第32話 ドレスの行方と嫉妬

 傍にいる何かが動いた気がして、俺は目を覚ました。


 心地の良い倦怠感とともに、ゆっくりと目をあけると、ぼんやりとしていた景色の輪郭が、次第にはっきりとしたものになっていく。


 俺が毎日見ている天井じゃない。

 それに、今仰向けになって横たわっているベッドから漂ってくるのは、俺の部屋では決して嗅ぐことのない、甘い花――チェリックの香り。


 できるだけ頭を動かさないよう、視線だけを隣に向けた先に見えたのは、癖一つない艶やかな水色の髪。

 伏せられた睫毛は長く、スッと通った鼻筋の下にある唇は薄く開かれ、小さな寝息を立てている。彼女が呼吸をするたびに、少しはだけた寝衣の胸元が上下した。


 俺はできるだけ音を立てずに息を大きく吸い込んだ。


 スゥぅぅぅぅぅ……


 …………

 …………

 …………

 …………


 リュミエールが、いるぅぅぅぅーーーーーーーーっ‼

 俺の妄想でも願望でも幻想でも夢でもなかったぁぁぁぁーーーーーーっ‼


 昨夜のことがすべて現実だったと認めた瞬間、心臓が滅茶苦茶バクバクいい始めた。さっきまでのんびり微睡んでいたのに、突然戦場にやってきたかのような緊張感が全身を駆け巡る。


 息が……息が上手くできないんですが……

 こ、この中にお医者様は、いらっしゃいませんかぁぁぁぁ⁉


 なんとか通常呼吸を取り戻した俺は、こちらを向いて眠っているリュミエールと向き合うように体勢を変えた。横向きになりながら、眠っている妻の姿を真っ直ぐ見据える。


 眠るリュミエールは、思わずため息が出そうになるほど美しかった。多分、彼女の写真を撮って、左右反転させても美しいままだろう。そのくらい顔の造形が整っている。


 もうこんなん、芸術だろ。

 前世の世界ならきっと昔の絵画とかのモデルやって、後世の教科書に載ってそう。


 ……いや、載せるかよ。

 リュミエールの無防備な姿は、俺だけが知っていればいい。

 誰の目にも、触れさせるか。

 

 自分の心の声がやたらうるさいのは、少しでも頭の中に空白ができると、昨日の夜のことを思い出してしまうからだ。


 今は恥ずかしさが勝っているが、リュミエールと出会い恋に落ち、結婚してから今まで、ずっと心の奥底で求め、待ち望んでいた関係になれたことは、素直に嬉しい。


 昨夜のあの時間を一言で現すなら、幸せ――だ。


 氷結と呼ばれるほど表情が変わらないだけでなく、触れると凍えてしまうのではないかと錯覚するほどの冷気オーラを常日頃から纏っている彼女が、身体を震わせながら表情や感情を乱すなど――泣き濡れた声で俺の名前を呼びながらしがみ付いてくるなど、誰が想像できただろうか。いや、できない!


 まだ眠っているリュミエールの頬に、そっと触れる。閉じられた目尻には、涙の跡が残っていた。


 頬に触れていた指で乱れた前髪を整えると、できた髪の毛の隙間にキスをした。


 キュウッと心の奥が苦しくなって、喉の奥が言葉にならない言葉で詰まりそうになる。彼女を想う愛おしさが溢れて、受け止めきれない分を、どう表に流していけばいいのか分からない。


 狭間の獣からリュミエールを救う。


 たとえ、ファナードの女神の言う通り、この世界が何度も滅び、巻き戻りを繰り返していても、

 繰り返した俺が何度失敗していたとしても、

 

 必ず彼女を、

 娘を、

 この国を、


 ハッピーエンドに導いてやる。


 過去の俺が失敗したからといって、今回の俺が失敗するとは限らないのだから――


 そのとき、リュミエールが身じろぎした。今まで閉じられていたまぶたがゆっくり開き、澄んだ瞳が顔を出した。まるで、宝石が入った箱を開けたときのような高揚感に、心が躍る。


「おはよう、リュミエール」

「お、おはようございます……へ、陛下……」


 こちらを見つめながら挨拶するリュミエールから、恥じらいと戸惑いが伝わってくる。いつもの氷結ではなく、氷の向こうに隠されていた生身の彼女がそこにいた。


 目眩がしそうなほどの多幸感を感じながらも、少しだけ眉間に皺を寄せながら、彼女に問う。


「陛下? 確か昨日、俺の名前を呼ぶように言ったはずだが?」

「あっ……」


 リュミエールが、口元に手をやった。そして何を思い出したのか、みるみる頬を赤くする。


 いや、何を思い出しているのかは、手に取るように分かる。

 だって俺が名前を呼ぶようにお願いした時、まさに真っ最中だったわけで。


 リュミエールは俺から視線を外しながら、子猫が鳴くような細い声を絞り出した。


「お、おはようございます、れ、れれ、れ、レオン……さ、ま……」


 めっちゃ俺の名前呼ぶのに、言葉詰まらせてるけど……俺の名前呼ぶの、そんなに覚悟いる?


