setting off

三浦彩緒(あお)

橘夫婦の場合

 何て、ツイていない日なのだろう。

 ニュースの天気予報では、雨は降らないはずだった。それが、今やどうだ。バケツの水をひっくり返した程の大雨が、街を行き交う人々をずぶ濡れにしている。

 どうしても、家には帰りたくない気分だった。少しだけ飲んで帰ろうと思って居たのに。

 伸二は心の中でぼやいた。

 ホームへ向かって歩き始めると、濡れたスーツのジャケットやYシャツ、身につけている物全てが動く度に纏わりつき、不快感と疲労感が増す。

 同時に、伸二にとっては全く理由の分からない、予想外の出来事により、苛立ちも合わさる。

「まったく、何が駄目だったんだ――」

 女性がこちらへ視線を向けながら追い越して行ったので、うっかり声に出していた事に気付く。


 九月七日の昨日。

 妻の由衣子とは、結婚してから、ちょうど三十年目の「真珠婚」だった。

 仕事を早く切り上げ、予約していたレストランに向かった。普段通り、食事も会話も楽しみ、食後にはプレゼントを渡そうと、準備もしていた。

 会話が途絶えたタイミングでプレゼントを渡そうと、ジャケットのポケットに手を入れた時、由衣子は、大切な話があると言った。

 何の話しだろうと思いながらも、私は由衣子に向き合った。

 由衣子は、私を真っ直ぐ見つめた。


「――私と、別居して欲しいの」

 

 由衣子が何を言っているのか理解が出来なかったし、何か発しようとしても、言葉はおろか、声すらも出なかった。人は、驚くと声が出ないと言うのは、本当だった。

 そんな私を余所に、由衣子は続けた。

「暫く、実家に滞在しようと思っています。ある程度の必要な物は、既に送ってあるの。落ち着いた頃、私から連絡させて下さい――」

 そう言って、席を立った。

「由衣子――」

 ようやく私が発した言葉だった。由衣子は少しだけ振り返り、

「又、ゆっくり話しましょう」

 立ち止まる事は無く、しっかりとした足取りで、由衣子はそのまま店を出て行った。


 玄関のドアを開けると、静まり返った暗闇が、由衣子の放った言葉の現実味を増した。

 濡れたスーツを脱ぎ、シャワーを浴びる事にした。

 シャワーを浴び終え、ビールでも飲もうと冷蔵庫を開けると、一昨日の夕飯の残りの煮物が目に止まった。まだ食べられるだろうと、それをつまみにすることにして、レンジで温め始めた。

 少しでも気を紛らわせる為に、見もしないテレビをつけると、人気のお笑い芸人が出演者達を笑わせている。

 レンジから温めた煮物を取り出すと、テーブルの上に置いたスマホから、着信音が鳴った。

 由衣子だと思い、急いでスマホを見ると、娘の弥央みおからだった。スライドさせてスマホを耳にあてると、普段より少し小声で、

「パパ?今、大丈夫?」

 と、話し始めた。

「ああ、元気か?どうした?」

 平静を装って、返事をした。

「今、ちょうどれんが寝たから、ヒロくんに家に居てもらえるし、今からちょっと、行くね。何か、買って行く物はある?」

 と、弥央は言った。

「何かあったのか?いや、特には無いが…」

「私は何もないけど、まあ、ちょっと。とりあえず、何か適当に買って、今から行くね、じゃあ、また後で」

 そう言って、電話は切られた。

 一人娘の弥央は三年前に嫁ぎ、車で片道三十分程の距離に住んでいる。孫の蓮は最近、いわゆる魔の二歳児というイヤイヤ期で、家に来てはよく愚痴をこぼしていたが、「弥央にも同じ時があったのよ」と言い、由衣子は楽しんでいるようだった。

 一昨日の煮物がそろそろなくなる頃、両手にエコバッグを抱えた弥央が入ってきた。

「――やっぱり。パパ、何も作れないもんね」

 開口一番、私に苦言を吐いてから、エコバッグの中身を冷蔵庫に詰め始めた。

 詰め終えると、私にはビールやつまみを差し出し、弥央はスナック菓子と珈琲を開け、向かい側の由衣子の席についた。

「――実はさ、ママから色々、話し聞いてたんだ。ごめんね、何か、女二人でコソコソ、みたいに」

 肩をすくめながら、弥央は言う。

 そうか、弥央には話していたのか。

 自分だけ除け者にされたような、寂しいような、どうして私には詳しく話してくれなかったのか、など、様々な感情で胸が締め付けられたが、いわゆる『家の中に居場所がない』という事も今まで一度も無かったし、弥央が成人を迎えてからも、嫌がりもせず、それなりに家族で出掛ける事も多かったので、それはきっと無い、と、信じた。

