第5話
試験三日目。セリルは校舎から数キロほど離れた大きな街を訪れていた。目的は暗殺協会の定期報告と生徒たちに頼まれた物資の買い出しである。まあ、それだけってわけでもないけど。
セリルは道行く人々を観察しながら綺麗に舗装された石畳の上を進んで行く。彼らの格好は実に極端だ。裕福なものは小奇麗な仕立てのよい服を着ているが、そうでないものは麻袋を連想させるような貧相なものを纏っている。大きな戦争が終わって早五年になるがまだまだ貧困は国を蝕んでいるのだろう。いや、仮に時間が経ったとしてもこの差が埋まることはないかもしれないか。
セリルは道の脇にたむろする物乞いの目の前にある欠けた茶碗に銅貨を投げ入れる。物乞いは黙って頭を下げたが、セリルが歩みを止めることはない。いや、彼でなくともただ通り過ぎるだろう。これがこの街の日常だ。殺伐としていたあまり好きではないが、他の場所と比べればましな方なのだからいちゃもんをつけてもしょうがないね。
益体のない考えを巡らせながらいつもの古めかしい木造の建物へと入っていく。扉を開けると筋骨隆々とした男がカウンターの中に佇んでいる。セリルは彼に一瞥することもなく、その隣の扉を開けた。
「久しぶりじゃな」
しゃがれた声に思わずその主を凝視する。そこにいたのは暗殺協会の会長、アドーニスだった。真っ黒のコートに身を包み、漆黒の杖に両手を乗せている。
小柄であるがただ向かい合っているだけで手先が痺れるような独特な威圧感を発しているところを見ると衰えてはいないようだ。
セリルは向かいのソファーに座ることなく、アドーニスの目の前に膝をついた。
「お久しぶりです、アドーニス翁。まさか御身自ら最終試験の確認に来られるとは思いませんでした」
「ふむ、その件もあるがお主にちと頼みがあっての。それにそのような過剰に敬う必要はありゃせんぞ。この部屋の出来事を覗けるようなやつはおらん」
セリルは徐に立ち上がるとアドーニスの向かいのソファーに腰を落ち着ける。
「それでご用件とは何でしょうか?」
「簡単なことじゃ。裏切り者の粛清じゃよ」
アドーニスは一枚の写真を手裏剣のようにセリルへと投げつける。人差し指と中指でそれを掴む。写真には見覚えのある男の顔があった。頬がこけた不健康そうな男の名は確かゲノーメル。暗殺協会の中でも古株ではあるが腕がいまいちで今は物資の運搬や人員の管理など裏方の仕事に回されているはずだ。
「それを殺してこい。協会の情報をもって逃げたようじゃからの」
「場所はもう特定済みということですね」
「もちろんだとも。場所はその写真の裏に書いとる。一応言うとくがそいつの持っとる資料はすべて灰にせよ。そして、始末したらまたここに戻ってきてくれ。その報告ついでにお主が育てとるひよっこどものことも聞くのでな」
確かに写真の裏にはある建物を示す住所が書かれていた。この情報精度の高さからしてどうやらこの殺しはアドーニス翁にとっても重要な案件のようだ。よっぽど協会の中核の情報を抜いたらしい。狙ったとしても不運としか言いようがないね。それにしても試験のことがついでとは……。予想以上に期待されていないね。
「アドーニス翁。今年の候補生は豊作だと聞きましたか?」
「聞いておるぞ。しかし、所詮は候補じゃ。稀代の傑物などそうはおらん。そして、そのような輩は初めから突出しておる。お主のようにな」
アドーニス翁は漆黒の杖を弄びながら嫌らしく笑う。そして——消えた。
瞬く間にセリルの背後を取り、仕込み杖から抜き放たれた剣を振るう。部屋に供えられた電球で光輝く剣はその美しさからは考えられない程血生臭さを放っている。
部屋に飾られた時計の最も長い針が時刻を刻む間にソファーは綿をまき散らし細切れになっていた。
「相変わらずですね、その試し癖」
