第68話 さらに東へ
「…トール君、戻ってくる気は無いかね?その気があるなら、何とかして上に掛け合うぞ。もっとも、私の立場もどうなるか分からなくなったが。」
お爺ちゃん貴族めちゃくちゃ怒ってたから、シュナイダーも何らかの処罰を受けるかもしれないな。それはともかく、あくまで俺の目的はザレでのスローライフである。悪いが、この世界の医学の発展にそこまで寄与するつもりはないし、貴族に深く関わりたいとも思わない。そもそも、手術方法が方法だしな。
「いやあ、丁度いい機会だったかなと思ってます。なので、戻る気はありません。」
「そうか…。残念だが仕方がない。今後どうなるか分からないが、今この瞬間もバルシュミューデは私の上役だ、つまり君の解雇命令も現時点で生きてはいる…。」
「今日はお別れのご挨拶も兼ねて伺っただけなんですよ、キーデルンさんがお越しになったのもたまたまで。おそらくもう少ししたらザレに向けて旅立つつもりでもいます。」
今度はそれを聞いたキーデルンが驚く。
「トール先生は皇都にお住まい続けるわけではないのですか!?てっきりそうかと思っておりました。」
「いやあ、今の所ザレで薬屋を営もうかと思っているのです。その道程で皇都に立ち寄ったという状態でして。」
「そうでしたか。こちらにトール先生のような腕の良い薬師が定住されているなら心強かったのですが…。」
「シュナイダー先生も十分頼りになりますよ。」
「トール殿にそう言われても、嫌味に聞こえるな…。」
苦笑いしながらシュナイダーが答える。
キーデルンの娘が頬を膨らませながら、こっちを見ている。
「えーっ!!トール先生と猫ちゃん先生、どっかに行っちゃうの!?やだー!!」
「また何かあったら来るようにするよ。」
「えー……?うん、分かった!お嫁さんになるからちゃんと迎えに来てね、待ってるから!」
言ってくれるのは嬉しいが、寿命2000年の既に人ではなくなりつつある俺のお嫁さんになるのは難しいんだよなあ。まあ子供だし、5年もすれば忘れるだろう。
その後、軽く雑談をしてから別れた。おそらく、もうここに来ることは無いだろう。
家に戻って、ミズーはキーデルンがお礼にと持ってきてくれた高級焼き菓子をモリモリと頬張っている。
『トールよ、これはかなり美味だな。気に入ったぞ。』
「そりゃ良かったな。日持ちする菓子みたいだがタイキやダイチに残してやるのか?」
『残さぬ。お主の手術を手伝ってやったのは我、つまり全て我の物だ。』
少なくとも手術を一緒にやった俺の分はあるだろ、と一個二個食べてみたが確かに美味いな。残りは…、そんなにミズーが気に入ったのならまあいいか。
「俺の手術の件を高位貴族に知られてしまったし、支度を整えたらすぐにザレに向けて旅立とうかと思うんだがどうだ?皇都の情報収集も概ね終わったしな。最低でもほとぼりが冷めるまでは皇都を離れた方が良さそうだ。」
『まだザレでのゆったり生活とやらを諦めておらんかったか。まあ、我としては異論はない。』
「貴族もだが、腹腐り病を完璧に治癒した件がキーデルンから広まったりすると、市井においてもこのまま皇都にいると厄介な事になりそうだし。数日後ぐらいに旅立つかなあ?そうなると、この家はどうしようか。」
『腐るわけでも無いし、貴重品を置いてるわけでもない。このままにしておけばよかろう。』
「手術で報酬をたんまり貰ったし、俺たちの不在中は例の不動産屋に多めの金を渡しておいて、ここの管理や清掃をしてもらう事にするか。
家が無くなってたら無くなってたで、そんなに困る事も無さそうだし。」
『うむ、我は構わぬ。』
それから、不動産屋で相談すると年に金札1枚(約10万円)で管理してくれるとの事だったので、しっかりした契約書を交わしてから、これからの20年分として金札20枚を渡し管理を委託した。
このままほったらかしにする気かもしれないが、たまには顔を見せに皇都まで来てくれよと言われてしまった。ザレの生活全般が悪かったりしたら、ここに戻ってくるのも手だとは思っている。
それから旅の準備やらをしていたら数日経った。今日がザレへの出発の日だ。
「おい、ミズーそろそろ出るぞ。」
家の前に出て、二人して家を見つめる。
『ここでの生活も悪くなかったな。美味い物も食えたし、麻雀も楽しかったし、トールの手術とやらも中々発想は面白かったぞ。』
「一か月ぐらいいたか、討伐依頼のような戦闘こそ無かったもののその間も色々あったから少し感慨深いよ。」
『お主の天運は今後も面白い事を引き寄せようぞ。』
「俺の目的はあくまでゆったり生活だぜ、勘弁してくれ。」
『ふふふ、そうは問屋が卸さぬという事だ。』
「こっちの世界でもその言い回し有るんだな。」
皇都での生活は思っていたよりも長かった。この日、夢のスローライフに向けザレに向けて旅立った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
今では当たり前のように行われている、全身麻酔そして外科手術、その医療技術確立の父とも言える存在を知っているだろうか?
外傷に対しては万能と言っても良い「傷病回復薬」の弊害、いや正確には「傷病回復薬」の本当の性質を理解していなかった当時は、我が国の外科手術の発展が遅れていた。そのため、今では容易に治療できるような内臓疾患で亡くなる人が少なくなかった。
それを憂いて、「傷病回復薬」に頼らない治療法として、全身麻酔の方法と外科手術法の確立に人生のすべてを捧げた医師がいた、その名をシュナイダー・フィツンハーゲン卿と言う。彼は死ぬ直前まで医学の進歩に貢献し続けた。彼が残した膨大な資料は、今もなお生きた資料として活用され続けている。
彼は自伝にてこう述べている。
「私は常に出来る限りの事はしてきたと自負している。だが、私の未熟な知識と医療技術のせいで、救えなかった命が数多とある。その命を無駄にしないためにも、後世の救えない命を出来得る限り拾うためにも、私は生のある限り救える命を救い続け、この技術を磨き続け、後の世にこの知識を託したい。いつか全ての命を医術で拾える日が来るまで。」
彼は貴族・平民、分け隔てなく治療に当たったとされている。また、晩年は請われれば自分の持っている技術を惜しげもなく教えたと言う。
彼の願いは今、外科医療技術の発展と言う形で叶いつつある。
彼がそこまでの熱意を注ぎ続けたのは何故だろうか?内容の真偽が怪しいため、現在においては冗談ではないかとも言われている彼の晩年の言葉をここに記そう。
「一時期、少し無理やりな手段でとある助手を雇っていた事がある。悔しい事に、その助手は私を遥かに上回る優秀さで、たった一人で難しい腹腐り病の手術をこなした上、完璧に成功させた。当時よりは知識も技術も得たつもりだが、未だにどのような手術を行ったのかすら分からない。彼がいてくれれば皇国の医術の進歩は100年早まったかもしれないな。私は彼に負けるなと必死に頑張ってきたが、まだまだ遠く及ばないと思っているよ。」
(皇国医療出版社刊 「皇国の外科手術の変遷」より)
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