第十五話 思いがけぬ協力者

 学校祭が終わると学校の空気は徐々に中間試験に向けてひりついていった。私も彼も勉学を疎かにするわけにはいかなかったので、捜査は一時的に中断し、各々追試などで時間を取られることがないよう努力することになった。


 五十沢幽の時とは違い、この〝体〟は大半の一般人と同様に勉強を苦とするタイプだったので、〝私〟も相当苦戦を強いられた。知識というものはほとんど〝体〟――すなわち脳に紐づけられているようなので、転生が起こっても以前の〝体〟の頭の良さを引き継げるわけではない。世の中に五万とあるご都合主義的作品のように強くてニューゲームというわけにはいかないのだ。


 また、彼も親から仕送りをしてもらって生活をしている以上、ある程度は良い成績を維持する必要があった。しかも彼は五十沢幽の失踪後、部に休部届を出していたようで、親からその理由を問い質された際、迂闊にも勉強が大変だからと答えてしまったらしく、余計に下手な成績を出すわけにはいかなくなっていた。


 その事情を初めて聞かされた時、私はどう言葉を返せばいいのかわからなかった。全国大会出場を目指して部活に打ち込んでいた彼が、それを放り出して今は幼馴染を殺した犯人を捜している。それが健全な高校生の在り方でないことは確かだった。


 しかし、〝私〟に彼のその選択を正す資格などあるはずがなかった。一体どう口が裂けたら「犯人捜しなんて不毛だからからやめよう」などと彼に言えるのだろう。もし〝私〟がそれを口にすれば、それは偽善と逃避以外の意味を持たなくなってしまう。それだけは確信を持って断言できることだった。


 季節も移り変わり、すっかり気温も落ち着いて、ときには上着がないと体が震えるような日も出てきた十月下旬。私たちはやっと中間試験から解放され、久しぶりに顔を合わせることになった。今回は以前校内で待ち合わせしてしまったときの失敗に学び、人目を集めないよう、学校近くのコンビニの前で待ち合わせようと私から提案をしていた。


「おっす。久しぶりだな」

「そうですね。なんだか随分時間が経ったような気がします」


 先に待ち合わせ場所に着いていた彼はコンビニで買ったらしい肉まんを手にしていた。〝私〟は久しぶりに彼と会えたことを少し嬉しく思いつつも、この関係は友達などの類ではないぞと自分を戒め、気を引き締める。


 しかし困ったことに、その自制の緊張を彼は一言のうちに打ち砕いてしまった。


「これ、やるよ」


 彼は手に提げていたレジ袋から紙の包みを取り出して、それを私の方に差し出した。見ると、そこには〈あんまん〉の文字が刻まれている。


「え、いいんですか?」


 私の目は点になり、口は反射的にそう問い返していた。


「ん。お互いテストお疲れさんっていうのと、これからまたいろいろよろしくって意味で」


 人が行きかう場所なので彼は明言することを避けたが、「いろいろ」というのが何を指すのかは私たちの間ではもはや暗黙の了解だった。


「ありがとうございます――いただきます」


 彼からあんまんを受け取って包みを開くと、それがまだ表面にほんのりと熱を帯びているのが感じられた。私はその白く艶のある生地に口をつけると、綺麗な円形に欠けを作る。生地と一緒についてきたこしあんはまだ熱いほどに温度を保っており、私は口を手で押さえつつ、口の中でそれを冷ましてからゆっくりと味わった。


「テスト、どうだった?」

「えぇっと、多分追試は免れたかなと思います。一番苦手な数学はちょっと怪しいですけど……」

「俺も追試は流石にないと思うな。古文で選択問題の回答欄ズレちゃったのがちょっと痛いけど」

「あー……あの古文の先生が作る回答用紙って妙に見づらいんですよね」

「だよなー。ぜってぇあれのせいで平均点落ちてんだろ」


 私たちはそれぞれが肉まんとあんまんを食べ終わるまで、そんな他愛もない話に興じていた。あくまで事件のことが話せない場所であるがために交わされているような会話でもあったが、きっとこんな会話こそが本来あるべき高校生の姿なのだろう。