セリルは呆れたような声音でアドーニスの肩に手を置いた。お返しとばかりにアドーニスの背後を取ったのだ。一瞬で背後を取られたにも関わらずアドーニスは嬉しそうにしゃがれた声で笑う。
「流石は儂の最高傑作じゃ。腕が落ちとらんようで何より。今日中に標的を始末してきなさい」
アドーニスは落ちている杖の一部を拾い、剣を鞘に仕舞う。そして、ゆっくりと腰を下ろした。
「日没までに済ませますよ。それまでに新しいソファー用意しといてくださいよ、お爺ちゃん」
ひらひらと手を振ってセリルは部屋を後にした。
「まったく、鼻たれ小僧め」
悪態をつきながらもアドーニスは杖を小気味よく鳴らした。
「おい、本当に『空』のメンバーが来るんだろうな」
野太い声でゲノーメルへと声を飛ばす男がいた。見るからに仕立ての良いグレーのスーツに身を包み、高価な時計を腕に巻いている。
「もちろんです、グレーチス様。暗殺協会の中枢から盗み出した構成員のリスト及び重要拠点の所在地情報は格好の餌になります。必ず協会の最大戦力を出してくるでしょう」
「ふん、それならいいがな」
グレーチスは不機嫌そうに長い足を組みかえる。その様子に内心不満を募らせるゲノーメルであったが感情を押し殺し、手もみを続けへりくだって見せる。
ゲノーメルの目的は至極単純だ。自分を雑に扱った暗殺協会に大きなダメージを与えることである。だからこそこの街の裏の支配者であるグレーチスを利用するのである。彼は暗殺協会と比べれば小物だがそれなりに力はある。彼の全戦力を用いれば『空』と相打ち位にはなってくれるとゲノーメルは考えた。
『空』は暗殺協会でも限られた者しか知らない協会の最終兵器。一騎当千というのも生ぬるい猛者が集まる場所だ。戦争の終結にも一役買った怪物どもが跋扈する伏魔殿、それが『空』という組織だ。
だからこそ、自分が逃げ切ることなど最初から頭にない。自らの誇りを踏みにじった協会を苦しめることが出来ればその後のことはどうでもよかったのである。
それにグレーチスの目的は暗殺協会の主戦力を削ることによる裏の支配力及び求心力を伸ばすことにある。現在、暗殺協会が殺しという市場を独占しているのが気に入らないのだ。なにせ暗殺協会に所属しない暗殺者であっても殺しの依頼は基本的に協会経由で受けることになり、利益の半分は吸い取られる。はっきり言って暴利もいいところだ。しかし、協会は裏の安寧を保つためなどという玉虫色の言葉で煙に巻こうとしている。そんな体制を取っていれば当たり前に反発する。そして、グレーチスはその反対派筆頭だった。
ゲノーメルにとってこれほど好都合な人材は他にいない。だからこそ、欲の詰め込まれた低俗な男にも嬉々として頭を下げるのである。
「それで……グレーチス様。報酬の件なのですが」
「分かってる。ほら、渡してやれ」
グレーチスは取り巻きの男に顎を突き出し、指示を出す。筋骨隆々とした大男は金属でできた重厚なケースをゲノーメルの前まで持ってくると開けて見せた。すると、黄金の輝きが辺りを照らす。中に入っていたのは金貨三百枚。暗殺協会に殺しの依頼を五件は頼めるほどの莫大な金額だ。ゲノーメルは特に欲しくもない報酬に目を輝かせるフリをして仰々しくそれを受け取った。
「流石は夜の王。懐の広さも計り知れません」
「王たるもの下々の働きには報いんとな」
王気取りのハイエナに鳥肌が立つがゲノーメルはなんとかそれを抑え込む。話題を投げ、少しでもあの満足そうな気色の悪い表情を変えなければいけない。いつもやっていたことだ。こいつの醜悪さと気持ちの悪さは別格だが、ただそれだけだ。暗殺者は心を殺してこそ一流。オレは一流だ。
「ところで……一つご質問なのですがどうやってあの『空』を仕留めるおつもりなのでしょうか?」