 呼んではいけない、例の名前みたいなポジションなん、俺?


 とはいえ、頑張って名前を呼んでくれたリュミエールに微笑みかけた。昨日の夜も、その愛らしい唇でたくさん呼んでくれたが、改めて嬉しく思う。


 自分の名前を、愛する人に呼んで貰えた喜びを噛みしめながら、俺はリュミエールに軽く謝った。


「起こしてしまったみたいだな、悪かった」


 しかしリュミエールは首を横に振ると、再び俺から視線を外した。俺の発言に、恥ずかしがる部分があったか? と疑問に思っていると、リュミエールはまるで自分のしでかした悪戯を告白する子どものように言葉を濁した。


「い、いいえ……あのっ、実は私、へい――いえ、レオン様よりも早く起きていたので……」

「え? なら起こしてくれれば……」

「あ……あなた様の寝顔を……こっそり堪能しておりましたので……いつも凜々しいお顔立ちが、こんなに無防備な愛らしさに変わるなんて、と、感動して……女神様に祈りを捧げておりました」


 リュミエールがそう言って、こっそり口元を拭ったのを、見逃す俺では無かった。

 涎じゅるり表現とか、漫画でしか見たことないぞ。


「でもあなた様がお目覚めになりそうだったので、咄嗟に寝たふりをしたのですが……突然口づけられて……」

「耐えきれず、起きてしまったというわけか」

「は、はい……申し訳ございません……そのっ……今まで遠くからでしか見ることのなかったあなた様を、こんなにも近くで拝見できて……あまりにも幸せ過ぎて……」


 その発言、無自覚ですよね⁉

 無自覚なのに、こちらの急所を的確に突いてくるの、一体何なん⁉


 どうしてくれよう、この可愛い生き物。

 ……ほんっと、どうしてくれよう、この可愛すぎる生き物。


 頑張れ俺の理性。


 ふと視線を落とすと、彼女の首元が見えた。

 赤い痕がポツポツとついている。


 それが何かは説明はしない。察しろ。

 だがくれぐれも親には聞くな、聞かれた親が困るから。


 以上。


「もうこんなに薄くなっているのか? 二日ぐらいは残ると思っていたんだが」

「薄くってなにが――ひゃっ!」


 俺の指先が、首筋についた痕の一つに触れると、リュミエールの口からひっくり返ったような声が出た。同時に、彼女の身体もビクンと大きく跳ねる。


 ……なるほど、ここも弱いのか……って、いやいやいや、そうではなく!


 俺に触れられた部分を手で隠しながら、リュミエールが恥ずかしそうに答える。


「わ、私の身体は、狭間の獣を守るために変化しているため、怪我をしても、通常よりも治りが早いのです。おそらく、今日の夕方には全て消えているでしょう」


 そう言うリュミエールの表情は、どこか辛そうだった。自分の身体が、人間の形をした何かに変化している事実が、辛いのだろう。

 チラリとこちらを一瞥した彼女の表情は、どこか怯えているように見えた。


 狭間の獣に取り憑かれている事実を目の当たりにした俺が、見る目を変えてしまうと恐れているのだろうか。


 ……非常に気に食わない。


 そんなことでリュミエールのことを嫌いになると思われていることも。

 俺が残した証を、簡単に消してしまう狭間の獣の存在も。


 だから――


「レオン様⁉」


 急に俺に抱きしめられたリュミエールが、声をあげる。だがそんな声など意に介さず、俺はリュミエールの首筋――薄く残った痕の上から吸い付いた。

 唇を離すと、今つけたばかりの痕がしっかりと上書きされていた。


 口角を上げながら、言葉を失っているリュミエールの耳元で囁く。


「すぐに消えてしまうなら、また付けるだけだ」

「また、つ、付け……っ⁉」

「今度は、服で隠れないところに付けた方がいいか?」

「さ、さすがにそれは、止めてくださいっ! は、恥ずかしくて、誰とも顔を合わせられません‼」


 リュミエールは、今日一番の真っ赤っか顔をしながら、激しく首を横に振った。


 止めてくださいって言うけど、そちらこそ、子犬のようにプルプルと身体を震わせ、恥ずかしさで瞳をウルウルさせながら、上目使いに俺を責めるの、止めて貰えませんかね?