 もし〝私〟が普通の女子として彼と出会うことができていたら、こんなありきたりな未来が待っていたのだろうか。ついそんなたらればを考えてしまう〝私〟がいた。


「さて、そろそろ場所を移すか。いつもの橋の下のベンチでいい?」


 肉まんを包んでいた紙をコンビニの前に設置されたゴミ箱に捨てながら彼は私に尋ねてきた。


「はい、そこで大丈夫です」


 その橋は私の家がある方向とは外れた位置にあるため、帰宅にかかる時間は多少伸びることにはなるのだが、他に代替案があるわけでもないので私は素直に頷いた。


「おっけ。じゃぁいくか」


 先に歩き出す彼の背中を、私は手に持っていた包み紙を捨ててから追いかける。そして今度は同級生としてではなく、協力者として彼の横に並んだ。先程まで緩み切っていた二人の間の空気が一瞬にして張り詰めるのが感じ取れ、それと同時に二人の間の会話はなくなった。


 紅葉にはまだ少し早い河川敷は、それでももう夏のような青々とした活力は失われているようだった。加えて今日の十月としては低めな気温は、河川敷から人々の足を遠のかせ、風景をより閑散とさせている。


 堤防から河川敷へとおりるスロープを下りながら、私はいつかに身を投げようとした橋梁を眺めた。あの時の私が、今の私の置かれている状況を見たらどう思うのだろう。そんな意味もない思考が頭を掠める。


 ベンチに腰を下ろすとひんやりとした感覚が制服越しにも伝わってきた。私は荷物をベンチの横に置き、冷えた手を吐息で温める。手袋をしてくるべきだったという小さな後悔は、赤くなった手のひらの内でこすり潰した。


「ちょっと時間が空いたし、軽く状況を振り返ろうか」


 隣に座っている彼が、重々しくその口を開いた。


「テスト前の調査で、俺たちは瀬戸瑠海の事件と寺嶋満月の行方不明、そして幽の事件がすべて同一犯による犯行だと考えた。で、沙夜の推理では犯人はIKOIっていうNPO法人のカウンセラーである可能性が高いんじゃないかって話だったよな?」


 私は彼の話に首を縦に振って応える。徐々に試験前に思考の大半を支配していた懸案が甦ってきて、その重々しさに私は口元を引き締められた。


「俺も犯人がどうやって被害者の家庭事情を把握したのかは気になってたから、色々と考えてはみたんだけど……やっぱり沙夜の推理以上にしっくりくるものは何も思いつかなかった」


 私が彼にIKOIが怪しいと伝えた時、彼はそれについてのコメントをいったん保留としていた。それは、試験が二週間後に迫っていたからというのもあるが、私の推理がにわかには信じられないような内容だったことによる部分が大きかった。しかし、最終的には彼も私と同様、それ以上の回答を導き出すことができなかったらしい。


「だから、今後はIKOIのカウンセラーの中に犯人がいると仮定して話を進めていこうと思う」


 IKOIのカウンセラーの中に犯人がいる。その帰結をいざ他人の口から聞かされると、急に自分の推理が現実味を欠いているような気がしてくる。何かを見落としてはいないか、また視野狭窄に陥っているのではないか――そんな懸念が、今更ながらにねっとりと絡みついてくるような感覚がある。


 しかし、これ以上考えてもそれより妥当な推理が出てくる可能性は低い。ただでさえ定期試験に時間を潰されてしまった現状で二の足を踏んでいる暇など私たちにはなかった。考え直すのは行き詰まったときでいい。


「で、早速なんだけど、来週の土曜日に市内の公民館でIKOIが講演を開くみたいなんだ。定期的に開催されてるやつらしいけど、次の講演は来年になるみたいだし、この機会を逃す手はないと思うんだけど、どうだ?」


 彼がスマホの画面にその講演の告知をしているポスターの写真を表示して私に示した。題目は〈子どものメンタルヘルスを考える〉となっており、目次の中の〈IKOIの活動について〉という部分は私たちの知りたい情報を含んでいる可能性が考えられる。それに、実際にIKOIに関わる人たちに会うことでわかることもあるかもしれなかった。


「そうですね。私も行った方が良いと思います」

「よし、じゃぁ決まりだな」

「ただ、これってどう考えても保護者向けの講演ですよね」

「高校生が出たら駄目ってことはないだろ」

「まぁそうですけど……」


 保護者たちの集まりの中に高校生が二人だけ入るのを想像すると、どうしても場違い感が否めなかったが、今はそういう好き嫌いを言っている場合でもないので、それについては意識しないようにするしかないと私は諦めた。


 それから私たちは当日の段取りを決め、知りたい情報をスマホのメモにまとめていった。しかしそれが終わると、途端に今やれることがほとんどないことに気がつかされ、仕方なく解散する流れとなる。


