ドラゴン・トルク

獅子狩 和音

第1話

「アメリ! アメリ、返事をしなさい! 何処にいる、アメトリウス!」

 ロードシア家の当主、エルメリウスの怒鳴り声に、窓ふきをしていた女中がびくりと肩を震わせる。広々とした屋敷の廊下を、ずかずかと男の足踏みが通り過ぎていった。肩を怒らせたその後ろ姿を見送ると、窓ふきの女中は大きなため息をついた。

「すまないね、父は何時もああだ」

「……そうお思いになるのであれば、早く出て行ってあげては如何でしょう。アメトリウス様」

そっと、窓の向こうから顔を覗かせた若い男に、女中は二度目のため息をつく。僅かに開けた窓の隙間から、男はしっとりとした声を女中に届けた。

「私がそんな風にしないことも、君なら分かってくれるだろう?」

「もぅ、本当に困ったお方。このままでは、旦那様の血管が切れてしまいます」

「あぁそれは困ってしまうね、君への給金が途絶えてしまう。だが、今日のところは見逃してくれるね?」

「私は構いません、私はね。アメトリウス様。私が仕えているのはお金ですから」

 すっと差し出された硬貨を、女中は窓越しに受け取る。甘い残り香を置いて出かけていった長い金髪の後ろ姿を見送りつつ、やれやれと女中は窓の内鍵を閉める。アメトリウス様は、これでまた数日は屋敷にお戻りにならないだろうと、彼女はそっと硬貨を懐にしまい込んだ。


 屋敷を抜け出した男の長い髪が、朝日に晒されて明るい光を反射する。薄い色身のシャツとズボンは簡素だったが、男は両耳に上品な宝石飾りを引っかけていた。それは雫型に整えられた、濃い色身の紫水晶アメジストであり、彼の瞳と同じ色をしている。朝市の賑わいの中に紛れつつ、アメトリウスはやれやれと息をついた。

 お堅い良家の女とのお見合いなんてやってられない。しかも兄貴ならともなく、出される男が俺じゃあ、相手の女にも迷惑だ。こういうときは、適当にフケっとくに限る。

 父親が急に縁談の話を持ってくるのは、今に始まったことではない。その度に彼が行方を眩ませるため、父親も直前まで話を隠しておくぐらいだ。だが彼は毎回父親が内密にしているはずの縁談の日程を把握し、こうして屋敷の外で羽を伸ばしていた。

「あら、また家出?」

「おっと、貴女に見つかってしまうとは、迂闊でした。ご機嫌よう」

 ふと、通りの宿屋の入り口に立つ女性に、声を掛けられる。人の流れから抜け出した彼は、道の端で恭しく頭を下げた。

「ふふ、そんなこと言って、私に会いたくなったんでしょう? しょうがない坊ちゃんね」

 こんな時間に出てきたってことは、朝ごはんまだなんでしょ。食べていきなさいな。

 女は亭主と宿屋を経営する夫人であり、年季の入った働き者の腕をしている。しっかりとした夫人の腕に掴まれ、アメトリウスは整えられた眉をつい、と少し下げた。

「私が、ご相半にあずかっても?」

「良いに決まってるじゃない。心配しなくても、旦那は買い出しに出たところだからね。貴方をお屋敷につき出すような輩はいないよ」

「これはこれは……」

 とりあえずこれで、一旦の隠れ場所と朝飯は確保。後は、今夜の隠れ家を決めないとな。

 丁重にお礼の言葉を述べつつ、彼は宿屋の夫人について宿に入る。夫人の鼻歌が、宿屋のロビーにひゅんひゅんと響いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る