼と私に背を向けた。私は激しい痛みに耐えながら、足元で動かなくなっている彼を見る。切られた脚から溢れる血は、彼が流した血で塗れたシーツをさらに赤で上塗りしていた。


 ごめんなさい。


 私は胸の内で何度も何度もその言葉を連呼した。もし〝私〟が彼に関わろうとしなければ、彼がこんな結末を迎えることなど絶対になかったはずだ。あんなに優しかった彼がこんな惨い死に方をするなど、本来あってはならないことだった。


 怪物が新しい道具を手にこちらに向かってくる。それを見て私は理解した。これは彼を不幸にしてしまったことに対する〝私〟への罰なのだと。苦痛こそが死ぬことができない〝私〟への究極の制裁なのだと。


 しかしそう思うと同時に、〝私〟は確固たる復讐心を胸に抱き始めていた。少なくともこの怪物は断罪者などではない。ただの快楽殺人者だ。そんな存在が、彼よりも長く生きていていいはずがない。そんなどす黒い感情が〝私〟の奥深いところで蠢き始める。


 その時、倉庫内に再び鉄扉の開く音が響いた。


「ん? あのセンコー、もう帰ってきたのか?」


 幕原隆二が足を止めると倉庫の中は物音ひとつなく静まりかえった。それは先刻のそれと同様、不自然な静けさだった。


 幕原隆二は急に険しい顔つきになると、手に持っていたペンチを投げ捨て、代わりにポケットから折り畳み式のナイフを取り出した。そして、足音を忍ばせながらゆっくりと通路の方へと近づいていく。


 しかし幕原隆二が通路に到達するよりも前に事態は急変した。


 突然コンテナの角から強烈な白い光が現れ、幕原隆二が一瞬それに怯まされた。そこへ通路から飛び出してきた黒いコートの人物が突進を試みる。しかし幕原隆二はすぐに態勢を立て直すと、向かってくる相手に対して勢いよくナイフを突き出した。


 次の瞬間、幕原隆二の体が宙に浮いた。コートの男は突き出されたナイフを間一髪のところで避けると、その腕を抱え込んで綺麗な一本背負いを決めていた。空中で見事に一回転した幕原隆二は、背中からコンクリートの床にもろに叩きつけられ、一瞬だけ変な呻き声を上げると動かなくなった。


「君たち! 大丈夫か!?」


 コートの男はそう叫びながらこちらに駆け寄ってくると、真っ先に私の足元に倒れている彼の口に手を当て、彼の手首に触れて脈を診る。それからベッドの上に乗っていた彼の上半身を慎重にそこから下すと、彼の体をブルーシートの上にうつ伏せで寝かせた。


 次にコートの男は私の方へ向き直り、私の猿轡を取り外した。私は少しだけせき込んだあと、必死に男に向かって問いかけた。


「新星は……! 彼はまだ生きてますよね!? 死んだりしてませんよね!?」


 私はコートの男の正体を訊くわけでもなく、助けてくれたことに対するお礼を述べるでもなく、真っ先に彼のことを案ずる言葉を選んでいた。


「落ち着きなさい。大丈夫だ、まだ息はある。かなり危険な状態であることには違いないが、もうじき救急車が到着するはずだ」


 コートの男はそう言いながら私の四肢に結ばれたロープを一つずつ断ち切っていった。そして、最後のロープが切られた瞬間、私はブルーシートの上でうつ伏せに寝そべる彼にベッドから転げ落ちるようにしてすり寄ると、その手に自らの両手を重ねた。彼の手は青白く、そして冷たかった。


「新星、だめ……死なないでっ……!」


 私は掠れる声で悲鳴のような懇願をしていた。幕原隆二に切り裂かれた脚からくる痛みはなおも強烈だったが、それがどうでもよくなるくらい、私は彼のことしか考えていなかった。


「彼のことが心配なのはわかるが、君のその脚も十分重症だ。すぐにでも止血をしないとまずい。私が応急処置をするから、一回ベッドの端に座ってもらえないだろうか?」

「応急処置ならまずは新星に――!」

「いや、そのレベルになると素人が下手に手を出す方がまずい。今は救急車の到着を待つしかないんだ。すまないが、わかってくれ」

「そんな……」


 私はその絶望的な状況にこうべを垂れ、そのために自分の脚から流れる血がブルーシートの上に血だまりを作っていたことに気づかされる。私は計り知れない不安に打ちひしがれながら、コートの男の言うことに従った。


「とりあえずこれでよし、と。あとは――」


 私の脚の応急処置を終えたコートの男は、ベッドの下から新しいロープの束を取り出すと、未だにピクリとも動かない幕原隆二のもとまで行き、彼をそれで縛り上げた。その手際の良さといい、先刻見せた綺麗な一本背負いといい、コートの男の動作はどれも明らかに訓練されているものだった。


 遠くからサイレンの音が聞こえてきた。その音は徐々に大きくなり、音源が一つではないことをはっきりと認識させる。重なり合うサイレンの音が意味するのはつまり、警察の到着だった。倉庫の鉄扉が今日一番の大きな音を立てて開かれ、大勢の人がドタドタと駆け込んでくる音が倉庫内に響いた。


 それからのことはもうあまり覚えていない。警察の人や救急隊員の人と何か話したような気もするが、その内容は全く頭に残っていなかった。唯一覚えているのは、彼を乗せた救急車に一緒に乗り込んだ私がその前で必死に手を組んで、ひたすらに彼の無事を祈っていたということだけだった。

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