「じゃぁ来週の土曜日、公民館前で」

「はい」


 私たちは最後にそう約束し、それぞれの帰路についた。

 



 講演までの八日間はとてもゆっくりと過ぎていった。テスト開けすぐの土日は、私に何もすることがない時間を押し付けるばかりで、気晴らしの読書もなぜかあまり身が入らなかった。翌週の試験の答案返却のときですら私はどこか上の空で、いつもより出来が良かったことに気づいたのは大分後になってからのことだった。


 その原因は間違いなく早く次の土曜日が来てほしいという思いによるものだっが、そう思わせる理由がなんなのかは私自身にもよくわからなかった。事件の調査を進展させる情報が得られる可能性に期待しているわけでもなければ、何も得られないだろうと悲観しているわけでもない。未だかつてない正体不明の待ち遠しさに、私は困惑さえしていた。


 そしてやっと訪れた講演当日、私は最寄りのバス停から午後一時十三分発のバスに乗って市の中心部へと向かった。先月までは毎週通っていた東図書館を通り過ぎ、さらに十数分ほどいったところでバスを降りる。目的地まではそこから徒歩で少しいくだけで事足りた。


 公民館の前に着くと、彼が建物入り口のポーチを支える柱に背を預けてスマホをいじっているのが見えた。私はそこへ近づいていき、二メートルほどの距離のところで彼に声をかける。


「お待たせしました」


 顔を上げ、私の方を見た彼はなぜか一瞬驚いたような表情を見せた。


「あぁ沙夜か。びっくりした」

「え?」


 彼の発した第一声に、私は逆に驚かされてしまう。


「いや、なんかいつもとちょっと雰囲気違うからさ」

「そうですか?」


 彼の言うことに私は首を傾げながら自分の出で立ちを確認した。黒のプリーツスカートにゆったりとしたシルエットを持つベージュのニットといういつになく気合が入ったコーデに、私は自分自身で驚いてしまう。思い返せば、彼に制服以外のスカート姿を見られるのもこれが初めてかもしれなかった。


「ま、まぁ季節も変わりましたし、そろそろ衣替えの時期かなーって」


 私は頬を熱くしながら必至な言い訳をした。いくら久々に街中に出るからといって、流石にこれはやりすぎたと猛省する。ここに来た目的を考えればもう少し地味にしようかといった配慮が働いても良さそうなものだが、これでは完全にショッピングにでも出かけようかといった具合だ。


「そうなのか? まぁいいや。早く中に入ろうぜ。もう開始まで十分切ってるし」


 講演は二時に始まるので、彼の言う通りもうそろそろ席に着かないといけない時間だった。私たちは公民館の中に入って二階へと上がり、廊下の途中に設けられた案内に従って進む。すると、ドアが開け放しになっている部屋が一つだけあり、そこが会場だとすぐにわかった。


 私は最初、百人以上が入るような大きな会場を想像していたが、その部屋は精々四十人が座れるほどの座席数しかなく、学校の教室を思わせた。私たちは入り口に立っているスタッフから資料を受け取り、三列ある長机の左側、前から三番目の位置に並んで席を取った。


「ざっと二十人くらいか? 割と人来るんだな」


 彼が小声でそんなことを呟いた。参加者は皆思い思いの席に座っているので、正確な人数を把握するのは難しいが、彼の目算でおよそ正しそうに見える。


 講演が始まるまで資料に目を通すことにした私たちだったが、その資料は講演に使うスライドを四枚一組にしてそのまま印刷したようなものだったので、予め読んでおく必要はあまりなさそうだった。


 また、資料と一緒に渡されたパンフレットもIKOIのホームページをそのまま紙に落とし込んだだけのように見えたので、ざっと目を通しただけでショルダーバッグの中にしまい込んでしまった。


「えー、皆様本日はお忙しいところお集まりいただき誠にありがとうございます。そろそろお時間ですので、講演の方をはじめさせていただきたいと思います。私はNPO法人IKOIで理事兼カウンセラーをやっております稲垣芳美いながきよしみと申します。本日はどうぞよろしくお願いいたします」


 講演がはじまり、会場の視線が前方へと集中した。マイクを握っていたのは四十前後くらいの女性で、カウンセラーを名乗るにふさわしいほど人当たりの良さそうな笑みを浮かべていた。


 しかし私たちの期待を裏切るかのように、その講演は私たちに必要な情報を何一つ与えることなく過ぎ去っていった。講演の内容の大半は題目通り子どものメンタルヘルスに関することで、思春期の特徴にはじまり、子供が悩みを抱えているサインとなる言動の紹介など、保護者が注意すべきことが説明されていた。


