第10話 いつまで経っても心の準備ができません

 俺は今、靴を脱ぎ、椅子の上に正座している。いつもは部屋にいて俺の仕事を手伝ってくれる側近たちの姿はない。


 代わりに目の前の机の上には、ポチの分身である手鏡が置かれている。右下の端にあるヒビはそのままだが、今日は何だか雰囲気が違う。


『……さてご主人様。王妃様を救うと決意されてから、どれだけ時間が経ちましたか?』

「…………七日です」

『………………その間、ご主人様は何をされましたか?』

「……………………ポチと王妃の会話を見ていました」

『…………………………それ以外は?』

「………………………………何もしてません」

『……………………………………結果はどうでしたか? 王妃様とラブラブにはなれましたか?』

「なんの結果も‼ 得られませんでしたぁぁぁぁぁ‼」


 某有名漫画の台詞をもじって叫ぶと、俺は机に突っ伏した。


 アリシアを救うことを決意してから、すでに七日が経った。


 が、俺は何もしてない。

 いや正確には何もしていないわけではない。


 さっきもポチに言ったが、俺がポチに成り代わったときに彼女に違和感を抱かせないように、アリシアとポチの会話を聞いて勉強しているのだ。


 い、いや、変な意味は無い。

 俺のことを話しながら顔を赤らめ、モジモジするアリシアを見て、ニヤニヤなんてしていない。


 二人の会話を聞くなどというプライバシー侵害行為も、全ては愛する妻を破滅から救うため。


 決して、俺の好奇心や邪な下心から来ているものではない。

 ……来ているものではない!


 大事なことなので、二回言いました‼


 俺とアリシアの関係に一ミリも進展はないが、代わりにここ七日間で、ある程度のルーティーンは見えてきた。


 彼女は一日二回、昼と寝る前にポチとの会話の時間を取っていた。

 とはいえ、主にすることは、俺やビアンカの様子を見てキャーキャー身悶えし、立派な悪女になるぞ、おー! をすることだ。


 あ、あと、俺のキメ顔の静止画を見ながら、瞳を伏せ、しばらく両手を合わせることもやっているが……ほんっと地獄なのであれだけは止めて欲しい。


 会話もするが基本短時間だ。

 恐らく、邪纏いと会話しているところを、他の人間に見られないように警戒しているからだろう。


 とはいえ会話をしても、この七日間はたわいもない内容ばかりで、アリシアが何故悪女になろうとしているのかの情報は得られなかった。


 そして一番何が気に食わないかというと、アリシアの言葉の端々に、ポチを信頼している気持ちが出ていることだ。

 ふんす!


 ポチがこれみよがしに、大きなため息をつく。


『ご主人様……このままでは、王妃様がドンドン破滅に進んでいかれますよ? そろそろ行動に移されるべきでは?』

「し、しかし……まだ心の準備ができてな――」

『あなた様の心の準備を待っていたら、世界だって滅びますよ……』

「いやさすがの俺だって、世界が滅ぶまでには心の準備できるわ‼︎」


 ツッコミはしたが、正直痛いところを突かれて、地味に精神メンタルにキてる。

 俺は大きく溜息をつくと、クシャッと髪の毛を掴んだ。


「……いや、俺だって何度もポチに成り代わって王妃と話そうとは思った! しかし思ったことが行動に移せるのなら、前世の世界に肥満で悩む人間はいないし、試験前なのに突然掃除をし出したり、昔の漫画を見つけ出して読みふけるなどの愚行はしない。知っているか、ポチ。人間の脳は基本的に、大きな変化を受け入れられず、抑制する性質があるのだ。これは、人間の生存本能からくるもので……」

