五行自伝

百葉羽子

五行自伝

 剛毛に覆われた種が落下して来て痛みを感じた時、思い出した人は彼だ。知らない人の、感じたことのない息が、なぜか突然雷鳴のように落ちて来、私は彼がその息と一緒に吐いた言葉を、再び聞いた。

「行くところがないのなら、乗っちゃおうか」

 二十数年前、高校生の私に対し、彼は停まっていたバスを見て、言った。バスの行先表示の赤いライトが、ボーッ、ボーッと点滅を繰り返し、最終バスであるのがわかるのだった。

 黒いスーツを着た彼は闇の一部で、いや、ついさっき闇の中から出てきたばかりのような人で、彼が話すと真っ白な歯が浮いて見え、質量の感じられる息が私に降りかかり、それは確かな存在感をもたらした。

 帰らなくては。家では母が待っている。

 頭ではわかっているのに、あのバスを逃したら次はない、私の行くべき場所に永遠に行けない。焦りで私の頭は発火する。そうこうしている間に彼はもうバスに乗り込み、再びバス車内の闇の中へ消えてしまった。でも私にはわかる。彼が出てきたところの闇と、彼が入っていった闇は、全く別のものだということを。

 私はダッフルコートの木のボタンを弄りながら、思い切って足を一歩踏み出した。ザラリ、と指先に粗い木目の感触が来て、その瞬間、私はバスのステップの上に立っていたのだった。車内の闇に目をやり、私は彼を探してみたが、闇の中から現れたのは小さな白い蝶だった。ひらひらと蝶は笑い、窓から外へ出て行った。きっと彼があの蝶で、このバスに乗れさえすれば何処かへ行けると思った私は、揶揄からかわれたのだ。悔しくて、頭から全身に熱が回った。私はもはやただの火柱で、人ではない何かであった。私にはもうたった一つの思いしかない、それは火の粉になってあの蝶に追いつくこと。


 全身を二つに叩き割られたような痛みを感じ、ふと足下を見たところ、そこには大きな水溜まりが出来ていた。目の前には五階建ての白い建物があり、建物の周りには緑が茂り、日差しを浴びて透き通った葉が時々揺れていた。樹の下の木陰には人が数人集まって、お弁当を広げている。そこには雨が降った形跡は全くない。私の足下だけが何故か濡れていた。

 建物の最上階の辺りにある看板で、その建物が区役所であると知れた。私は彼の気配を求め、建物の中に入った。

 自動で開閉するガラス扉やエレベーターの扉が刻むリズムは軽やかで、待つことがない設定になっていたから、私は建物の方が私に合わせた動きをしているのだと思った。規律に支配された美しさの中で、私は何ももう探さずに、彼を探すことも忘れ、ただここに居ればいい。それはきっととても楽で、幸せだろう。しかし、何かが違和感となって私にまとわりついて離れない。ふと見ると、私の足元に水溜まりがまた出来ていた。私の身体のどこかが水源なのか、脚を伝って、流れ出ている。彼がいるのは何階なのかわからないのに、私はエレベーターを三階で降りた。エレベーターの中にできた水溜まりが三階で扉の方へ一瞬だけ揺れて流れ出したからだ。水溜まりを揺らしたのは風だった。ひょっとすると、規律の中で、風だけは規律できないのかもしれない。

 エレベーターを降りた廊下に、ラックがあって、三種類のパンフレットが等しい厚みで刺さっていた。真っ白な壁伝いに進んだ先にはカウンターがあり、その後ろの席に座っている中年の男がおそらく彼に違いなかった。彼の髪には茶色の羽の小さな蝶が、震えて留まっていた。

 私が近づいて行くと、彼は私に気づいて立ち上がった。彼は私のことを覚えていないようで、

「どうされました?」

 と、機械的に声をかけてきたのだった。目は濁り、私を見ているようで全く私のことなど見ていない。ただ死を待つだけの男。ああ、この人は生きている。確かにここにいる。そう思わせてくれた人は一体どこへ消えたのか。聞きたいことはそれだけだった。

 ピチャッ、と音がした。彼は驚いた様子で私をようやく見た。頭から足元までを視線をゆっくり動かして見た。水が滴り落ちる音が再びする前に、彼の髪に留まっていた蝶がふっと飛んで彼の周りをひらひら舞い始めた。私のことを思い出したのかもしれない。