 唯一宛にしていた〈IKOIの活動について〉と小見出しが貼られた部分も、やはりホームページで紹介されている内容をなぞるものとなっており、目新しい情報は皆無に等しかった。


「ちょっとこれは宛が外れたな……」


 講演が終わり、参加者たちがぞろぞろと部屋を出ていく中、私たちは徒労感でなかなか席から立ち上がれずにいた。それは東図書館で一日中地方紙とにらめっこをして何も出てこなかった時の感覚に近いものだった。


 期待を持つことの反動はいやというほど知っていたはずだが、人間とは愚かなもので、その過ちを何度も繰り返してしまう性を持っているらしい。きっと私たちはこれからも同じことを繰り返してしまうのだろう。そう思うと思わず深いため息が漏れた。


「あなたたち、ちょっといいかしら?」


 いい加減席を立とうと腰を浮かせかけた時、私たちは突然声をかけられた。見るとそこには先程まで講壇の上に立っていたあの人当たりの良さそうな女性が立っていた。


「なんでしょうか……?」


 本当に意外な出来事だったので、私の対応は少し憮然とした感じを伴っていた。


「突然ごめんなさいね。この講演にあなたたちみたいな若い人が来てくれるなんてとっても珍しいことだから、つい声をかけてしまいたくなったの。よければ少しだけお話させてくれると嬉しいのだけど、いかがかしら?」


 彼女はそう言って、和やかな笑みを浮かべた。やはりカウンセラーだけあって、人の警戒心を解くのがうまい。私は彼女が犯人である可能性もゼロではないと身構えていたが、その考えはその笑顔で見事に霧散してしまった。私は隣の彼と顔を見合わせ、頷き合うと、彼女の方に向き直る。


「はい、大丈夫です」

「ありがとう。じゃぁ、ちょっと場所を移しましょうか。ここは片付けをしなくちゃいけないから」


 彼女の先導で私たちはその部屋をあとにした。IKOIの理事と話せるという突然訪れた千載一遇のチャンスに、彼は秘かにガッツポーズをみせ、私も胸の鼓動の高鳴りを禁じえなかった。


 館内の休憩スペースに案内された私たちは、彼女の好意で飲み物を奢ってもらい、三人でそこに設置してある丸テーブルに腰を掛けた。


「改めて自己紹介をしておきましょうか。私はIKOIで理事兼カウンセラーをやっている稲垣芳美です。趣味は映画鑑賞で、好きなジャンルはヒューマンドラマ。それからケーキには目がないタイプです」


 彼女は首に提げている名札を手に取り、胸の前に掲げながら朗らかにそう自己紹介をした。私たちはどちらから最初に名乗るか迷って互いに目くばせをしたが、彼が自分を指さしたのを見て私が頷くと、彼の方から先に自己紹介を始める。


「東高二年の久々利新星です」

「同じく大森沙夜です」


 気持ちがはやっているせいか、彼女の自己紹介に対して私たちの自己紹介は無味乾燥なものとなっていた。


「久々利さんと大森さんね。今日は講演に来てくれてありがとう。高校生が来てくれたのは私の知る限り初めてのことだからとっても嬉しいわ。もし差し支えなければ、今回の講演に来ることになったきっかけを教えてほしいのだけれど、どうかしら?」


 これはいきなりまずい質問だ。まさか馬鹿正直に「連続殺人事件の犯人捜しです」と答えるわけにはいかないし、かといって「子どもをいじめや虐待から守る活動に興味があって」などと答えて先程の講演の延長戦に入るのも気が引けた。


 また、相手はカウンセラーなので人を見る目には長けているだろうから、下手な嘘をつくのはかえって相手を警戒させてしまう可能性がある。さまざまな思考を巡らせた結果、私は意を決して口を開いた。


「稲垣先生は最近行方不明になった五十沢幽という女子高生をご存じですか?」

「五十沢幽さん……? ごめんなさい。知らないわ。詳しく聞かせてくれないかしら」


 私はスマホのアルバムの中から彼女が行方不明になっていることを書いた記事の写真を選び、それを彼女に提示しながら話を続ける。


「今年の七月から五十沢さんは行方不明になっているんですが、実は彼女の家庭環境はかなり劣悪だったみたいで……。なので、もしかしたらIKOIのカウンセラーの方に相談したこともあるんじゃないかと思いまして」