「――聞いていたのか。そうか…。ただ、由衣子からは…ママからは、詳しい話は無く、別居して欲しい、とだけ、言われたんだ。昨日の今日だから、まだ、考えられなくてね」

「……別にね。ママ、パパの事、嫌いになった訳じゃないんだよ。むしろ、ずっとパパだけだよ。――ただ…たださ、ママ、結婚早かったじゃない?社会人生活も一切無かったでしょ?」

 私よりも六歳歳下の由衣子は、確かに短大を卒業してから、私がすぐにプロポーズをして結婚した為、一度も社会人生活を送る事なく、今に至る。

「私さ、ちょっと、分かるんだ、ママの気持ち。実際、結婚を選んだのは自分なんだけれど、社会に置いていかれてるような、感覚?私は、幸い蓮を産んでからも、時短だけど職場に戻れた。でも、今までフルで仕事してきて、長く休んだことなんて無かった中で、産休、育休で長く休んで、毎日、蓮と一緒で。何かさ、凄く、周りから置いていかれてるような、変な感覚になってたんだよね、うまく言えないけど…」

 苦笑いしながら弥央は言った。

 ついこの間まで子どもだと思っていた弥央も、私の知らない所で様々な悩みを抱え、乗り越え、一人の親となっていた。当たり前なのだろうけれど、弥央の話しを聞きながら、それはどこか寂しいような、嬉しいような、私もまた一人の親として、感じた。

「だから、一度も社会に出ていないママは、より一層、そういう気持ち、強かったかもしれないなって、思って…。ママさ、ずっとやりたかったことがあったんだけど、パパ、知ってる?」

 弥央は、小首を傾げながら、聞いてきた。

 昔から絵の上手だった由衣子は、短大ではデザイン関係の学科だったはずだ。いつか、イラスト関係の仕事をしたい、と、話していた事を覚えている。

「――もしかして、イラストとか、そういった関連の事かな?」

 私が返答すると、「それ!」と、両手で指差してきた。

 それなら、どうして一言も言ってくれなかったんだ?

 そんなにも、私は頼りなかったのか?

 反対すると、思ったのだろうか?

 暫くの沈黙の後、

「まあ、あとは、ママから聞いて」

 そう言って、弥央はテレビのチャンネルを、ドラマに切り替えた。


 あれから数日経ったが、由衣子からの連絡は無かった。通話履歴から電話番号を表示させても、通話ボタンは押せず、連絡をしようと文章を作ってはみるが、送信はできず消去し、カーソルは又、最初の行に戻る。

 

 九月も中旬を過ぎ、三連休に差し掛かろうとしていた金曜日の夜。スマホの着信音が鳴り、表示を見ると、由衣子からだった。あんなに話し合いたいと思っていたのに、一瞬、電話を出る事に戸惑った。

「――もしもし、伸二さん?……あの…待たせてしまって、ごめんなさい」

 長い年月を過ごし、毎日聞いていた由衣子の声を聞いても、たった二週間と少しで、とても遠い存在の様に感じた。

「…久し振りだね。元気、だったか?」

 ありきたりの言葉しか、出なかった。

「ええ、ありがとう。伸二さんも、元気だった…?あの、ちゃんと、話しをしたいと思って。急なんだけれど、明日、会えませんか?」

「明日…ああ、分かったよ。こっちへ、戻って来るのか?それとも、私が、そちらへ行こうか?」

「もし、伸二さんが良いなら、伸二さんに、来てもらいたい。見て欲しい物もあるの」

 私が向かうと言うと、由衣子の声色は、少しだけ明るくなった。

「分かった。新幹線のチケットが取れたら、時間とか、また詳しい事はメッセージで入れることにするよ」

「わかりました。ありがとう、伸二さん。待ってます。じゃあ、また明日、気をつけて」

 先に私が電話を切るのを待つ由衣子は、変わっていないのかもしれないと、少しだけほっとした。


――東北新幹線やまびこで、大宮駅から那須塩原駅までは、一時間もかからずに到着する。

 那須塩原市には、由衣子の実家がある。

 実家といっても、既に義両親は他界している。私にとっても優しく、素敵な人達だった。早くに両親を亡くした私には、由衣子も、由衣子の両親も、温かかった。由衣子の実家には、数ヶ月に一度は訪ねた。弥央も、祖父母やこの場所が、とても大好きだった。義両親が亡くなってからは、昔のように、足を運ぶことも無くなった。

