第35話 難病
18日午前9時、ミュリエルと、フィンと、モーリスと、エクトルは、シルヴィー・ブルトンと、護衛のジョルジュ・ドパルデューを連れて、マルセル警察署前の公園を訪れた。
マルセル駅の瓦礫の撤去が始まると同時に、マルセル駅前に設置された救護所が、マルセル警察署前の公園に移転した。
自宅療養が可能な患者は帰宅し、困難な患者だけが救護所に残った。救護所の混乱は、落ち着きを見せていた。
「イザーク卿、妹様が到着されました」洗濯したシーツを、ロープに吊るしているところだったイザークに、ミュリエルが声をかけた。
イザークはハッとして振り返り、シルヴィーに駆け寄った。
「ヴィー!」シルヴィーを抱き寄せ、イザークは涙を流した。「お前に会いたかった……」
「お兄様、ごめんなさい。私がテディベアを買って欲しいなんて、我がまま言わなければ、お兄様は怪我なんてしなくてすんだのに……」
「それは違うよ。違うんだ。お前のせいなんかじゃない——それに、ミュリエル薬師に治療してもらったんだぞ。羨ましいだろう」イザークは、いたずらっぽく歯を見せて笑った。
「もう、お兄様ったら。いつもふざけてばかりなんだから!怪我をしているのよ、寝てなきゃダメでしょう!皆が困っていると聞いたわ」
シルヴィーに怒られたイザークは、シュンとした。「——それは、少しでも力になりたいと思ったんだよ。薬師や薬師見習いは治療に忙しいからさ、雑用まで手が回らないんだ。僕は手が空いてるから……それで」
「怪我の治療には安静も必要だ。昨晩、傷口から出血があったと聞いたぞ」モーリスが言った。
「血はすぐに止まりました。薬師見習いの子が止血して、包帯を変えてくれましたから、大丈夫です」イザークが慌てて言った。
「お兄様!」シルヴィーが、イザークを咎めた。
「シルヴィー嬢を安心させるためにも、診察をさせてください」ミュリエルが言った。
「分かりました」イザークは渋々、救護所のベッドに横になった。
ミュリエルはイザークの体に、マジックワンドをかざして、負傷か所を確認した。「適切に治療が施されていますので、問題ありません」
イザークもシルヴィーも、同時に安堵のため息を漏らした。
「ミュリエル薬師、ありがとうございます」シルヴィーは、初めて見るマジックワンドに、胸がドキドキした。友達が持っていた玩具のマジックワンドは、ただ宝石がはめ込んであっただけで、魔法石じゃなかった。だから、ミュリエルのマジックワンドみたいに、光ったりしなかった。ミュリエルのマジックワンドは、ミュリエルの魔力に共鳴するように淡く、赤い光を放っていた。シルヴィーは、友達が持っていたマジックワンドの玩具を、羨ましく思っていたが、今は全然羨ましく感じなかった。
(だって、私は慈愛の天使が治療するところを、この目で見たんだもの!)