 五十沢幽がIKOIのカウンセラーと接触したことがあるかどうかは今の〝私〟でははっきりとしたことは言えない。ただ単に〝私〟が五十沢幽だった時にそのことを思い出す機会がなかったという可能性がある以上、〝私〟が五十沢幽に転生する前に五十沢幽がIKOIのカウンセラーに相談していたという可能性もないとは言い切れなかった。


 稲垣先生は私の差し出したスマホの記事にさっと目を通し、胸を痛めたかのような表情をすると、まるで傷を負った子どもに寄り添うかのような口調で私たちにこう尋ねた。


「つまり大森さんと久々利さんはこの五十沢さんを探しているのね?」


 私は彼女の質問に控えめに頷いて応える。すると、彼女は少し申し訳なさげに悄然とした様子を見せた。


「申し訳ないけど、私は五十沢さんのことについては何も知らないわ。東高に配属されたことのあるカウンセラーならあるいは何か知っているかもしれないけれど……」

「なら、そのカウンセラーの方にお話を窺えませんか?」


 稲垣先生の話に彼が食い気味に反応する。それもそのはずで、現状五十沢幽と接触したことがあるIKOIのカウンセラーは私たちにとって容疑者の筆頭候補だった。


「そうねぇ……とりあえず今年東高に配属になった不破くんには相談室に行けば会えると思うから、直接話を聞きに行ってみるといいと思うわ。基本的には相談相手の情報を他人に話すのはNGだけど、行方不明になっていることを伝えれば協力してくれるはずよ。私からもそう伝えておくわ。それと去年東高に配属された人が誰だったかは今ちょっと思い出せないから、あとで調べて私の方から話を聞いておくわね」

「ありがとうございます」


 稲垣先生が名刺を渡してくれたので、私はメモ用紙に自分のメールアドレスを書いてそれを渡した。名刺には法人のメールアドレスと一緒に稲垣先生個人のメールアドレスが記載されており、私はIKOIの理事と連絡先を交換できたのは相当大きいと手応えを感じた。


「そうそう東高といえば、新井先生は元気にやっておられますか?」

「え? 数学教師の新井先生ですか?」


 藪から棒に飛び出した名前に、私も彼も鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。


「ええ。新井先生は去年の夏ごろにうちに入職されましてね、すごく精力的に活動してくださって非常に助かっているんです。ほら、最近はデジタル化がどうのって話がよくニュースで話題になるでしょう? うちはそういうのに強い人がいなくてずっと紙で業務をこなしていたんだけど、新井先生がそれをデジタル化してくださって。最初は戸惑いもしましたけど、今では便利に使わせてもらってるんです。そうそう、うちのホームページを今の素敵なデザインに改修してくださったのも新井先生なんですよ?」


 稲垣先生の話は私たちにとってはまったく驚くべき話だった。新井先生といえば、東高の生徒たちの間ではあまり評判のいい先生ではなく、不愛想でわかりづらい授業をするハズレ教師として認識されている。実際、〝私〟が五十沢幽だった時のクラス担任も新井先生だったが、やはりあまり良い印象は残っていない。


 だからこそ、新井先生がIKOIで精力的に活動しているというのはなんとも奇妙な話に聞こえた。人は見た目によらないとはよく言うものだが、こんなにも表とは違う側面を持ち合わせる人物というのも珍しいのではないかと考えさせられる。


「なんていうか……意外、ですね」


 彼が私の胸中を代弁するかのような言葉を呟いた。


「あら、ずいぶんと学校では誤解されてるみたいなのね」


 稲垣先生は彼の言葉に私の反応も加味しながら、新井先生が学校でどんな評価をされているのかを見抜いたようだった。


「厳格な人って誤解されやすいから仕方ないのかもしれないけど、あなたたち二人だけでも新井先生のことを少しでも見直してくれると嬉しいわ」


 稲垣先生はそう言って新井先生の話題を締めくくると、コーヒーが入ったコップを持ち上げた。


「さ、折角温かい飲み物があるんだから、冷める前に飲んでしまいましょう」


 話に夢中になっていた私は、その言葉に初めて自分がまだ飲み物に手をつけていないことに気がついた。彼女の好意を無下にするわけにもいかないので、私も「そうですね」と応じてココアの入ったカップを手に取る。しかし、この席には一人だけ何とも言えない表情で固まっている人物がいた。


「まぁ、俺のはコーラなんで冷たいですけどね……」


 氷の浮かぶカップを見つめながら苦笑する彼を見て、私と稲垣先生は顔を見合わせると、揃って小さく吹き出した。

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