第23話 悲傷

 14日、午後21時、再びアンドレが訪ねてきた。

「アンドレ王子殿下、エクトル卿、こんばんは」ミュリエルはドアを開けて挨拶した。


「こんばんは、ミュリエル。夜遅くにすまないが、先ほど、マドゥレーヌと話してきたんだ。報告したいことがあるから、入らせてもらってもいいだろうか?」


「もちろんです」ミュリエルは脇によけ、アンドレを招き入れようとしたが、フィンが立ちはだかった。


「フィン、重要な報告なんだ」アンドレは腕を組み、フィンよりも10㎝ほど高い背を、さらに高くなるよう胸を張り、肩をそびやかして言った。


「俺たちは婚約式が延期になってしまったせいで、今すぐ愛を確かめ合わなきゃならないんだ。今すぐしなければならない話じゃなかったら、叩き出す」フィンも負けじと肩をそびやかした。


「私のことをなんだと思ってるんだ!一国の王子だぞ!」アンドレは、うんざりした。


 フィンはミュリエルを引き寄せて言った。「お話をお伺いします。急いでお話しください、そして、急いでお帰りください」


 アンドレは大きなため息をつき、部屋の中央に置かれたソファーに座った。そして、エクトルは、その後ろに従者らしく立った。

 テーブルを挟んで、アンドレの向かいに、ミュリエルとフィンは並んで座った。


 この2人の仲裁をすることは、随分前に止めていた。結局のところ言い合いをしたいだけで、仲が悪いわけではないのだ。ジゼルは「男たちは、どちらが優位か、競わずにいられないだけなのよ」と、言っていた。


 アデリーナは黙々とお茶を淹れ、お茶菓子を出すと、深々と頭を下げて退出した。

 無駄口は叩かず、見聞きしたことは決して口にしない、素晴らしいメイドだとミュリエルは感心した。


 昨日のベッドの状態から、何があったのか察しはついただろうけど、噂になっていないのは、彼女がこっそりと片付けてくれたからだろう。そう考えると、ミュリエルは顔から火が出そうだった。

 他人に後始末をさせてしまったことが、恥ずかしくてたまらなかった。


 アンドレは、マドゥレーヌの捜査報告を、かいつまんで話した後に、マドゥレーヌが導き出した結論を伝えた。

「証拠はないし、マドゥレーヌが考えたことなんだが、駅の爆破は誤爆ではなく、計画的だったんじゃないかってことだ」


「何の目的だ?」フィンが訊いた。


「ミュリエルの心。最初の爆破は、規模が小さかった。ミュリエルを巻き込めれば、それで良かったからだ。駅の爆破は、駅舎が崩壊するほどの威力があった。大勢の人に死んで欲しかったからだ。理由は——ミュリエルの心を打ちのめす」


「何ということを……」固くギュッと目を閉じて、震えているミュリエルの肩を、フィンが優しく抱いた。「そんなことのために、あの人たちは、死ななければならなかったのですか?怪我をした人たちは?足や手を失った人たちは?仕事を失い、家族を失い、彼らはどうやって生きていけばいいのですか?」ミュリエルの瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれた。


「犯人は新たなガルディアンと名乗りたいようだが、大義名分があるわけじゃない、ミュリエルに恨みを抱いている者の仕業か」フィンは怒りを露わにし、吐き捨てるように言った。


「マドゥレーヌはオートゥイユ家の私兵を、ごっそりと派遣してくれているようだが」アンドレは、ここへ来るとき、大勢の兵士とすれ違っていた。「私が連れてきた親衛隊も数人、ヴィラの警護に回そう。それと、ミュリエルにはエクトルをつける」


「アンドレ王子、感謝します。ですが、それでは、あなたを護衛する隊員がいなくなる」フィンが言った。


「私は剣と銃の腕に覚えがある。エクトルがいなくとも大丈夫だ。それに、ミュリエルに護衛をつけるとなると、ミュリエルの事情を把握している隊員のほうが、何かと都合がいいだろう?」

 アンドレは、ミュリエルの魔法のことを言っているのだ。


「ミュリエル嬢ほど強くはありませんが、我々親衛隊の、危険を察知する能力は、役に立つと思います」エクトルが言った。


「エクトル卿、よろしく頼みます」フィンは、泣き崩れるミュリエルの体を支えて言った。


「では、私は戻る。この続きは明日、また話そう。ミュリエル、確かなことはまだ分からないんだ。マドゥレーヌが深読みしすぎているだけかもしれないから、あまり気に病むな」アンドレは、取り乱すミュリエルを不憫に思い、心を痛めた。彼女を見つめてから退出した。「エクトル、ミュリエルを頼んだ。必ず守れ」


「承知しました」エクトルはドアの前に立ち、侵入者を阻んだ。万が一、ミュリエルに断りなく近づいてくる不届き者がいたら、容赦なく叩きのめすだろうことが、幼子でも分かるほどの気迫を垂れ流した。


 フィンはミュリエルを抱え上げ、ベッドに横たえた。

 落ち着かせるように背中を優しく撫でても、ミュリエルの涙は止まることがなかった。

「ミュリエルは何も悪くない、犯人が卑怯な下衆ヤローなんだ」フィンはミュリエルの額に、唇で触れた。「ミュリエルが悲しいって思う気持ちは止められないし、大事にすべき感情だと思う。けど、打ちのめされちゃだめだ。そんなことしたら犯人の思うつぼじゃないか。そんなの悔しいだろう?いっぱい泣いて、朝になったら、犯人を叩きのめしに行こう。2度と立ち上がれないように。亡くなった人たちの仇を取るんだ」