『ご主人様が、一生懸命無駄な知識を晒し、非常に見苦しい言い訳に時間を浪費している間に、王妃様は着々と破滅に向かわれているのですよ? いいのですか?』

「すみません……ただ俺がヘタレているだけです……」

『なら、冤罪を擦り付けられた脳に謝ってくださいませ』

「俺のヘタレを、脳の性質のせいにしてごめんなさい」

『よろしい』


 俺が素直に謝ったからか、ポチは満足そうだ。

 ……なんかさっきどさくさ紛れて、滅茶苦茶ディスられた気がするが、まあ聞かなかったことにしてやろう。


 そのとき、


『あ、王妃様がお見えになりましたね』

「もう昼の補充タイムか」


 結局ポチの言う通り、午前の時間は、説教と後悔で終わってしまったと振り返っていると、氷結という二つ名に相応しい無表情さのアリシアが手鏡に映った。


 今日も俺の嫁が、美の芸術すぎる。


「鏡よ鏡、この世で一番美しいのは誰?」


 この言葉から、アリシアの補充タイムが始まる。

 ちなみに、俺とビアンカの姿を見てキャーキャーする時間を【補充タイム】と呼んでいる理由は、彼女が俺たちの姿を見て、


「あ~……これで昼から活動する力を補充出来たわ……」


 と、呟いていたからだ。


 んー、俺ら、エナジードリンク的な何かかな?


 手鏡の中のアリシアが、ビアンカの姿を見てホワホワし、俺の執務中の姿(過去の映像)を見て身悶えする。


 七日間、毎日かかさず見てきたアリシアの姿だ。

 俺や周囲には決して見せないアリシアの素の姿は、何度見ても見飽きない。


 表情筋を全て緩めたり、笑ったり、少し唇を尖らせたり――同じ感情でもその都度見せる表情が違っていて、そのたびに心を鷲掴みにされる。

 鏡を通してみる表情どれもが、芸術品のように美しくもあり、無邪気な少女のように愛らしくもあって、視線を奪われる。


 以前ポチに、


『ずっと王妃様の顔を見ていらっしゃいますけど、昨日と同じ表情をされてますよね? いい加減、飽きませんか?』


 と聞かれたので、


「同じ表情の王妃などいない」


 と即答してやると、それ以上何も言わなかった。

 自分のやるべきことを忘れ、妻に見とれている俺の耳に、ポチのくそでか溜息が聞こえてきた。


『はぁぁぁぁぁぁ……私に成り代わって、王妃様の隠された事情を探ったり、破滅に向かわぬよう助言をなさったりして、ラブラブな関係になるんですよね? 今のままでは助言どころか、王妃様と会話すら出来ませんよ? ここは一つ、私めがあなた様の背中を押して差し上げます』

「え? 背中?」


 お前、手とか無いやろと突っ込もうとしたとき、


『王妃様、少し私からお話ししたいことがございます』


 ポチが突然アリシアに話しかけたのだ。

 俺のキメ顔に両手を合わせていたアリシアが顔を上げ、目をぱちくりさせながらポチに訊ねる。


「あら、どうしたの?」


 しかし、話を振ったポチから返答がない。

 彼女の青い瞳が困惑で揺れる。


「どうしたの、鏡? 私の言葉、聞こえているかしら?」


 再度アリシアが訊ねるが、相変わらずポチからの返答はない。

 見かねた俺もポチに声をかけた。


「おい、お前、何で返事しない? 王妃が困ってるだろ」

『ここからは、ご主人様がお話しください。ほら、早く何か言わなければ、王妃様がお困りになられますよ?』

「……はっ?」


 も、もしかしてコイツ……俺をアリシアと強制的に会話させるため、こんな無茶をしたのか⁉


「ちょっ、ちょっと待て! まだ心の準備が出来てないって言っただろ⁉」

『で、その準備はいつ出来るのですか? 何時何分何秒? この世界の朝が何回来たらですか⁉』

「こ、子どもみたいな煽り方すんな‼ それに何が【私めがあなた様の背中を押して差し上げます】だ! 突き落としてるじゃないか‼」

『さあ腹をくくってください。王妃様に怪しまれても良いのですか?』

「ぐぬぬ……」


 奥歯を噛みしめながら突き出した指は、緊張のせいで震えていた。


 ええーい!

 どうにでもなーーーーーーーーーーれ‼

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