第十八話 見知らぬ天井

 目が覚めるとそこには鉄骨の張り出した広く高い天井があった。それはいつもの記憶にある知らない天井ではなく、記憶にすらない知らない天井だった。ぼんやりした頭でどうしてここにいるのかを思い出そうとして――瞬間、私は跳ね起きようとした。


 ギシ!


 私は上体を起こすことができず、その代わりに両腕に強い張力を感じる。驚いた私は自身の体の置かれている状態を確認し、そして戦慄した。私はキングサイズの古びたベッドの上で大の字に寝かされ、四肢を太いロープで引っ張るように固定されていた。口にはしっかりと猿轡がはめられている。


 私は唯一自由に動く首を振って周囲の状況を確認した。左右には二段に積まれた古いトラック用のコンテナがあり、ここがなんらかの倉庫であることを思わせる。異様なのはこのベッドの周りの床が大きなブルーシートで覆われていることや、撮影用のパネルライトがいくつも設置され、それが照明代わりになっていることだった。


 私が現状把握に必死になっていると、右手の方で金属製の大きな扉が軋むような音が聞こえてきた。続いて、カツカツと誰かが床を歩く音が響き始める。私は恐怖のあまりに全身を震わせた。このあとに起きることが何なのかは十分に予測できる。床に敷かれたブルーシートの意味は、それ以外には考えられなかった。


 足音がだんだんと近づいてきて、右足の方向にあるコンテナの角から、床を照らすライトの光が見え始める。その光は揺れながら足音に連動するように移動し、ついにその光源をコンテナの角から現した。


 光源の正体は懐中電灯で、それを持っていたのは長身の男だった。顔はマスクと目深にかぶったキャップによって注意深く隠されており、その素顔を窺うことはできない。


 男は大きなキャリーバッグを引きずりながらこちらに向かってきて、その途中で私が目覚めていることに気がついたようだった。私はその瞬間、臓腑を握りつぶされるかのような恐怖を覚え、体を硬直させる。


 しかし男はすぐに視線を逸らすと、私から見て右側のコンテナの前までキャリーバッグを持っていき、そこでそれを開いた。どうやら中のものを取りだしてそれを床に並べているらしく、がちゃがちゃとした金属音がそこから聞こえてくる。


 男はその作業を終えると、再び立ち上がってまた通路の奥へと姿を消した。そして数分してまた戻ってくると、今度はその手に段ボール箱を抱えていた。そんな行程がさらに三度繰り返され、私から見て左手側のコンテナの前には大小さまざまな段ボールが五つも並んだ。


 最後の箱を運び込んだ男は立ち上がって振り返ると、ついに私の方に向かって歩いてきた。私はとうとうその時がやって来てしまったことを理解し、最後の抵抗を試みる。しかしいくら体をよじっても、ロープの無慈悲な張力は私を頑なにそこへ抑留し続け、ベッドだけがギシギシと意味のない音を立てていた。


 男がベッドの隣に立ち、私を見下した。パネルライトの逆光で顔は影の中に沈んでしまって見えない。しかし、目が合っているということだけは何故かわかってしまう。そしてそれを意識した私の四肢は急にいうことをきかなくなって力を失い、私はただ涙目で弱弱しく首を振ることしかできなくなってしまった。


 しかし奇妙なことに、男は再び踵を返してベッドから離れると、ポケットからスマホを取り出した。それから男はその画面を見て私にも聞こえるほどの舌打ちをすると、落ち着かなそうに付近をいったりきたりし始める。


 途端に意味のわからない行動をとり始めた男に私はしばらく困惑していたが、辛うじて生き残っていた思考回路がその男の行動にとある合理的な解釈を導き出してしまった。


 男は誰かを待っている。


 そう気づいてしまった私は、突然恐怖と同じくらいの後悔を感じた。なぜ私は犯人が複数人いる可能性を考えなかったのだろうか。今までの捜査で私が時折感じてきた違和感は、犯人が一人ではないことの証左だったのではないだろうか。


 そんな考えが頭に浮かんだ時、私は猿轡を噛みちぎらんばかりに強く噛んでいた。悔しい。ただただ、悔しい。今まで彼と一緒に必死になって捜査をしてきたのに、私は犯人の尻尾を掴むどころか、自身が狙われていることにすら気づけなかった。たかが高校生二人の力ではどうしようもできない現実が、私の前に凝然と横たわっていた。


 倉庫内に再び金属製の扉が開く音が反響した。おそらく男の共犯者が到着したのだろう。この先私にできるのは恐怖と苦痛に悶えて無様に死んでいくことだけだ。そう諦めた時、ふと頭のなかにいつか見た文章が蘇った。