 あなたの可愛さに俺の理性が今まさに、じゃあのって仕事放棄しそうになってるんですが。

 必死に引き留めてる最中なんですが。


 顔を真っ赤にしていたリュミエールだったが、俺の反応を見て揶揄われたと思ったのか、僅かに唇を尖らせると、フッと表情を緩めた。

 まるで、春の日差しを思わせるような微笑みに、目が奪われる。窓から差し込む光に照らされて、まさに天の使いとも思わせるような神々しさだ。


「……やはり、お前には暖色系のドレスが似合いそうだな」

「暖色系ですか? 赤とか、そういった色でしょうか?」


 俺の呟きを拾ったリュミエールが、不思議そうに首を傾げた。あまり言われたことがないのだろう。まあ、寒色系がトレード色的なところがあるもんな、この人。


「そうだな。赤とか黄色とかチェリックの色とか……そういえば、以前お前に薄い黄色のドレスを贈ったと思うんだが……」


 脳裏に、物置部屋に吊り下げられたドレスを思い出しながら、俺は黄色のドレスについて思い切って訊ねてみた。

 ドレスがなかったことはショックだったが、あのリュミエールさんのことだから、捨ててはないとは思うのだが……


 しかし、


「え? 薄黄色のドレス……でしょうか? レオン様から、贈られてはいませんが……」


 もの凄く言いにくそうに、リュミエールが返答した。彼女の発言に、今度は俺が目を見開いた。


 薄黄色のドレスを……リュミエールに贈っていない?

 いや、でも……記憶にあるぞ?


 出来上がったドレスを見て、絶対これは王妃に似合うぞ! と確信して、箱にしまって、彼女渡すようにいいつけて……


 俺、ちゃんと覚えてて――


「レオン、様? もしかして……セラフィーナ様とお間違いになられているのではないでしょうか?」


 少し寂しそうな声が、俺の思考を今へと引き戻した。

 どうやらリュミエールは、ドレスの一件が前妻とのやりとりではないかと思っているようだ。


 つまり、俺が贈ったドレスの存在を知らないということになる。


 あり得ないと思った瞬間、俺はとある可能性に気づき、慌てて謝罪をした。


「すまない。もしかするとそうかもしれない」

「いいえ、お気になさらないでください」


 リュミエールが微笑む。

 思わず彼女の身体を抱き寄せると、首筋に顔を埋めた。


 先ほど思いついた可能性が、背筋を冷たくする。


 俺の中に残る、黄色のドレスを贈った記憶はもしかして……俺が何度も繰り返してきた人生の中で起こったことなのかもしれないという可能性に。


 ファナードの女神は、俺は繰り返した記憶を忘れていると言っていたが、実は俺も思い出した、もしくは覚えていたのかもしれない。


 いや……そうだ、間違いない。

 だってこの記憶には、続きがある。


 ドレスを贈った後、リュミエール直々に、礼を言いにやって来たのだ。


”ありがとうございます、レオン”


 そう笑顔を浮かべながら。


 ありえない。

 今世でありえるわけが、ない。


 だって俺たちが分かり合えたのは、つい昨日なのに――


 何だ、この違和感は……


「レオン様……」


 リュミエールが俺の名を呼びながら、そっとこの背中に手を回した。お互いの身体が隙間なく密着する。

 互いの心音が、肌を通じて伝わってくる。


 吐き出す息が混じり合うほどの距離で、リュミエールが言う。


「あなた様が、セラフィーナ様を思い出されても仕方ございません。それに私は、セラフィーナ様を尊敬しております。あの聡明で心優しく、この世界で一番美しいビアンカを産み落とされた御方ですから」


 どうやら俺が考え込んでいる理由を、セラフィーナのことを思い出しているからだと勘違いさせたらしい。

 否定する前に、彼女の青い瞳が、請うように細められた。俺の背中に回された細い腕に、力がこもる。


「ですが今は……あなた様と本当の夫婦となれた今この時だけは……私のことだけを、考えて頂けないでしょうか? お願い、します……」


 リュミエールさん、もしかして……嫉妬してる?

 夫婦になったこの日に、前妻とはいえ、別の女性のことを考えていたから?


 それを認めた瞬間、俺の理性さんが即刻ログアウトされ、結果――今日の予定を全て半日ずらす羽目になった。


 反省はしている。

 だが後悔はしていない。


 幸せならOKです‼

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