男は待ってましたと言わんばかりにきざったらしく指を鳴らす。瞬間——人が出現した。今まで三人しかいなかったはずの室内にはいつの間にか黒い外套と白い仮面を身につけた五人の人間が佇んでいた。
ゲノーメルはごくりと喉を鳴らす。暗殺協会に長年所属した自分でさえ気配を感じ取れなかった。ちらりと視線を向けると仮面の奥から刺すような視線が飛んでくる。その鋭さに思わず鳥肌が立つ。しかし、その圧力に心の中ではファンファーレが鳴っていた。これほどの使い手ならば『空』が相手でも善戦できるだろう。
「この方々は……」
「俺の懐刀だ。元々の名は『赫の風』というがな」
「あの有名な! どおりで並の暗殺者とは違うとは思いましたよ。流石はいずれ全世界を統べるグレーチス様です」
心にもないおべっかを並べると、目の前の猿山のボスは機嫌よさそうに胸を張る。なんて与しやすい馬鹿なんだろう。
「そうだろう。それにこいつらは——」
これは長い自慢話が始まるなとゲノーメルが思った時、部屋の扉が勢いよく開いた。
「ボス! 大変です!」
入ってきたのはいかにもチンピラといったような風貌な男だった。くすんだ金髪に不釣り合いな高価なスーツ。しかし、顔や体には精悍さの欠片もなく、見るからに弱そうだ。おそらく組織の下っ端だろうとゲノーメルは値踏みする。
「相変わらず空気が読めねーなぁ、ドット」
グレーチスは話が中断されイライラしたのか大男に葉巻を要求する。
「す、すみません! でも、緊急事態です!」
葉巻を吹かしながら「さっさと本題に入れ」と吐き捨てた。
「死んでるんですよ! 一、二階の構成員全員が! 五階のこの部屋に来るのだって時間の問題ですよ」
グレーチスは苛立ちを隠せないのか吸い始めたばかりの葉巻を灰皿へと押し付ける。強い力で押されたせいか葉巻は音を立てて割れた。
「相手が強敵なことくらい分かってんだよ。そうじゃなきゃ裏の覇権を戦争になんねーだろうが! 側近たちには指示を出してある。下っ端のお前はあいつらの言うこと聞いて戦ってこいや!」
怒声が部屋に轟くと同時に扉が再び開いた。しかし、入ってきたのは血まみれの死体だった。
「ボス! 本当にヤバいですって。逃げた方がいいですよ! 絶対!」
ドットはグレーチスの足元に駆け寄り、馬鹿みたいに騒ぎだす。グレーチスは神経を逆なでするドットに苛立ちをぶつけるかの如く鋭い蹴りをお見舞いする。ドットは潰れたカエルのような悲鳴を漏らし、無様に床を転げまわる。
「ちっ、だらしない奴らめ。お前ら標的はすぐ近くまで来ているらしい。仕留めて来い」
「承知いたしました」
仮面の集団は現れた時と同様に目にも止まらぬ速さで駆け抜けていく。流石は名の知れた集団だ。判断に迷いがない。
「おい! お前も寝てないで早く……」
グレーチスはドットに声をかけようと視線を向けるが何故か姿を見つけられないのかきょろきょろと辺りを見渡す。ゲノーメルも追従し、視線を泳がせるが情けない男の姿はどこにもない。グレーチスが「あの馬鹿はどこ行ったんだ」と悪態をつき、足元に落ちていた葉巻の欠片を踏み潰す。男が足元から顔を上げると、何故かゲノーメルの顔が青ざめている。その正体を確かめようとグレーチスは振り返った。
——グレーチスの視界が赤く染まる。
彼の隣に居た大男は首筋から噴水のように血液を吹き出し、物のように転がった。フロア全体に地鳴りのような音が響く。
「は?」
グレーチスが精一杯絞り出した言葉がそれだった。滑稽としかいいようがない。
「なんでお前がカールを殺してんだ! 気でも狂ったか!」
ああ、このでかい男はカールというらしい。どうでもいいが。
血に濡れたナイフを携えたドットは一瞬でグレーチスの背後を取り、頸動脈を搔き切った。いまだに現実が受け入れられていない馬鹿に現実を教えるために顔の皮を剥ぎ取り、かつらを投げ捨てる。死の間際、瞳孔は大きく開き、唇がかすかに動いたが何を言いたかったのかは分からなかった。まあ、どうせくだらないことだろうけど。
