第13話


〈雪子〉


 どこか冷めたような苑子の声色にあからさまに怯える雪子。

 突っ立たままの雪子と座っている苑子。

 見下しているのは雪子のはずなのに、二人の心境も立場も状況もまったく逆だった。

 少なくとも雪子はそう思っている。

 苑子の目を直接見たわけではないが、今もきっと雪子という出来の悪い妹を見下し鼻で嗤っているのだろう。

 先ほど無理矢理掴まれた前髪や顎が今もじんじんする。

 あのとき、赤の他人に強制的に顔を曝け出されたときの雪子の恐怖を苑子は知らないだろう。

 それとも、知っていて、あんな残酷なことをしたのか。

 しかし、美しい姉と比べどこにも秀でたところがない、平凡な自分の顔を大勢に見せつけて優越に浸る姉の性格の悪さに怒りを覚えることはなかった。


 ただ、ただ哀しかった。


 どこまでも雪子の気持ちを、心を踏みつける姉の残酷さが。

 一層、そんな姉が哀れとも思えるほど。


(やっぱり、お姉ちゃんは人の気持ちが分からないんだ……)


 全てを持っている者特有の傲慢さ。

 そんな人の妹として生まれてしまった自分の不運を嘆き、俯こうとしたとき、雪子の脳裏に今朝の情景が浮かび上がる。

 雪子が死ぬほどの思いで姉の苑子を連れ出したのは、連れ出せたのは、勇気が持てたのは、憧れだった幼馴染の言葉があったからだ。


(春斗、くん)


 目元に触れた、男らしい春斗の指の感触が、耳を擽る懐かしくも優しい声色が蘇る。

 弱気な雪子の心に暖かな火が灯る。

 昔、雪子を庇い、怖いものや嫌なもの全てから守ってくれた大好きなお兄ちゃんは今も変わっていなかった。

 それを、雪子は今朝知った。


 涙を零し、上手く言葉を紡げない雪子の話を必死に聞き、そして慰め怒ってくれた幼馴染。

 世界にたった一人でいるような、ずっと独りぼっちだったと思い込んでいた孤独な雪子の心を温めてくれた。

 昔と同じように、唯一雪子の味方をしてくれた。

 雪子は悪くないのだと、よく頑張ったと、今まで辛かっただろうと労わってくれた。

 初めて、自分自身の口から秋くんに対する想いを吐き出し、そしてまた大事な人を姉に盗られてしまう恐怖と絶望と悔しさを雪子はぶちまけた。

 姉と違って何も持っていない、平凡な自分が秋くんと付き合えるはずがないと分かっていた。

 それでも、あまりにもあまりにも、辛くて苦しくて、死にたいと口にした。


(何、考えてるんだろう、私。そんな、期待なんてしちゃ駄目っ。春斗くんは、ただ慰めてくれただけ…… 自惚れちゃ、駄目だよ……)


 そんな雪子を、春斗は抱きしめてくれた。

 抱きしめ、雪子のファーストキスを、奪ったのだ。


(春斗くん…… どうして、あのとき、私にキス、したの?)


 苑子の存在も忘れ、無意識に未だ生々しい感触が残る唇を撫でる雪子は年に似合わない色気を醸し出していた。








「何妄想してんの?」


 はっと、ぼんやりと今朝の情景に酔っていた雪子は弾かれたように顔を上げる。

 じっと雪子の表情を観察していた苑子は冷めた顔で唇を歪ませた。


「昨日の今日で随分変わったみたいじゃん。何? いつの間にか男を知っちゃった系?」

「っ……」


 苑子の揶揄いの意味を悟り、瞬時に顔を赤くする雪子に苑子は段々と馬鹿らしくなってきた。

 頭の出来はあまり良くないが、要領と勘だけはいい方だ。

 これでもムカつくぐらいよく知っている妹である。

 またその妹に気持ち悪いほどの恋慕を捧げている馬鹿な男の存在を知る苑子は、今朝の玄関での遣り取りを思い出し、本気で馬鹿らしくなってきた。

 それと同時につまらないという不満が芽吹く。

 これでは何のために秋と付き合ったのか。

 昨日のあの童貞に対する過剰サービスが全て無駄骨となったことに脱力しそうだ。


(……まあ、気持ち良かったし)