――もっとはやく死ぬべきだったのに、なぜ今まで生きていたのだろう。


 そうだ。五十沢幽の時だって自殺を躊躇しなければあんな惨い死に方をすることはなかったはずだ。なんで私はまた同じ過ちを犯してしまったのだろう。


 彼との約束に本来意味など存在しなかった。たとえ私が自殺を選んでも、約束を破ったことで失われるものは何もない。そんなことはとうの昔にわかっていた。ならばもっと早くに死んでしまえばよかったのだ。


 目から涙が溢れた。〝私〟は幸せになれない。きっとそれはこの世界が〝私〟に課したルールなのだ。今回、〝私〟は生意気にもそれに抗った。その結果がこのざまだ。


 〝私〟はもうこの世界のルールに身を委ねることにした。もう全てがどうでもいいと何もかもを諦めた。


 しかし不思議なことに、いくら経っても周囲の状況に変化は訪れなかった。男が荷物を運び入れるために往復していた時間からして、倉庫の入り口から誰かが入ってきたのであればもう姿を表しても良さそうな頃合いなのに、その姿は一向に見えないどころか、足音すらも聞こえない。


 男も流石に様子がおかしいと感じたのか、床に置いていた懐中電灯を再び手に取ると、通路の方に向かって歩いて行く。その時、大きな雄叫びが倉庫内に響き渡った。


「うぉおおおお!!」


 その声の主は、通路に出た男の懐に飛び込むようにタックルをかまし、男を思いっきり弾き飛ばした。男の手放した懐中電灯が宙を舞い、地面に落ちて回転する。突如として現れた誰かは、倒れ込んだ男の上に馬乗りになってその顔面に殴りかかろうとしていた。


 しかし、男の方も馬乗りを仕掛けてきた相手に対して逆に掴みかかると、横に倒す要領で相手を投げ飛ばし、立ち上がって態勢を持ち直した。投げられた側もすぐに立ち上がり、その男と対峙する。


「てめぇだな、幽を殺しやがったクソ野郎は!」


 聞き慣れた声だった。私は絶望して枯れ切った胸の中に、急に何かが溢れてくるのを感じた。


「なぜ、お前がここにいる……!?」


 男は静かな低い声で、それでいて驚きを滲ませた声を発した。


「あぁ!? この期に及んでふざけたこと抜かしてんじゃねぇッ!」


 彼は再び男に殴りかかろうとしたが、最初の不意打ちと違ってその攻撃は男に簡単に避けられてしまう。その隙をついて男は拳を振り上げるが、再び懐に飛びついてきた彼によってバランスを崩すと、二人そろって床に転がった。そこからは格闘技のようなスマートさの欠片もないリアルな取っ組み合いにもつれ込む。


 私はそれをただ眺めていることしかできない自分が言葉に表せないほどもどかしくなり、今一度この拘束を解く方法を考えた。だが、やはり四肢が伸び切ったこの体勢からできることなどあるわけもなく、私はただ彼の勝利を願うことしかできなかった。


 私は再び足元の方に視線を向け、彼の姿を視界にとらえた。なおも掴み合ったり殴り合ったりを繰り返している二人の上着は大きく乱れ、彼の着ているジャンパーに至ってはチャックの部分が壊れている。二人の荒々しい声や呻き声、コンテナにぶつかる音などが静かな倉庫内にこだまする。


「いい加減その顔を――」


 一時的に優位を取った彼は右手で男の顔に掴みかかった。男は身に着けているマスクを片手で抑えながら、もう片方の手で彼の右腕を掴み、必死な抵抗を試みる。しかし、彼の膂力はその二つを完全に振り払った。


「見せやがれっ!!」


 彼は男のマスクを力づくで奪い取ると、それを勢いのままに宙へ放った。パネルライトの白い光の中に黒いマスクが舞い、それは複雑な軌跡を描いて床に落ちる。


 男は未だにマスクを抑えていた方の手で顔を覆っていたので、ここからではその顔を確認することは難しい。しかし、男の対面に立つ彼にはその下にあったものが確認できたらしかった。


「は……? なんで、お前が……?」


 彼の声音は「信じられない」という意味を言葉以上に雄弁に物語っていた。そして彼はそのあまりの衝撃に致命的にも一歩後ずさってしまう。


 次の瞬間、男は彼に向かって今までにない勢いでタックルを仕掛けた。不意を突かれた彼は回避行動が間に合わず、それを両手でガードする。しかし、足の踏ん張りが効かなかったために、彼は後にあったコンテナに勢いよく背中を打ち付けられた。