「まさか……あんたほどの大物が釣れるとは思わなかったよ」
ゲノーメルは懐から年季の入ったナイフを取り出す。その様子にセリルは思わずため息をついた。どうやらボクの顔も情報漏洩していたらしい。本当に協会の人間は何をやっているんだか。
「まだ戦う気かい? もう終わりなんだから大人しく首を差し出してくれないかな」
「へへっ。首を差し出すのはそっちの方だ。お前が変装していたのは主力を騙し討ちするためだろ? だが、こっちの本命は別にいるんだぜ?」
ゲノーメルがにやりと嫌らしく顔を歪めた瞬間——セリルの死角に白仮面が姿を現す。いつの間にか手にしていた短刀をセリルの首筋目掛けて振り下ろす。しかし、セリルはまるでその軌道を知っていたかのように優雅に躱し、すれ違いざまに白仮面の首を両断する。ゲノーメルと地に落ち仮面の外れた顔は同じように呆けた表情を浮かべていた。
「えーと、変装がどうのって言ってったっけ? 悪いけど変装してたのは一網打尽にするためだよ。ここにいる奴らを全滅させるのは堂々と真正面から入ったって朝飯前だけど逃げた残党を狩るのは難易度が高いからね。なんせ全員雑魚だ。そんな稚魚を狩るのにやる気なんてでないだろ?」
その言葉が引き金になったのか残りの白仮面の集団はいっせいにセリルに襲い掛かる。四人それぞれがお互いの死角を埋め、逆にセリルが対応しづらい位置関係を取っていた。おそらく毎日毎日このコンビネーションを磨いてきたのだろう。頑張ってきたのだろう。必死に腕を磨いてきたのだろう。
——だが、無情にも僅か一秒で決着はついた。四つの首が宙を舞い、ひび割れた白仮面がゲノーメルの足元へと転がる。セリルはなんの工夫を施すことなく、単純な実力差で彼らを圧倒した。まるで流れる時間が異なるかのような速度差は理不尽といっても差し支えないものだった。
一部始終を見ていたゲノーメルは右手に握ったナイフを力なく落とし、尻餅をつく。絶対的な差というやつを初めて感じたのらしい。『空』に挑むということがどれほど愚かなことだったかをようやく噛み締めたのだ。
しかし、もう遅い。彼の罪は自覚しただけでは拭えない程業が深い。
「やっと分かったみたいだね」
呆れ混じりの笑みを浮かべ、セリルはゆっくりとゲノーメルへと近づいていく。目の前まで行くとしゃがみ込み目線を合わせた。
路傍の石を見るような……虫けらを見るようなそんな視線をゲノーメルへと向ける。恐怖が滲んだ瞳にはっきりと絶望が刻まれた瞬間だった。
「少し……君に用があるんだ。過不足なくボクの質問に答えてね」
虚ろな瞳のゲノーメル。セリルは溜息をつき、彼の頬を少しだけ切りつけた。速く切りすぎたせいか数秒ほど男は固まったまま動かない。血液が涙のように頬を伝い、手のひらに落ちる。すると、ようやく止まった時が動き出したのか騒がしく動き出す。
「ひいぃ!」
恐怖によってゲノーメルの意識は戻り、セリルは笑う。
「楽に死にたいでしょ? さっさと答えて綺麗に死のうか」
死を覚悟していたはずのゲノーメルは初心などとうに忘れ、唯々頷いている。死ぬのが怖くないなんてセリフは死神の足音を聞いたことがない者だけだ。実際の死線をくぐったものは口をそろえて死の恐怖に耐えられる人間はいないと言うだろう。
「一つ目。持ち出した情報はこれだけ?」
セリルいつの間にか盗み出した封筒を懐から取り出した。ぺらぺらと束ねられた書類を流し見しながら恐るべき速度で情報を吸収していく。
「そ、そうです。で、ですが、他の情報屋にももう情報を流して……しまいました」