「風が吹いてきたかな」

 と彼は言った。

「随分長い間、風を感じていなかった気がするが」

 そんな所にどうして長い間いられたの、と聞くのは愚問なのはわかっている。それでも聞きたかった。聞きたい気持ちが身体の真ん中から上の方へ逆流し、口を開いたとたん滝のように水が溢れ、ものすごい勢いで彼の顔を穿った。そんな彼を、蝶は嗤った。嗤いながら蝶はその羽の色を鮮やかな橙色に変化させた。夕陽の光のようだった。彼は後ろに倒れていった。滝のような水流がうねりとなって、彼に巻き付いていく。私の足跡にあった水溜まりが全て吸い上げられ、そのうねりの渦となった。渦は舞っていた蝶を吸い込み、そして最後に私をも吸い上げた。渦の中に取り込まれる瞬間、周囲の光景は何も変わっていないのを知ったのだった。他の全てのことはきっとこれからも今まで通り、それが規律の正体なのだろう。


 渦の中はじんわりと温かった。懐かしい感覚で、流されて行く。視界の中に、彼がいた。彼は死んでいるのか、生きているのかわからなかった。私自身も、生きているのか、死んでいるのか、わからなかった。しかし、ようやく私は彼と全く同じものになれたのだと思った。心地よい温かさは、眠りを誘ってくる。私は微睡まどろみの中へ入っていった。


 眩しくて目が覚めた。夕陽で辺り一面が橙色に輝いていた。低くて平べったい建物とその側面を這うようにして伸びる管がたくさんあった。

 昔、高速道路から、こういう景色を見た。トラックばかりが走る中で、小さな車に乗っていた私は怖かった。この辺りは工業地帯だから、原料がたくさん運ばれてくるんだよと私に言ったのは、父だった。ゲンリョウの響きも、意味がまだわからない私にとっては不気味な音だった。父はその時明らかに興奮していたと思う。直角に曲がりくねる太い管。管の表面には、がっちりとしたビスがいくつも埋め込まれいるのだった。この景色の一部になったらもう二度とは戻れない。捕らえたら逃がさない。そんな意志を感じた。かろうじて高速道路脇の柵があったのが救いだった。その柵は、きっと私を守ってくれると思えた。

 そういった柵は今、眼前に広がる景色にはない。平くて四角い所々錆びついた箱が地面に貼り付いている。細かく直角に箱すの周りを這うように伸びていく管のその先を、私はぼうっと眺めていた。まるで自分がその管の中をいく物質になったようだ。

「此処にいたのか」

 と言う声が聞こえた。懐かしい声だった。振り返ると大きな鰐がいた。鱗が夕陽を浴び、金色の塊に見え、口を開いた時に見えた牙でわにとわかったのだった。

 鰐は私のことを知っているようだった。でも私にはそれが誰だか、わからなかった。私は鰐を置いて、一番近くにある管の伸びる先へと歩き始めた。

「どこへ行く?その先に入ってはいけないよ」

 と鰐は言うので私は、

「放っておいて頂戴」

 と言ってずんずん歩いていった。鰐が追いつけないくらい速足で歩いたつもりだったのに、鰐はずりずり這うようにやってきて、私を追い越してしまったのだ。それが私には不愉快だった。

「入ってはいけないと言ったのに。君は自分が今、どんな状態なのかをわかってないな」

 と鰐は嘲笑した。

 妙なことを言われたので、ますます不愉快になって、

「貴方こそ」

 と言い返した。

「君はこれからドロドロに溶け、加工され、元の形と全く違うモノになるんだ。今の状態で既に完璧なのに」

「何を言っているの」

「わからないのか?君は金なんだ」

 先ほど金の塊に見えた鰐の体は、箱の影に入って、ただの黒くゴツゴツした扁平な怪物となっていた。それで私はようやく鰐が金の塊に見えた理由は、夕陽が私の身体に反射した光が当たっていたからだとわかったのだった。もし私が金であって、これから変化するのだとして、この鰐のような運命は御免だ。そう思ったら、頭の先に刺すような音が次々下りてきた。お互いを削りながらエネルギーを出すそれは、私のこれからの道に確かに存在して、待っていた。管の先には揺れながら発色を変える極光オーロラが見えたのだった。文句なく美しく自由であった。

「あれを見て」

 私は言った。「今は緑で、少し前は紫。あんな自由なものになれたら、素敵だと思わない?」

「君は今、既に完璧じゃないか。この前が水、そのもう一つ前が火と、君は自在に変化してきた。これ以上何を望む?」

 気がつけば、管の先の極光は密集して羽が羽ばたくような動きをするようになっていた。蝶みたいだ、と思った。蝶のことを思ったら、彼のことを自然と思い出したのだった。蝶はいつも彼の側に現れ、蝶に選ばれた彼に私は憧れ、近づきたいと思っていた。