「懐かしいな…」

 そう、声に出して呟いていた。

「伸二さん、お待たせ」

 少しだけ由衣子は、息を切らせていた。

「道が少し混んでて、遅れちゃった。本当は、先に待っていようと思ったのに」

「車で来たのかい?」

 そう聞くと、さっきの言葉を聞いていたのか、

「懐かしいでしょ?ねえ、伸二さん。久し振りに、二人でドライブして、ランチして、よく行っていたカフェにも行ってみない?」

 由衣子は、弾んだ声でそう言って、私の左腕を引っ張って歩き始めた。


 三連休ともあって、観光地である那須高原は、普段よりも賑やかなのだろう。車通りも多く、行く先々の駐車場は、ほぼ満車であった。別荘を持っている人々は、犬の散歩をしながら、途中、カフェに立ち寄り、ゆったりと過ごしている様だった。

 紅葉シーズンも間近で、所々だが、既に朱色や黄色となった一部の景色を、人々は立ち止まり、スマホで撮影をしている。

「久し振りに、伸二さんと二人でこの町を歩けて、嬉しい」

 由衣子は、普段と変わらない笑顔で、珈琲を飲みながら言った。

 昔から那須高原に来る度に立ち寄っていたカフェは、相変わらずの人気で混雑していたが、夕方近くになると、だいぶ空き始めた。

「……それでね、伸二さん。別居の、事なんだけど…。突然、詳しく話さずに、勝手に決めて出て行ってしまって、ごめんなさい…。なのに、怒らずに、待って居てくれて、ありがとう」

 由衣子は、私に深く頭を下げた。

 正直、苛立った。突然だったのだから。只、困惑の気持ちの方が強かった。

 でも、あの日弥央に聞いていなければ、ひょっとしたら、由衣子には由衣子の、別の人生があったのかもしれないと、気付く事も無かったかもしれない。

「私ね。伸二さんに内緒で、絵本の挿し絵のイラストを、書き始めていたの。隠していたのは、今更、恥ずかしいかなっていう気持ちが大きかったからなんだけれど…それで、その…決まったの…。正式に。今度出版される、絵本の挿し絵、私の絵に、なるの」

 そう言って、由衣子は俯いた。

 凄い事じゃないか、と、純粋に驚いた。だが、同時に何故、出て行かなくてはいけなかったのか分からず、

「…その事が、別居を切り出した、理由なのか…?」

 由衣子に問い掛けた。

「はい…。でも、嬉しかったっていう気持ちと、これからどうやって伸二さんに伝えたら良いかも分からなくなって…私には、一人で考える時間が必要なのかもしれないって思ったら、実家に来てみたくなったの…それであの日、少しの荷物をまとめて、詳しく話せないまま、出て来てしまったの」

 私は、普段から、由衣子に沢山の事を我慢させていたのかもしれない。

 諦めさせていたのかもしれない。

 甘えていたのかもしれない。

 私は由衣子の事を、分かっているつもりだっただけなのかもしれない。

 そう思うと、とても居た堪れない気持ちになった。

「……長い結婚生活で、由衣子はきっと、沢山の事を、諦めていただろう?何も言わずに、ただ、私や弥央の為に、尽くしてくれた。感謝しているよ。でも、きちんと話して欲しかったのは事実だ。だけれど、由衣子が本当にやりたい事、まして、絵が認められるなんて事は、とても素晴らしい事だし、嬉しいよ。心から、そう思う――」

 私も、きちんと由衣子の気持ちを受け止め、素直に、伝えた。

 そして、彼女の気持ちを、優先させよう。

「――それで、由衣子は、どうしたい?私は、由衣子の気持ちや、これからの事を、由衣子の口からきちんと聞いて、それを、尊重したいと思う」

 それを聞いた由衣子は、再び俯いた。

 何か、とんでも無い事を言ってしまったのだろうか。おろおろし始める私とは逆に、顔を上げた由衣子は、目に涙を溜めながらも、笑顔だった。


「――やっぱり伸二さんは、私の大好きな、伸二さんだった」

 

 その言葉を聞いて、私は由衣子に、少しは寄り添えたのかもしれないと、安心した。


 あの日から、少しだけ、夫婦の形が変わった。

 由衣子は、活動拠点を実家のある那須に移し、私は自宅から会社へ通う日々だ。

 週末、もしくは月末など、二人の時間が合えば、お互いの家に赴いて、夫婦の時間を過ごした。

 一緒に居る時間は減ったのだが、返ってそれは、お互いの気持ちを包み隠さず伝えられる機会となった。

 

 由衣子は、生き生きとしている。

 それはまるで、ちょうど今、空を見上げた私の頭上に飛び立った、つばめのように。

 

 

 

 

 



  



 


 

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