 そのままミュリエルは静かに泣き続け、泣き疲れて眠った。



 気がつくとミュリエルは夢の中にいた。ミュリエルは6歳くらいで、うつ伏せにされ、テーブルに押さえつけられていた。侍女たちがミュリエルのスカートを捲り上げ、ミュリエルの太ももを露わにした。


 そこへ、ドゥニーズが鞭を振り下ろした。焼けるような痛みで、ミュリエルの目に涙が浮かぶ。


 小さく白い柔らかな肌は、みるみるうちに赤く腫れ上がり、鞭が振り下ろされた皮膚に、じわりと血が滲んだ。


 ドゥニーズは額に汗の粒を浮き上がらせ、飛び出そうなほどに目を見開き、ミュリエルに何度も、思いっきり鞭を打ちつけた。


 その口は、いびつに歪んで見えて、ミュリエルはまるで、小説に出てくる悪霊のようだと思った。


 ミュリエルは、ただひたすらに耐えた。耐えていれば、いつか終わると知っていたからだ。


 悲鳴をあげれば、ドゥニーズを満足させてしまう。ただ耐えることしかできない自分が恨めしいと思い、ミュリエルは奥歯を噛み締めた。そして、決して悲鳴をあげなかった。満足させてやるなど、ミュリエルのプライドが許さなかった。


 大人たちに取り囲まれ、押さえつけられた幼いミュリエルに、抵抗することなど不可能だったが、幼いながらに、強い意志を持っていたミュリエルの、小さな、けれど、大事な抵抗だった。


 成長したミュリエルの太ももには、傷跡が薄っすらと残っている。そこに触れるたび、この苦しかった日々を思い出す。魔法で消すことができるが、消そうという気にはなれなかった。これはミュリエルが生き抜いた証であり、恥ではないからだ。


 だけど、この傷跡に、優しく口づけるフィンのことを思うと、そろそろ、消してもいいのかもしれないと、思い始めている。


 場面が変わって、崩れたマルセル駅舎の前に、6歳のミュリエルは立っていた。瓦礫の中から、大勢の人が助けてくれと叫ぶ声がする。

 ミュリエルは叫ぶ声を頼りに、瓦礫をどかそうとしたが、魔法が使えない6歳のミュリエルを嘲笑うように、瓦礫はびくともしなかった。


「あなたのせいでこうなったのよ。あなたがマルセルに来なかったら、私たちはこんな目にあわずに済んだのよ。全部あなたが悪いのよ!」崩れた駅舎に閉じ込められた女性が、ミュリエルをなじった。


「ごめんなさい……」ミュリエルの小さな顔が涙に濡れた。瓦礫が指先から流れる血で赤く染まっても、ミュリエルは手を止めなかった。


 瓦礫の中から聞こえてくる、啜り泣きや、うめき声を、自分への罰なのだと、ミュリエルは受け止めた。

 震える声で、何度も、何度も、謝り続けた。


 場面が変わって、ミュリエルは真っ白い空間に立ち、血で染まった小さな手を見下ろした。手は小さいままだったが、傷は一つもなかった。


 遠くの方でミュリエルを呼ぶ声が聞こえる。

 ミュリエルは走り出した。何の頼りもない、ただ真っ白な空間を、声のする方へ、息急き切って。


 ミュリエルの視界に、フィンが現れた。ああ、これで悪夢は終わったんだと、ミュリエルは安堵した。彼がいれば全て大丈夫だと思えた。

 フィンはにっこりと笑って、ミュリエルに手を差し出した。「帰ろう、ミュリエル。俺たちの家に」

 その手を、ミュリエルは掴んだ。



 15日、早朝、ミュリエルはゆっくりと目を覚ました。瞼は重くのしかかり、目を開けることができなかった。だけど、フィンの匂いと温もりを感じて、彼がずっと、自分を抱きしめていてくれたのだと分かった。心が温かくなると同時に、後ろめたさを感じる。


 自分が誰かの恨みを買ったせいで、彼を危険に晒しているという事実が、ミュリエルの心に重くのしかかった。


 ミュリエルは多くのものを、得過ぎてしまったのかもしれない。

 愛する家族と、大事な友人、愛していると言ってくれる大切な人、ミュリエルには、過ぎた幸運だったのかもしれない。だから、失ってしまうのかもしれない。


 ミュリエルは心が痛くて苦しくて、フィンの胸に顔をグリグリと押し付けた。


「起きた?」目を覚ましたフィンが訊いた。


「私は、ここにいたら皆さんを傷つけてしまう。私はフィンさんと結婚できません」


「ここにいないで、どこに行くんだ?逃げ隠れしたって無駄だよ。俺は必ず探し出して連れ帰る。そして、2度と逃げられないように、鎖に繋いで閉じ込める」


 ミュリエルは小さく首を横に振った。


「どうして何も悪くないミュリエルが、逃げなきゃならないんだ?この部屋の前にはエクトル卿が立ってる。アンドレ王子は、今晩寝ずに働いているだろう。マドゥレーヌは犯人逮捕に心血を注いでる。彼らがミュリエルのせいだなんて、思うはずがないだろう?」


 ミュリエルはまた、小さく顔を横に降った。


「どんな目にあったっていい、ミュリエルを失うくらいなら、俺は何だってするよ。恥ずかしいから言いたくなかったんだけどさ、俺、エクトル卿から銃の打ち方を教わってるんだ。彼が出入りしてる射撃場を紹介してくれてね。結構上手くなってきたんだよ。だから、安心して、自分の身は自分で守れるし、ミュリエルの背中も、俺が守ってやる」


 フィンはミュリエルの頭に、優しいキスを落とした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る