 でも今は、蝶は私が行くのを待っている。そして、あれほど憧れていた彼は今、鰐である。

 蝶のような軽やかな極光から、耳に刺さるくらいの高音がひっきりなしに発せられ、そのうちに私は聴覚を失った。ただ万華の光の宴の中で、これこそが限界のない可能性の美しさだと思った。もはや私の視界には例の鰐が入る余地は無くなった。私は酔った。数え切れない色の組み合わせの羽を持った蝶が、光のカーテンの合間に見え隠れし、次々と私を上へ上へと誘った。呼吸をするのも忘れ、傷みすらどこかへ置いて、私は誘われるがまま昇っていった。私は自分自身がどんな姿になっているのかについての興味を失っていた。複数の蝶が一つに集まり、強烈な光に包まれた。その瞬間、世界は暗転した。


 何も見えなくなって初めて、私は全ての感覚を失ったことに気付いた。もはや私は個体ではなく、ただの物体に成り下がった。一体いつからだろうか。無限の可能性が行き着く先は、桃源郷ではなかったか。そんな問いを何万回繰り返したか。かろうじて私が私でいられたのはこの問いに囚われていたからだった。そしてあの鰐の幻影を見たような気がした。鰐の幻影の数は次第に増え、鰐ではなくてゴツゴツした岩石のようになって、取り憑いた。岩石に取り憑かれ、間もなく風を感じるようになった気がした。これはただの記憶だ、感覚の記憶があればそれだけで幸せなことだと思っていたら、次に何かにぶつかった強い衝撃を感じた。これは私自身が体験したことがないもので、もしや私は感覚を再度取り戻しつつあるのではないかと思い始めた。衝撃波は、取り憑いていた無数の岩石の姿形を変化させるのに十分な量のエネルギーを持ってきたのだった。岩石は溶け、鮮やかな赤い滝を作った。しかし滝は一瞬で流れを止めて色を失う。また何かにぶつかる。滝が生まれて、消えていく。その繰り返しは私の今までとそっくりだった。私をずっと突き動かしてきたものは、憧れだ。憧れを追いかけて、追いついて、新しい憧れを求める繰り返しだった。その果ての姿がこれだ。

 もしもう一度、手足を持てるのなら、五感を得られるのならば、私は一処に根を張って生きていきたい。

 断続的だった風が、ずっと吹き続けるようになった。風は今までも自由であって、変化の兆しだ。私は風に祈ることにした。風はそのうち爆風となり、止まらない光となった。しかしその光は私の前にではなく、後ろに続いていた。光に導かれるのではなく、私が行く道の後に光が生まれていく。私が私の幸せのために自由に道を選択できること。それ自体が光なのだ。

 そして私は気付いたのだ、自分が「えて」いることに。


 光はいつしか消えることのないエネルギーとなった。


 私の後ろにはいつも、それがある。


 青く輝く点を捉えた時、あの星はきっと私の故郷の星だと決めた。今度こそ自分で自分の居場所を作るのだ。

 冷たい、と感じる何かが初めてぶつかって来た。それは次第に私自身を潤した。私自身から匂いを感じた。懐かしい匂いであった。青く輝く星に近づく途中で、たくさんの岩にぶつかり、それらの一部は煙となって消え、また一部は私と同化していった。存在を得るに至らず消えていった物たちのことを考えると、生かされることの天文学的な可能性の価値を思う。私が一度死にかけたのは、その価値に気付いていなかったからかもしれない。私が一度感覚を失ったのは、感じるべき事柄を感じようとしてこなかったからかもしれない。

 星との距離が縮まるにつれ、星の様子がよく見えてきた。私の知る故郷は緑が茂り、豊かな海が広がっていた。しかし目の前にあるこの星は、ほとんどが茶色で、緑や青の部分はほんの一部であった。土煙と思われるものが帯になって星を覆っている。故郷はすっかり変わってしまった。

 それでも私は此処で生きていきたいと思う。

 星に接近すると爆風の圧力が、私を形作る岩石を次々と削りとり、星の表面に着く頃には、私はすっかり衝撃で破壊され、乾いた土の塊になっていた。この星のために何かできることをしたい。痛みすら覚える風や、妖しい引力をたたえる一面の地割れ。そんなものに触れながら私は、小さなオアシスに辿り着いた。もはや私は形状を留められてはいなかった。不思議なことに、形はなくても感覚はまだある。私は木になりたい。感覚の残っている間に、そのチャンスをどうか。ちょうどその時叩きつけるような砂嵐が始まり、いつ終わるのかわからない竜巻に巻き込まれ、その中で私は砂でも土でもない、硬い何かに触れた。それが種子であるとわかった時にはもう、種子は竜巻のどこかに行ってしまった。私は風の流れを選び、乗り換え、再びその種子に遭遇する瞬間を待った。ついにその時は訪れ、私は確かに種子の表面にある剛毛が私を貫く痛みを感じた。まるで私に皮膚がまだ存在するかのようなリアルさだった。喜びが痛みとなって顕れる、そんなこともあるのだ。私はこれから木になる。木になって、この星と生きていく。私の意思で。

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