無貌のノーラ
藍埜佑(あいのたすく)
1人目:かけがえのない息子を失った老小説家、秋彦の場合
美しい少女ノーラはその身にある呪いを背負っている
それは「自分の姿には戻れない」という呪いだ
そのかわり「自分の姿以外だったら何にでも変身できる」という能力を与えられた
しかし「自分の姿には戻れない」ため、ノーラの母は彼女を娘だと認識できない
ノーラの親友も彼女のことを認識できない
かつてノーラを知っていたすべての人からノーラは失われてしまったのだ
だが呪いを解く方法はある
それは誰かのために、その人が望む姿になって、
その人の願いを叶える、という方法だ
そうして99人の願いを叶えた時、
ノーラにかけられた呪いは解けるといわれている
かくしてノーラは今日もそうした願いを持っている人を探し求め、
その人が願う姿に変わり続けるのだった
◆
そして今日、ノーラは秋彦と出逢う。
◆
紅葉が舞い落ちる、その穏やかな秋の日、遠野秋彦は庭の銀杏が黄金色に輝くのを見ていた。かつては彼の心を掻き立てた光景も、今では遠い思い出の一片となっていた。
自らの創った物語で多くの人々を温め、時には涙させた彼の人生は、ある痛切な出来事とともにまったく変わってしまったのだ。
「健よ、父さんのもとへもう一度戻ってこないか……」
独り言のように呟きながら、息吹も消え去ったままのタイプライターを眺めていると、静けさを破って突然庭の白百合が風に揺れた。見ると、秋彦の家の前に見知らぬ少女が立っていた。彼女は誰かを探しているようだが、その姿はまるで風に舞う紅葉のようにもろく、しかし不思議なまでに美しかった。彼女がノーラであるとは、秋彦には知る由もない。
「すみません、お邪魔していいですか?」
彼女の声は秋風を纏いながら、秋彦の耳に柔らかく届いた。
「ええ、もちろん。しかし貴女はいったいどなたですか?」
秋彦は混乱しながらも、どこか懐かしさを感じて答えた。
彼女がそっと家に足を踏み入れると、空間全体がどこか明るくなり、長い間封じ込まれていた彼の創造力も息を吹き返す感覚がした。
ノーラの目には哀愁が浮かびつつも、その表情は穏やかで秋彦の心を和ませた。
「秋彦さん、私、ある願いを叶えることが運命づけられている者です。あなたの願いが叶うかもしれません」
彼女は静かに言葉を紡いだ。
秋彦はそんな馬鹿げたことがあるはずがないと思いつつ、なぜか彼女の言葉を信じたいと思っていた。彼は悲しいほどに強く願っていた。もう一度だけ、亡き息子の姿を見ることを。
「秋彦さん、あなたの願い、確かに届きました……」
ノーラは秋彦の前で輝くような少年へと姿を変えていった。秋彦は息をのむ。まるで息子「健」が目の前に立っているかのようだ…… 。
「健……本当に、お前なのかい?」
「お父さん、逢いたかった……。こんな形ででも、また逢えて嬉しいよ」
秋彦はしばらく言葉を失い、ただ少年の姿をしたノーラを見つめた。
彼女が変身した「健」は彼の記憶の中の息子と同じ、顔で穏やかな微笑みを浮かべていた。
「健、お前、そんなに大きくなったのか。時が経つのは早いものだ……」
「僕もずっと父さんのことを考えてたんだ。父さんの小説を読むたびに、そう思ってた」
秋彦は息子の言葉に嬉しいそうに微笑んだが、すぐにその顔には影が差した。
「たくさんの小説を書いたけど、お前を題材にした物語は、たった一つも書けなかったんだ。何を書こうとしても、ペンが止まってしまってね」
ノーラ(健)はそっと秋彦の横に座り、老小説家の手を握った。彼女は健が生きていたならきっとしたであろう優しい仕草をした。
「でも、父さん。それでも僕は、父さんが書いた全ての小説の中に、父さんの愛を感じていたよ。失われた時間すべてが、その言葉たちの中にあったんだ」
「そうかい、それを聞けて、父さんは嬉しいよ。もしこの世に居たら、お前はどんな大人になっていただろうね」
「きっと、父さんみたいな素敵な物語を書く人間になっていたよ」
秋彦は首を振って微笑んだ。
「いや、お前はもっと素晴らしい何かを成し遂げていただろう。お前はいつも、父さんの予想を超える子だったからな」
この一瞬に入り込んだ静寂は、2人にとって心地よいものだった。2人の絆は長い不在のあとで確かなものとなっていた。
「父さん、残された時間は悲しむために使うべきじゃない。僕たちは、一緒にたくさんの物語を創り出せるんだ。僕は、父さんがまた書けるように、そばにいるよ」
秋彦の目が潤んできた。
「ありがとう、健。お前のおかげで、心が軽くなったようだ。もう一度だけ、言葉を紡ぎたい。そう、お前のために、この世にたった一つだけの物語をな」
「うん。ずっとここにいるから、父さんがそれを書いてくれるのを待ってるよ」
その夜は暖炉の火が弱まるまで、2人は語り合い、遠ざかるはずだった絆を新たに紡ぎ直すのだった。
秋彦は、もう一度、自分の渾身の力を込めた物語を書き始めることを決意した。そして、変わることのない健の笑顔の記憶に抱かれながら、彼はタイプライターに触れ、新しい物語の一行を打ち出したのだった。
ノーラはその姿を満足そうに見守り、健から元の少女の姿になって、そのまま朝露のようにゆっくりと消えていったのでした。
(了)
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