 それなりに楽しかったからいいかと思うことにしよう。

 苑子は飽き性だが、飽き性以前に物事を割り切るのが得意だ。

 そうでもなければ図太く生きていけない。


「お盛んなことで。まぁ、『春』だから仕方ない、か」


 わざとらしく春を強調すれば、手に持っていた弁当箱を落とすほど動揺する雪子に苑子はもう飽きていた。

 雪子の幸せなんてなんの面白味もなければ、あえてぶち壊そうとも思わない。

 なんせ、相手はあの幼馴染だ。

 二人の間を裂く方法があっても、春斗に本気で恨まれて執念深くつき纏われるのは嫌だ。

 割に合わなさすぎる。

 さっさと退散しようと苑子は思った。

 もうそろそろ売店も人が空く筈だ。


「で? 秋くんと付き合うことにした理由が知りたいんだっけ?」


 そして律儀なところがある苑子は面倒臭そうに、雪子の質問を反芻する。


「その…… お姉ちゃんは、秋くんのどこを好きになったのかなって……」

「好きになった理由?」


何それ。


「バッカじゃないの?」


 雪子がつまらない呼び出しをして来たことに対する苛立ちが湧き上がる。

 苛立ちのまま、苑子はストローを噛みながら嗤った。

 雪子の今更な質問の意図を始めは考えていたが、もうそれも馬鹿らしくなり、本人の望むまま真実を告げる。

 特に不都合もなかった。


「別に好きじゃないよ」


 ただ、雪子の質問が心底馬鹿馬鹿しいとこのとき思っただけだ。








「え……」


 顔を強張らせ、息を呑む雪子に僅かな愉悦を感じながら、苑子はもっとその顔を歪ませてやろうとわざとらしくゆっくりと、心底厭らしく嗤ってやった。


「利用しただけ。あんたの、雪子の好きな奴を奪ってセックスして、見せつけて、心底悔しがらせたかっただけ。ただそれだけ」


 言葉を吐き出している最中、ふと苑子はここに来る途中ずっともやっとしていた胸の内が晴れたことに気づいた。


「好きなわけないじゃん。だって、秋くん、」


 今更ながら、秋と昼食の約束を、待ち合わせをしていたことを思い出したからだ。


「全然、私のタイプじゃないし」


 約束の場所はどこだっけとスマホを確認しようと手でポケットを探る。


「タイミング良かったから、利用させてもらっただけ」

「そ、そんなっ……! ひどいっ」


 苑子のあまりな言い分に雪子は顔を歪め、涙を浮かべて拳を握る。

 なんだ、ついに春斗とくっついたのかと思えば、まだ秋に未練があるのか、と苑子は思いつつ、淡々と言い放つ。


「あんたが秋くんのどこに惚れたのか知らないけど、正直苦手なんだよね。秋くんみたいな男って」


 年下だし、暑苦しいしと苦手な所を思い出しながらも、本当はちょっとだけ気に入ってきていることを苑子は自覚していた。

 そうでなければわざわざ今秋に連絡しようと思わないだろう。


「本当に、てめぇはどうしようもない阿婆擦れだな」


 桜の絨毯の上を乱暴に踏みつける男の足を見る前に、苑子は聞き覚えのあるその声に笑みを消した。


「だから言ったろう」


 さすがの苑子でも一瞬だけ、心臓が冷えた。

 どこか勝ち誇ったような、それでいて疲れたような、呆れたような、憎たらしい春斗の言葉など耳に入らない。

 そして、朝から眠い眠いとぼんやりとしていた自身の頭を苑子は呪った。

 今更ながら、思い出してしまったのだ。


 秋と約束した待ち合わせ場所を。


「お前は利用されてたんだよ」


 場所はそう、二人の思い出の場所。

 始まりの場所である体育倉庫裏。


「いい加減、目が覚めただろう。なぁ、間宮?」


 春斗が振り返る。

 雪子もまた。


「……苑子、先輩」


 苑子は観念したように、秋と目を合わせた。


 付き合って1日目記念に思い出の場所で一緒に昼食を食べようと秋のアホらしい誘いをうっかりと了承したことを苑子はすっかり忘れていたのだ。


(まぁ、もう関係ないけど)




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