第8話
(困ったな。全然手掛かりがない……)
そう簡単に解決できるとは思っていなかったが、過去に例がないことなのか探し方が悪いのか時間ばかりが過ぎていく。
杏奈の予想した通りここは元々いた世界ではないが、魔法など特別な力が存在する世界でもなかったのだ。それでも何かしらの力が働いたのは間違いないと図書室の本を読み漁っているものの、完全に手詰まりの状況だった。
「アンナ様、少し休憩されてはいかがでしょうか?そろそろクロード様とのお茶のお時間になりますよ」
控えめに声を掛けられて、杏奈は躊躇いつつも本を書架に戻した。クロードと顔を合わせるのは正直気が重い。彼のアンナへの愛情を実感するたびに騙していることに後ろめたさが募るのだ。
中身が別人だと打ち明けられずにいるのは、正直に話した時にどんな反応をされるか分からないからだった。信じてもらえないのは仕方がないが、頭がおかしくなったと思われて病院送りになってしまうかもしれない。またそのせいでクロードとの婚約が破談になってしまったら、アンナが元に戻った時にどれだけ悲しむだろうか。
伯爵家から追い出されればどうやって生きていけば良いのかという自己保身の気持ちもあるが、自分の行動がアンナのこれからに影響を与えることも考慮すれば慎重にならざるを得ない。
あれだけアンナを大切にしているクロードのことだから、きちんと説明すれば分かってくれるかもしれないと思うものの、杏奈自身どうしてこのような状況に陥ったのか説明できないのに、負担を掛けるだけではないかという不安も手伝って何も言えずにいた。
(でもやっぱりそれもクロードさんに嫌われたくないための言い訳なのよね……)
「最近流行りの菓子だそうだ。ほら、口を開けて」
愛おしそうにこちらを見つめるクロードの眼差しは差し出されたケーキよりも甘いだろう。本物ではないのにそんな風に大切にされるのは申し訳なさとともに胸が痛む。
「クロードさ……クロード、一人で食べられますから」
呼び捨てへの抵抗もあるが、クロード本人の希望である。他人行儀なようで寂しいと言われれば杏奈としては折れるしかなかった。罪悪感があるせいか、クロードが望むことなら極力叶えてあげたいと思ってしまう。そのため残念そうに眉を下げるクロードを見て、杏奈は差し出されたままのケーキを口に入れた。
若干の恥ずかしさを堪えれば、クロードが喜んでくれるのだ。騙している上に何もせずに過ごしている後ろめたさが僅かに軽くなる。
クロードは文官として出仕しており、同時に領地経営も行っているため非常に多忙だそうだ。今は休暇を取っているから問題ないと話してくれたが、杏奈と食事やお茶を共にする時以外はずっと仕事をしているらしい。
「……クロード。やっぱり私、伯父様たちのことを知りたいの」
柔らかかったクロードの雰囲気がピリッと険しいものに変わる。クロードの両親から冷遇されていたとは聞いていた。杏奈が訊ねたことは何でも答えてくれるクロードだが、彼らと転落事故の詳細については語ろうとしない。入れ替わってしまった原因はそこにあるのではないかと杏奈は考え始めていた。
「アンナ、記憶がなくてもどかしい思いをしているのかもしれないが、辛い過去なんて無理に思い出す必要はない。俺は君がここにいるだけで嬉しいんだ」
嘆願するような声と眼差しに杏奈はそれ以上主張することが出来ずにこくりと頷く。安心したように真剣な表情を緩めたクロードだったが、杏奈は表には出さないものの胸の中に湧いた違和感について考えていた。
記憶喪失であるアンナを慮ったような言葉だが、クロードの切実な様子がどうも引っかかるのだ。
クロードがアンナに記憶を取り戻してほしくないと思っているのなら、そこにはどんな理由があるのだろうか。
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