ミトコンドリアに負けた男

taaad

ミトコンドリアに負けた男(1995年)

「私・・・、私どうしてもミトコンドリアのことが好きなの」

 もう付合い始めて2年が経とうとしていた。いたっていつも通りのデートと変りわない1日のはずであった。いつも通り彼女の家の近くの”ローソン”と”ファミリーマート”が向かい合う交差点で10時に彼女を車に乗せ、いつも通りそこから北に15分の”すかいらーく”へ乗り入れ、いつも通りアイスティーのストレートを注文した。

 そして、いつも通りなら今日出かける先を相談するはずであった。

 しかし、彼女はいつも通りストローの袋でイモムシを作り始める前

に、突然切り出してきた。

「あなたが好きだといってくれたとき、きっとこの人ならミトコンドリアのことを忘れさせてくれると感じたわ。でも、ダメだった」

 静寂。

 僕は周囲をちらりと見渡し、店内がほとんど空席なことに感謝した。

「えっ?」

「ごめん。ひどい女だってことは分かってるの。でも・・・」

 少し涙ぐみながらうつむき加減の彼女を、暇そうなアルバイト店員と数少ない客が、見てはいけないものを見る目でうかがう。

「いや、あの・・・・、ミトコンドリアって何のこと?」

「知らないの?」。きょとんとした後、彼女はカバンから手帳と三菱のユニボールをせかせかと出して、几帳面な細胞の図を書き、続けた。

「ここにこんな風に核があるの。この中にDNAがあることは生物で習ったでしょう。そう言えば、高校のとき”デオキシリボ助さん”て核酸と水戸黄門の”かくさん”をかけたボケをかまして0点になった子がいたわ。話しが外れた。あっ、言っておくけどこの図は生物の細胞よ。植物ならここに細胞壁と葉緑体が・・・」

 先程までの悲しそうな顔はどこへともなく消えていた。

「・・・それでね、これがミトコンドリア。よく見ると、周りにヒダヒダがあって、とてもかわいいの」

「それは分かったけど、で、ミトコンドリアがどうしたの?」

 彼女はそこで、思い出したかのように涙ぐみ始めた。まるでモノラルのテレビ番組がCMに入って突然ステレオになり、そしてまたモノラルの番組に戻るかのように。

「隠してたわけじゃないの。昔のことだから忘れよう、忘れようって思ってたの。でも、やっぱり好きなの。忘れられないの」

 確かに彼女は元からイタい子だ。躁鬱でもある。とりあえず、話を合わせることにした。

「で、そのミトコンドリアとは付合ってたの?」

 彼女は首を横に振る。

「多分、私の存在も知らないわ。でも、この気持ちは変わらないの。だから、そっと見守っているだけでも・・・。ごめんね。私のことは忘れて」

 静寂。

 再び僕が口を開こうとした瞬間、彼女は立ち上がった。

「ごめん。私、もう帰るわ。送ってくれなくていい。辛くなるから。今までありがとう。楽しかったわ。それじゃ、さよなら」

「あっ、ちょっと・・・」

 一人残ったシートで、僕は手をつけてなかったアイスティーを飲みながら考えた。

 なんなんだ。まあいいさ。だって、ヤツは酸素にしか興味がないんだろうから。

 ん?

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