無貌のノーラ

藍埜佑(あいのたすく)

1人目:かけがえのない息子を失った老小説家、秋彦の場合

 美しい少女ノーラはその身にある呪いを背負っている


 それは「姿」という呪いだ

 そのかわり「姿」という能力を与えられた


 しかし「自分の姿には戻れない」ため、ノーラの母は彼女を娘だと認識できない

 ノーラの親友も彼女のことを認識できない

 かつてノーラを知っていたすべての人からノーラは失われてしまったのだ


 だが呪いを解く方法はある

 それは誰かのために、その人が望む姿になって、

 その人の願いを叶える、という方法だ


 そうして99人の願いを叶えた時、

 ノーラにかけられた呪いは解けるといわれている


 かくしてノーラは今日もそうした願いを持っている人を探し求め、

 その人が願う姿に変わり続けるのだった



 そして今日、ノーラは秋彦と出逢う。



 紅葉が舞い落ちる、その穏やかな秋の日、遠野秋彦は庭の銀杏が黄金色に輝くのを見ていた。かつては彼の心を掻き立てた光景も、今では遠い思い出の一片となっていた。

 自らの創った物語で多くの人々を温め、時には涙させた彼の人生は、ある痛切な出来事とともにまったく変わってしまったのだ。

「健よ、父さんのもとへもう一度戻ってこないか……」

 独り言のように呟きながら、息吹も消え去ったままのタイプライターを眺めていると、静けさを破って突然庭の白百合が風に揺れた。見ると、秋彦の家の前に見知らぬ少女が立っていた。彼女は誰かを探しているようだが、その姿はまるで風に舞う紅葉のようにもろく、しかし不思議なまでに美しかった。彼女がノーラであるとは、秋彦には知る由もない。

「すみません、お邪魔していいですか?」

 彼女の声は秋風を纏いながら、秋彦の耳に柔らかく届いた。

「ええ、もちろん。しかし貴女はいったいどなたですか?」

 秋彦は混乱しながらも、どこか懐かしさを感じて答えた。

 彼女がそっと家に足を踏み入れると、空間全体がどこか明るくなり、長い間封じ込まれていた彼の創造力も息を吹き返す感覚がした。

 ノーラの目には哀愁が浮かびつつも、その表情は穏やかで秋彦の心を和ませた。

「秋彦さん、私、ある願いを叶えることが運命づけられている者です。あなたの願いが叶うかもしれません」

 彼女は静かに言葉を紡いだ。

 秋彦はそんな馬鹿げたことがあるはずがないと思いつつ、なぜか彼女の言葉を信じたいと思っていた。彼は悲しいほどに強く願っていた。もう一度だけ、亡き息子の姿を見ることを。

「秋彦さん、あなたの願い、確かに届きました……」

 ノーラは秋彦の前で輝くような少年へと姿を変えていった。秋彦は息をのむ。まるで息子「健」が目の前に立っているかのようだ…… 。

「健……本当に、お前なのかい?」

「お父さん、逢いたかった……。こんな形ででも、また逢えて嬉しいよ」

 秋彦はしばらく言葉を失い、ただ少年の姿をしたノーラを見つめた。

 彼女が変身した「健」は彼の記憶の中の息子と同じ、顔で穏やかな微笑みを浮かべていた。

「健、お前、そんなに大きくなったのか。時が経つのは早いものだ……」

「僕もずっと父さんのことを考えてたんだ。父さんの小説を読むたびに、そう思ってた」

 秋彦は息子の言葉に嬉しいそうに微笑んだが、すぐにその顔には影が差した。

「たくさんの小説を書いたけど、お前を題材にした物語は、たった一つも書けなかったんだ。何を書こうとしても、ペンが止まってしまってね」

 ノーラ(健)はそっと秋彦の横に座り、老小説家の手を握った。彼女は健が生きていたならきっとしたであろう優しい仕草をした。

「でも、父さん。それでも僕は、父さんが書いた全ての小説の中に、父さんの愛を感じていたよ。失われた時間すべてが、その言葉たちの中にあったんだ」

「そうかい、それを聞けて、父さんは嬉しいよ。もしこの世に居たら、お前はどんな大人になっていただろうね」

「きっと、父さんみたいな素敵な物語を書く人間になっていたよ」

秋彦は首を振って微笑んだ。

「いや、お前はもっと素晴らしい何かを成し遂げていただろう。お前はいつも、父さんの予想を超える子だったからな」

 この一瞬に入り込んだ静寂は、2人にとって心地よいものだった。2人の絆は長い不在のあとで確かなものとなっていた。

「父さん、残された時間は悲しむために使うべきじゃない。僕たちは、一緒にたくさんの物語を創り出せるんだ。僕は、父さんがまた書けるように、そばにいるよ」

秋彦の目が潤んできた。

「ありがとう、健。お前のおかげで、心が軽くなったようだ。もう一度だけ、言葉を紡ぎたい。そう、お前のために、この世にたった一つだけの物語をな」

「うん。ずっとここにいるから、父さんがそれを書いてくれるのを待ってるよ」

 その夜は暖炉の火が弱まるまで、2人は語り合い、遠ざかるはずだった絆を新たに紡ぎ直すのだった。

 秋彦は、もう一度、自分の渾身の力を込めた物語を書き始めることを決意した。そして、変わることのない健の笑顔の記憶に抱かれながら、彼はタイプライターに触れ、新しい物語の一行を打ち出したのだった。

 ノーラはその姿を満足そうに見守り、健から元の少女の姿になって、そのまま朝露のようにゆっくりと消えていったのでした。


(了)

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