セリルの顔色を伺いながらゆっくりとゲノーメルは言葉を紡ぐ。だが、そんな様子を気にも留めずセリルは封筒の中身を確認していく。全ての書類を見たセリルの口からは溜息がこぼれた。ゲノーメルはそのためいきの理由に思考を巡らせ、顔を青くしていく。
「ああ、気にしなくていいよ。今のは君に対してじゃないから。それよりも質問二つ目。何で君は情報を持ち出したの?」
「そ、それは……私のことを不当に扱ったと思ったからです」
目線を泳がせながら落ち着きなくゲノーメルは目的を語る。彼もようやく分かったのだろう。自分が不当になど扱われていなかったという事実を。
「ふーん、そうなんだ。じゃあ、最後の質問。どうやって死にたい?」
ゲノーメルは目の前にいる死神に力なく笑いかけると「痛みなく」と呟いた。セリルは返答をすることなく、落ちていたナイフでゲノーメルの眉間を貫いた。男の意識は一瞬で消失し、倒れた。
死んだ男の顔には驚きも恐怖も何もなく、唯々間抜けな表情が浮かんでいた。
「まったく、無駄な殺生しちゃったよ」
空が茜色に染まる頃、セリルは再びアドーニスと会う約束をした建物へと戻ってきていた。ドアを三回ほどノックすると聞き覚えのあるしゃがれた声が入室を促す。
「どうやら滞りなく済んだようじゃな」
断定的な口ぶりから察するに監視役が居たのだろう。相変わらず用心深い。セリルは新調されたソファーに深々と腰かける。
どうやら前あったものよりも高級なものを取り寄せたらしい。座り心地が段違いに良い。流石だ。
「その通りでございます。しかし……今回の任務の成否は特に気にしていないのでしょう?」
「ほう? それは異なことを」
何を言っているのかよく分からないといった様子でアドーニスは口に携えた髭を弄んでいる。狸爺め。こちらが勘づいていることさえ知っているくせにわざわざ説明させようとさせるところは相変わらずだな。
セリルは最低限の言葉で納得させようと口を開いた。
「ゲノーメルが持ち出した資料を見ました。それだけで十分伝わりますよね?」
「まあな」
アドーニスは悪戯が成功した無邪気な子供みたいな笑みを浮かべる。年を取ると童心に帰るというがその説はどうやら本当らしい。しかし、子供の悪戯と違い苛立ち……いや殺意を覚えるのは何故だろう。どこかの研究者にはぜひ解き明かして欲しいものだ。だけどまったく……面倒なことを考えるものだね
実のところあの資料に書かれていた情報は全てでたらめだったのだ。暗殺協会が常時ばらまいているフェイクの一つというのが正しいか。つまり、この依頼自体茶番だったということだ。
「どうせボクが無駄な殺しを受けたがらないから理由をつけて邪魔なあのチンピラを排除したかった……ってところですか」
「正解じゃ。まったくもって可愛げがないの」
アドーニスは弟子の不遜な態度が気に召さないようで口を尖らせている。悪戯好きな爺さんってどこの層に需要があるのだろうか。本人には決して言えないが自部自身の行いを省みて欲しいね。
「そもそも『空』の人間でありながら儂の命令を素直にきかんお主が悪いじゃろ。寧ろ儂はお主の流儀に合わせてやったのじゃから礼を言うべきだと思うがの」
セリルは殺しを生業としながらも必要以上に命を奪うことを嫌っている。自分が襲われた場合や機密情報を知ってしまったものは容赦なく殺すが生かす余地があれば殺すことはない。それは透明な殺意を標榜する暗殺協会にとっては使いにくい駒に他ならない。
しかし、セリルは許されている。圧倒的な力を有しているからだ。そして、セリルは自分の心情を曲げることはない。いや、曲げる必要はないのだ。
「通常ならその通りですが……あなたとボクの間にはあの契約があるでしょ? ボクはそれに準じて恩人を殺した。寧ろ慮ってもらわないと困ります」
セリルの言葉には殺気が籠っていた。暗殺協会の長であっても譲れない。そんな信念が言葉を無意識に鋭く加工させていた。