「イザーク卿、よろしければ、シルヴィー嬢も診察したいと思うのですが、よろしいでしょうか?」ミュリエルはシルヴィーの保護者であり、兄であるイザークの許可を得てから、診察しようと考えていた。
だが、その顔色から、ミュリエルも、モーリスも、シルヴィーの体のどこが悪いのか、見当をつけていた。
「よろしくお願いします。医師からは酷い喘息だと言われ、治療法は無いと言われましたが。東大陸の薬が効くと聞いて輸入しています。赤ん坊の頃は苦しそうに息をしていたのですが、その薬を飲ませるようになってからは、随分と良くなりました」イザークは懇願するように頭を下げた。「ミュリエル薬師は大勢の命を救っている。もしかしたら、ミュリエル薬師ならば、シルヴィーを救えるかもしれません。シルヴィーをどうか助けてください」
シルヴィーは、たとえ、結果が悪くても、治らないと告げられても、構わないと思った。だって、憧れの人に診てもらえるのだもの、それだけで、嬉しくなって瞳をキラキラと輝かせた。
ミュリエルは、シルヴィーの首元でマジックワンドを止めた。「これは……モーリスさん、気管狭窄のようです。診てもらえますか?」
「おお、いいぞ」モーリスもマジックワンドを手に、シルヴィーを診察した。
ミュリエルのマジックワンドは、ルビーの魔法石がはめ込んであって、淡く赤い光を放ったが、モーリスのマジックワンドは、エメラルドがはめ込んであって、淡く緑の光りを放った。どちらも美しいと思ったシルヴィーは、目が離せなかった。
「なるほどな、確かに、これは気管狭窄症だな」
「何です?きかん?喘息じゃないんですか?」イザークは、少しだけ期待を滲ませた声で訊いた。もしかしたら、治せる病気かもしれないという期待を、持たずにはいられなかったからだ。
「気管狭窄症。生まれつき人より気管が細いんだ。3万人~5万人に1人の割合で生まれてくる。そこまで珍しい病気というわけではないんだが、その医師は、気管狭窄の症例を見たことがなかったんだろう。乳幼児期に呼吸困難に陥って、死亡することも多いから、無理もないがな」
「シルヴィー嬢の場合、軽症ですから、投薬治療で症状を緩和することができていたのでしょう。ですが、風邪を引いたときは注意が必要です。気道の粘膜が腫れることによって、呼吸困難を生じるでしょう」ミュリエルが言った。
「治療法はありますか?」イザークはシルヴィーの手をにぎった。まるで、死刑宣告を受けるような気分だった。
「残念ながら、ありません。気管を切開するという方法もありますが、合併症のリスクが伴います。軽症で投薬治療が有効なのであれば、保存療法を、お勧めします」
「ミュリエル薬師、私はいつまで生きられますか?」シルヴィーは微笑んでいたが、瞳は涙で揺れていた。
「分かりません。ですが、私は諦めたりしません。ポーションを作ってみましょう」
「ミュリエル薬師、どうか、どうか、よろしくお願いします」イザークとシルヴィーは、互いに手を取り合い、ミュリエルに頭を下げた。
「久しぶりに会ったんだから、話したいこともあるだろうし、席を外そう」モーリスが言った。「その間に、俺たちは市場で薬草を調達してこよう」
「そうですね、シルヴィー嬢、後でお迎えに上がります」ミュリエルたちは、シルヴィーとジョルジュを残して、立ち去った。
少し離れたところで、モーリスが言った。
「呼吸音の喘鳴は僅かだが、投薬治療のおかげだろう。だが、チアノーゼが出てるのは、気になるな」
「治療できそう?」フィンがミュリエルに訊いた。
「気管狭窄は軟骨の形成異常ですから、マドゥレーヌ嬢のときみたいに、皮膚を再生するというわけにはいきません。ですが、彼女の場合軽症ですし、ポーションを続けて飲んでいけば、軽快の可能性は大いにあります。問題なのは、先天性気管狭窄症の多くが、先天性心血管疾患を合併するということです」
「心臓?ソーニャさんみたいな感じ?」
「ソーニャさんより、悪いかもしれません。ソーニャさんは後天性ですから、治ろうとする力を引き出すことができますが、先天性となると……」ミュリエルは首を横に振った。
「多くの場合、肺動脈の異常だが、今は症状が出ていないだけで、複数の病気を合併している可能性も考えられる。あの小さな体で、大きな爆弾を抱え持っているかもしれないってわけだ」
「気管狭窄が軽快したとしても、安心はできないってことか……なんだか今回は、いろいろと頭を悩ますことが多いな」フィンが嘆いた。
「とにかく、気管狭窄の治療薬を開発してみましょう。それが完成すれば、多くの人に、生きられる喜びを与えられるかもしれません」ミュリエルは薬草を販売している市場へ行くために、馬車に乗り込んだ。
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