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 背後でケトルが高く鳴いた。アシャリは火からフライパンをずらすと、マテ壺を持って振り返る。空いた手でそっと湯沸かし器に触れて、具合を確かめた。ちょうど、八十度に少し届かないくらい。お湯を注ぐと、茶葉シェルバから梨のフレーバーが漂った。


 テーブルには既にクロワッサンの皿が二つ置かれている。一つはアシャリの、もう一つは、部屋の主のためのもの。昨日のうちに、大通りのパン屋に行って買ってきたのだ。このクロワッサンは、セラースカのお気に入りである。上等なチーズが挟んであって、甘さが控えめに作られているものだ。


 電磁コンロに向き直ってスクランブルエッグを完成させると、つやつやに焼いたベーコンと一緒の皿に入れて、アパルトマンの隣の部屋を改造して作られた、セラースカの工房まで運んでいく。気を利かせたのか、彼の腰に接続された動作補助機チューブがマテ茶を持ってくれた。部屋の主によって散々散らかされた床は足の踏み場もないが、アシャリは危なげなく歩いていく。鍛えられた体幹はまだ鈍っていない。ひときわ沢山の物に囲まれた作業台に辿り着くと、工具に顔を付けたまま眠っている少女の肩を揺らす。


「セラースカ、起きろ。飯にするぞ」


「アシャリさん? おや、これは。良い匂いですね。起きます起きます」


 丁重に遇する、とは言ったが、具体的なプランはなかったらしい。いつしか家事はアシャリがするようになっていた。どうにもセラースカには十分な生活能力がないようで、放っておくとすぐに物の山に埋もれて眠っている。最初のころは「すみません、こんな至れり尽くせり。ひええ……申し訳ない……」と殊勝そうな態度を取っていたが、今は自然に世話を焼かれている。


「あまり根を詰めすぎるなよ。君のは、見ていて胃がきゅっとなる」


 セラースカは今、都市を包む大規模な意味結界アンブレラの再現を試みていた。マジックバッグのメモ書きや設計図を見せたときに「やっぱりベルソフは考えていたんですね、化け物ポーヴェヒとの生存戦争の終結を! 私の仮説、合ってるかも知れません」と、真っ先にとびついたのである。


「寄り道してしまう結果となってアシャリさんには申し訳ないんですけれど、一刻も早く完成させたいんです。ベルソフがあと一歩まで至った、人類を救うための奇蹟を。都市が化け物に脅かされることがなくなれば、私たち人類のタイムリミットは大幅に伸びます。実質、世界平和と言っていいでしょう」


 ──フエルテが陥落してから六年、人類の生存圏もまた、次々と呑み込まれていっています。そのうちベスノリセアも危なくなります。私は、それまでに完成させたい。


「別に、ここでしか研究できないわけじゃないだろう。ノゴベラの方まで避難すればしばらくは安全だ」


「いえ。アシャリさん、私せっかくならこの街を守りたいんです。稀代の天才ベルソフを生んだ街ですし、私にとっても故郷ですし」


「……そうか。だが、いざとなったら逃げろよ。何事も、命あっての物種だ」

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