5話 君は卒業できません

七々瀬からメッセージアプリで警告を受けた俺は久しぶりに研究室を訪れた。



「おはよう、七々瀬」

「あ、おはようございます」



 デスクで論文を読んでいた様子の七々瀬は振り返り俺を見るなり数度まばたきした。

 露骨に驚く七々瀬に苦笑しながら俺は席に着く。



「七々瀬が来いって言ったから来たんだけど」

「まあそうですけど・・・・・・もう二度と来ないつもりかと思ってました。もうアルバイトはいいんですか?」

「いや全然。今日は一応研究してるっていうアリバイ作りのために来た」

「研究するんですか?」

「まあ体裁だけ。それより教授が怒ってるって?」

「メールとか来てないんですか?」

「来てたけど適当に返事して流してた」



 ジト目になった七々瀬が息をついた。



「・・・・・・まあいいですけど。それよりそんなにアルバイト忙しいんですか?」

「まあな。今度開催されるオフラインイベントの準備手伝ってて――」



 七々瀬はゲームや配信にあまり興味を持っていないので食いつきは悪かったが、会場の規模や来場するお客さんの人数などを伝えると驚いていた。

 一通り話し終えた俺は最低限の作業量で体裁を取り繕おうと実験室に向かった。



「おや雪城くんではないかね」

「・・・・・・どうも」



 すると運の悪いことに教授と鉢合わせた。

 なぜか教授はにこやかで、その常とは違う様子に俺の背筋を冷たいものが走る。



「研究を真面目にする気になったのかな?」

「まあはい一応」



 適当に答えながら俺は実験デスクに座り実験を始める。

 しかし教授にその場を去る様子はなく、それどころか俺の隣に腰を下ろした。

 なんとか舌打ちをこらえた俺は気づいていないふりをして黙々と実験を進める。



「それならもうアルバイトには行かないということかね」

「・・・・・・いえこの前お話ししたようにアルバイトには行きます」



 やはり飛んできた想定内の問いかけに以前と変わらず正直に答える。

 研究をせずにアルバイトをする議論は以前尽くしたし、これで問題ない――はずなのだが違和感がある。

 先日の議論の続きをするのであるならば教授は同様に不快感を表わすはずだが、今日はそれどころか上機嫌にすら見える。

 何より教授はこのように親しげに話しかけてくるような人間ではない。

 しかし違和感の正体をつかめない俺は無視をして手を動かすしかない。



「これは親切心なのだがアルバイトに掛ける時間を減らすことを推奨しよう」

「や、だから、以前も言ったように僕の卒業が確定している時点で僕が研究に時間を費やす理由は――」

「その前提が崩れているのだよ」

「は?」



 ついにボケたかと顔を上げると、教授の口の端が吊り上がっていた。

 表情から察するにブラフやハッタリにも思えない。

 教授が口を開いた。



「君の卒業は確定していない」



 しかし教授の口から飛び出したのは新たな論点でも何でもなく既に解決済みのテーマだった。

 身構えていた俺からすると肩すかしを食らった気分だが鼻で笑う気にはなれない。

 馬鹿にするにはあまりに教授の態度に自身が満ちすぎている。

 しかし俺の手持ちの返答には以前と同様のものしかない。

 霧で満ちた森の中を進むような気味の悪さを感じながらも俺は以前と同様に答えるほかにない。



「・・・・・・前にも言いましたが僕は既に卒業している先輩方と同等以上の成果を出しています」

「その通りだ。私も確認したが君は確かにかつて卒業した先輩と同等以上の成果を出している」

「なら――」

「だが卒業の基準が毎年同じである道理はない」



 教授の口の端がニィッと吊り上がった。



「は? そんなわけがない。同じ大学院生が同じ成果を出して片方だけ卒業できないなんてあるはずがない」



 それはあまりに当然の、可能性を検討する必要すらない大前提だ。

 指導教員は同一で、研究分野も俺と先輩で大差ない。

 その条件で同等以上の成果を出していて俺だけ卒業できないなんてあるはずがない。

 徐々に明らかにされるが全容の見えない教授の手札に、どういうわけか汗が垂れる。



「では一度大学院生の卒業までの流れについて改めて確認しようか」

「・・・・・・」

「講義により得られる単位を除くと大学院生の卒業に必要なのは修士論文ただ一つだ。だがただ提出すれば良いわけではない。修士論文は複数人の大学教員により評価され、A-Dのランクが付けられる。そしてD評価が一つでもつけば卒業は出来なくなる」



 初耳だが問題ない。

 年によってA―Dの基準が変わるとも思えない。



「さて本題に戻るが、A―Dの基準は年によって変わらないだろう。ただしその基準は教員によって違う」

「は⁉ そんなことあるわけが――」

「あるんだよ。考えてみれば分かることだが大学院生とひとくくりにはするが専門が同じでも研究内容は全く違うから同一の基準を設けることなど出来ない。であれば修士論文の評価は各教員に大きく依存することになる。教員の中には簡単にA評価を付ける者もいるし、逆に平然とD評価を付ける者もいる」

「・・・・・・ッ」



 奥歯を強く噛み締める。

 教授が大前提を崩したことによって導かれる結論を俺は黙って聞いていることしか出来ない。

 修士論文を評価する教員により該当の生徒が卒業できるか決まるのならば、生徒が卒業できるかどうかはその選出された教員に依存している。

 その教員を選出するのは――



「君の修士論文を評価する教員を選ぶのは私だ。これがどういうことかわかるかな。実質的に君の卒業は私の手中にあるのだよ」



 目は弓なりに曲がり、口許は嘲るように歪んでいる。

 適切な反論を、逆転するための一手を導き出すために俺の頭が空回る。

 反論は閃いた側から即座に脳内で否定され言葉になることなく立ち消える。

 口内は渇き、手のひらに爪が食い込む。

 愉悦に浸る教授を俺は睨むことしか出来ない。



「さて改めて聞こうか。研究はするのかね?」



 気味の悪いほどにこやかな教授に俺は頷くほかなかった。

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