「ぐはっ……!」


 コンテナがごおぅんと鈍い音を響かせ、私はその音の大きさに息をのむ。それは決定打となり得るような衝撃を彼が受けてしまったことを何よりも酷薄に主張していた。


 男はさらに、背中への衝撃で一時的に呼吸困難に陥っている彼に容赦なく追い打ちの拳を振り抜き、顔面を強打された彼はパネルライトの支柱を巻き込みながら床に倒れ込んだ。パネルライトが床に叩きつけられる大きな音が倉庫内に反響し、その後に訪れる静けさが事態の深刻さをより一層際立たせる。男は倒れたまま呻いている彼に再び容赦のない蹴りを浴びせた。


「んーー!!」


 私は必至に叫ぼうとしていた。猿轡によって口が塞がれていることなど忘れて。このままでは彼が――そう考えると黙ってじっとしていることなどできなかった。


 私は引きちぎれるかと思うほど四肢に力を込め、無理矢理拘束を解こうと試みる。手首や足首にロープが食い込んで激痛が走るが、そんなこともはや関係なかった。〝私〟はどうなってもいい。不幸が定めなら甘んじて受け入れてやる。でも、そこに彼まで巻き込んでしまうことだけは絶対に許容できなかった。


 急に暴れ出した私に、男は一瞬彼への追撃の手を止めてこちらを横目で確認した。しかし無駄な足掻きだと思ったのか、すぐに彼の方へ視線を戻すと、再び彼めがけてその足を振り抜いた。


 男の背中はマスクを奪われる前とは全く違う冷酷な空気を醸していた。マスクを奪われる前の男には、彼と争うことにどこか迷いがあったように思われたが、素顔を晒してしまったことで男の中にあったリミッターは完全に壊れてしまったようだった。


 とうとう動かなくなってしまった彼を、私は涙で歪んだ視界で捉えていた。男は肩で息をしながら、倒れ伏した彼の前で佇立している。その構図は闘争の決着を何よりも正確に、そして残酷に私に示していた。


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。


 いつか誰かから聞いたそんな言葉が脳裏をよぎった。私は体の筋肉が消え、一瞬にして人形にでもなってしまったかのような錯覚を覚える。強い圧力と摩擦でできた手首と足首の傷からは赤い血が滴って、ベッドに小さな染みを作り始めていた。


 男は十分な時間をかけて息を整えると、彼が奪って捨てたマスクを拾い上げた。しかし耳に掛ける紐が片方切れてしまっていることに気づくと、男はそれを忌々しそうに投げ捨て、代わりにスマホを取り出すと、幾度かの操作のあとでそれを耳元に当てがった。やはり誰かに連絡を取ろうとしているのだろう。


 だが、その電話によって男が喋り出すことはなかった。唯一聞こえてくるのは苛立ちで男がかかとを小刻みに上下させるコツコツとした小さな音だけで、その他には何も聞こえてこない。男はついに痺れを切らし、コンテナを思いっきり蹴りつけた。


 私はもう希望が無いことを察してゆっくりと目を閉じた。男がこちらに向かってくる気配がする。恐怖で体が震えた。それでも、もうこの残酷な世界を見ていたくなかった。


 不幸は〝私〟にとって身近なものだった。それはいつも〝私〟の隣にあって、いつしかそれと共にあることが〝私〟を〝私〟たらしめるものであるようにすら思われるようになった。


 だからそれに対する実感が薄らいだことに、〝私〟は一種の焦燥を感じていた。それは今まで〝私〟を規定してくれていたものが突然なくなってしまったことに対する不安に他ならなかった。


 しかしその不安というのも、〝私〟の大きな勘違いに端を発していた。実のところやはりそれは常に〝私〟の隣にあって、〝私〟が勝手にそれを見失ってしまっていただけに過ぎなかったのだということが、今になってよくわかった。


 皮肉すぎる話だった。〝私〟が忌み嫌い続けてきた不幸というものが、空っぽになってしまった〝私〟を支える唯一の柱になっていた。〝私〟が〝私〟を保つために、〝私〟は不幸を必要としていた。


 幸せになろうとしてごめんなさい。


 最後を覚悟した私の胸中に湧いてきた言葉がそれだった。


 しかしその時、突如私の近くで途轍もなく大きな音がした。私はそのあまりの出来事に驚いて全てを諦めて閉じていた目を見開く。すると、そこにはあの男ではなく、傷だらけの彼が立っていた。


「はぁっ、はぁっ……沙夜……大、丈夫、か……?」


 頭から血を流し、顔中あざだらけの彼は、手にパネルライトの支柱を握っていた。支柱の先のパネルライト本体はもう原型をとどめないほど粉々になっており、床にはその破片と思しきものが散らばっている。彼の奥には男がうつ伏せになって倒れていた。