「分かっておるわ。今のはただの確認じゃ。儂も契約を反故にする気はない」
真剣な眼差しをアドーニスはセリルに送る。彼なりの精一杯の誠意なのだろう。しかし、アドーニスにとって一番大きなものは暗殺協会の安寧であることは疑いようがない。
「アドーニス翁、一つ忠告です」
「なんじゃ?」
「今後同じような手段でボクを殺しに駆り立てた場合——あなたの命であっても保証しかねる。それを肝に銘じておいてください」
今回の殺しはおそらくセリルの心の境界線を図るためわざと起こしたのだろう。本来殺す必要のない輩を殺させ、その全容を掴ませることでセリルという人間の信念を確認する。それが今回の茶番の正体だ。
だからこそ、いずれ暗殺協会が殺すであろう社会悪であるチンピラと暗殺協会の膿を標的にしたのだ。万が一、セリルの逆鱗に触れても言い逃れができるように。
完全に見抜かれたことが分かったのかアドーニスはお手上げといわんばかりに首を振る。だが、セリル自身も傲慢ではない。暗殺協会のクイーンであっても所詮は駒。盤上のすべてを破壊するのは不可能に近い。
「しかし、こちらも鬼ではありません。暗殺協会には色々と世話になっていることは確かです。なので、騙さず最初から正直に話して頂ければ今回のような裏の人間の始末に限り協力させて頂きます。どうですか?」
「……それで構わん」
アドーニスは嫌そうな顔をしながらも承諾を口にする。すべての流れを作ったはずの自分が最終的には乗せられたのが気に食わないのだろう。だが、そんな正直な師匠だからこそ信用に値する。
セリルは手を勢いよく叩き、晴れやかな笑顔を浮かべた。
「はい、これでこの話は手打ちです」
無難に話が着地したことにセリルもアドーニスも安堵していた。お互い本気で殺し合う気などなく、より相手から譲歩を引き出したかっただけであったため内心冷や汗をかいていたのだ。
「それでは儂はもう行くぞ。拠点に戻る時間が遅れると面倒なことになるのでな」
「一ついいですか?」
立ち上がろうとするアドーニスに指を一本だけ立て、静止を促す。
「手短にな」
「ありがとうございます。それでは候補生であるマーセルについて聞きたいのですが彼女はどこの出身ですか?」
セリルの質問にアドーニスは訝しげな顔をする。そこまで変なことを聞いたわけではないはずだが。
アドーニス翁は神妙とも言えぬ微妙な表情を浮かべている。
「なんじゃ知らんのか。マーセル候補生及びコトノハ候補生は『頂きの孤児院』出身じゃよ。お主と同じな」
——心臓が高鳴る。幾年ぶりの緊張が神経を刺激しているのかもしれない。まさか彼女たちがあの場所にいた子たちだとは。最悪な想像が脳裏を駆け巡る。いや、まだそうだとは限らない。だが、もし想像通りなら運命にこの身を任せよう。
「どうした? それだけか?」
「はい、ありがとうございました。気を付けてお帰り下さい。御身に何かあればボクとの契約も反故になってしまうので」
つまらないおべっかは聞き飽きているのか不満げに爺さんは鼻を鳴らす。
「最後まで口の減らん教え子じゃ。もっと可愛らしく師の身を案じんかい!」
アドーニスはぶつぶつと文句を垂れ流しながら部屋を出ていく。頑固で偏屈で悪戯好きの厄介な爺さんだが師匠だ。セリルはその背に「お元気でと声をかけた」。すると、しゃがれた声で「お主もな」と帰って来た。
こっそり扉を開け、アドーニス翁の姿を見ると心なしかいつもより足取りが軽く見える。意外に茶目っ気もあるようだ。
「さて、ボクもそろそろ行かなきゃね。今回は荷物も多いし」
軽く体を伸ばすとセリルは預けておいた大量の荷物を背負い、あの校舎へと帰っていく。足取りは何故か行きよりも重いがきっと荷物のせいだろう。
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