「今、助けて……やるからな」


 彼は苦しそうにそう言いながら、パネルライトの支柱を足元に放ると、私の首のあたりに手を回して猿轡を外してくれた。


「あ、あぁっ……」


 自由になった口からうまく言葉が出てこなかった。言いたいことは山ほどある。しかし、何から口に出せばいいのかが分からなかった。


「落ち着け、沙夜……俺はなんとか、大丈夫、だから……今、とにかく……ここから逃げる、ぞ」


 息の多い声で細かく言葉を切りながら話す彼はどう見たって重傷で、言葉通り大丈夫なわけがなかった。


「クッソ……かてぇな、これ」


 彼は私の右腕のロープを解こうとしてそのきつい結び目に苦戦していた。これはもう結び目を解くよりもロープを切断した方が早そうだ。そう思った時、私の頭の中に先程男がキャリーバッグの中身を広げていた様子がフラッシュバックした。


「あ、あそこにっ、多分刃物が置いてあります」


 私は未だに安定しない声帯でなんとか言葉を紡ぎ出した。右手の指で方向を示すと、彼はその方向に振り返って覚束ない足取りでそこへ向かっていく。彼はコンテナの前でしゃがみ込み、その中からあるものを手に取ると、再びこちらに戻ってきた。


「あの、イカレ野郎……こんなモンまで、持ってきて、やがったのか」


 彼の手には医療ドラマなどでよく目にする銀色のメスが握られていた。彼がその刃をロープに擦りあてると、ロープの繊維はみるみるうちに裂けていく。


「よし、これなら……」


 遂に私の右手はロープから解放され、自由になった。手首には輪になったロープがまだ残っているが、手を傷つけないように意識しながら作業をしていては時間がかかってしまうので、今はこれでよかった。


「次は右足、だな」


 彼はそう言って私の右足の方へと移動した。私は自由になった右手を反対の方の手へ伸ばしてみたが、足を開いた状態で固定されている今の状況では、せいぜい手首のロープに触れるのが限界だった。二人で同時に作業にかかれればと思ったが、右足が解放されるまではそれも難しそうだ。私は諦めて彼のいる右側に視線を戻し――そこで息をのんだ。ロープを切ることに夢中になっている彼の後ろに、男がナイフを振り上げて立っていた。


「後ろっ――!!」

「え?」


 私は悲鳴に近い声で叫び、それとほぼ同時に男はナイフを振り下ろした。


 この瞬間、私には全てのことがスローモーションに見えた。彼は私の声に反応して首だけで振り返って、一瞬驚きの表情を見せた。しかし男のナイフは何の躊躇もなく彼の背中めがけて一直線に振り下ろされ、彼の背中へみるみるその刀身を沈めていく。彼は苦痛に表情を歪めながらベッドの上に倒れ込み、ついにそこで動かなくなった。


「あ……」


 私の喉から掠れた声が漏れた。


「嘘でしょ……新星……? ねぇ……」


 彼の背中から溢れる血が、撥水加工されたジャンパーの上を滑って私の脚に滴り落ち、まだ生暖かさを残した気持ちの悪い感覚を私の脚に広げていく。


「いや……いやぁあぁぁぁぁぁ!!!」


 私は喉が張り裂けんばかりに絶叫した。頭の中は完全に真っ白になっていて、ただひたすらにこれが現実であることを否定しようとしている。しかし、そう思えば思うほど、私の脚に滴る彼の血は生々しい感覚をどんどんと鮮明に、そして大きくしていった。


「なんで……なんでこんなことするのっ!?」


 私は金切り声を男に向けた。そしてそれと同時に、私は初めてその男の顔を直視する。男の顔は右半分がパネルライトで殴られたために血まみれになっており、髪もかなり乱れていた。


 だが、私はその顔を見て言葉を失った。そこにはあまりにもおぞましい真実があった。


「先、生……?」


 そこには何もかもが変わり果てた新井先生が立っていた。目はしっかりと私を見据えているが、その視線には教師としての優しさどころか、人間としてのそれすらも宿っていないように見える。


「どう……して……?」


 声が震えた。よりにもよって、なぜ私をいじめから救ってくれた新井先生が犯人なのだろうという疑問がずっと頭の中で反復される。新井先生は私の質問に答える素振りすら見せずベッドの下から新しいロープを取り出すと、私の右腕を強引に掴んで引っ張った。


「いや! やめて!」


 私は必至に抵抗したが、新井先生は全く手を緩めようとはしなかった。私の手首に輪を作り、そのロープの先をベッドの下へと回して強く引っ張る。私が痛いと叫んでも先生は無表情のまま淡々と作業をこなしていた。


「先生、どうして!? 私をいじめから守ってくれたのは先生だったよね!? 先生は優しい人だったよね!? なんで――」

「黙れ!!」


 私の必死の訴えはその怒声によって、そして口にねじ込まれた布によって無理矢理に中断させられた。先生は私の猿轡を締め直して立ち上がると、私を見下して静かに言った。


「悪く思うな」


 そして先生は私に背を向けた。

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