第72話 目指すは王都

「んっ、んんんっ」


 魔術師の長のせいで捕らえられ、やっとのことで逃げ出した。


 それなのに、いつの間にか背後に忍び寄っていた誰かに口を押さえられてしまった。がっしりとした骨格と固く温かい肌、これは成人男性の手だ。


 この誰かは、こんな深い森の中にたった一人でいる。そして、こんなか弱い女性に危害を加えようとしている。彼が何者かは知らないけれど、賊とかそういったものだろう。遠慮はいらない、ここで叩きのめす。


 即座にそう判断して、魔法を使おうと手を動かす。その時、背後から焦ったような声がした。


「ジュリエッタ、待ってくれ。俺だ、シーシェだ」


「んむう?」


 確かにこの声はシーシェのものだ。しかしまだ口を押さえられたままなので、そんな返事しかできない。何がどうなっているのやら。


 それを聞いた背後の人間はあわてたようにぱっと手を離し、一歩後ずさった。


「おっと、すまない。ひとまずここを離れよう。歩きながら説明する」


 振り向きながら、小さな魔法の光を指先に灯す。そこに照らし出されたのは、まぎれもないシーシェの顔だった。しかも、何やら大きな荷物を持っている。


 首をかしげる私にくるりと背を向けて、シーシェがゆっくりと歩き出した。立ち止まってその背中をじっと見つめる。


 シーシェはああ言っているけれど、このまま彼についていってもいいのだろうか。


 もしかすると、また元の岩山に誘導されてしまうかもしれない。というかそもそも、どうして彼がここにいるのか。どうにも怪しい。


 私が動こうとしないのに気づいたのか、シーシェはすぐに立ち止まった。そのまま振り返ると、深々と頭を下げてくる。


「あなたが俺のことを信用できないのは分かる。だが俺はあなたの味方だ」


 シーシェはそう言いながら、荷物の中から何かを取り出し、こちらに差し出してきた。


 よく見るとそれは、私のカバンだった。牢に放り込まれる時に取り上げられてしまったのに、どうして彼がこれを持っているのか。


「あら、これは……ありがとう」


 訳が分からないながらもカバンを受け取り、礼を言う。すると彼は、辺りの様子をうかがいながら小声で言った。やけに焦った様子で。


「俺はあなたを逃がしにきたんだ。今は一刻も早く、ここを離れなくてはならない。頼む、どうか俺についてきてくれ」


 暗い森の中、かすかな明かりに照らされた彼の緑色の瞳は、ひどく真剣な光をたたえていた。


 少し悩んだ後、小さくうなずいて彼の隣に並ぶ。


「……ここを離れたほうがいいという意見には賛成だわ。ついていってあげるから、状況を話してちょうだい」


「ああ、もちろんだ」


 それを聞いた彼は、大いにほっとした顔をした。たぶん私の決断は間違っていないと、そう思えるような表情だった。




 暗い森の中を、シーシェはためらいなく進んでいく。彼のすぐ後ろを歩きながら、その話に耳を傾けていた。時折、口を挟みながら。


「つまり、あなたは元から長の考えには反対だったのね? ……なんとなく、そんな気はしてたけど」


「ああ。王宮に戻れ、との命令が出た時、俺たちは真っ二つに分かれた。戻ろうとした一派と、ここまでこけにされてそのまま戻れるかとごねた一派だ。俺は前者で、長は後者だ」


 シーシェはまっすぐに行く手を見つめたまま、そんなことを言っている。少しずつ、いつもの軽い調子が戻りつつあるようだった。


「そして若手はだいたい前者で、年寄り連中はほぼ後者だな。ほら、奥の間に後からやってきた魔術師は、みんな年配だっただろう?」


「確かにそうだったわね。……年寄りの頭が固いのは、昔から変わらないのかしら。私も気をつけないと」


「あなたはまだまだ大丈夫だろう」


「こう見えても百歳超えてるのよ。魔術師の誰よりも年上なんだから」


「そう言えばそうだったな、あなたがあまりに可憐だから忘れていた」


「どうしてちょくちょく口説き文句みたいなものが混ざるのよ」


「口説き文句に聞こえたか?」


「あら、自覚がないのね」


 そうやって軽口を叩き合っているうちに、やっと気分も落ち着いてきた。今のところあの岩山はどこにも見えてこないし、少しくらい気を緩めても大丈夫だろう。


 私が肩の力を抜き始めたのが声音から伝わったのか、シーシェもほっとしたように息を吐いている。


「さて、それでこれからのことなんだが……あなたはどうしたい?」


「ひとまず王都に戻るわ。誰がなんと言おうとも。……ファビオも気になるけれど、彼を探しにいったらまた捕まってしまうかも。だったらまずは、王宮に顔を出さないと」


「伴侶殿が心配するからか?」


「まさにその通りよ。彼、結構過保護なの。私がこのまま消息不明になってしまったら、彼が乗り出してくるかもしれない」


「白き竜があの岩山にやってくる、か……それはそれで、面白そうではあるな」


「笑い事じゃないわよ。大騒ぎになるもの。私たち、できるだけ静かに暮らしていたいんだから」


 そう言うと、失礼なことにシーシェは露骨に肩を震わせて笑った。それから呼吸を整えて、声をひそめる。


「しかし問題は、長の手の者に見つからないように動く必要があるということか……人の目のあるとこならともかく、そうでなければ何をしてくることか」


「そうね、自分たちを人質にしてまで私を捕らえるような連中ですものね……」


「となると一刻も早く街道に出るに越したことはないんだが、ここからだと最寄りの街道に出るまでに数日はかかるんだ」


 その言葉に、思わずうめき声がもれる。ここまでの道のりから言って、ミモザが不審に思い始めるまでまだ二日くらいはあるだろう。でも、それを過ぎたら……どうなるか。


 身震いした拍子に、ふとあることに気がついた。当然のように一緒に歩いているけれど、彼はこれでも魔術師の一人で、長の配下なのだ。


「そういえば、あなたは私を逃がしに来てくれたのよね。今さらだけれど、どうしてそんなことを?」


「……長が意固地になっているのは知っていた。だが、あんなことを企んでいるだなんて思いもしなかった。長は、もう越えてはならない線を越えてしまっている」


 シーシェは静かにつぶやくと、足を止めてこちらに向き直った。


「俺は何も知らずに、長の片棒を担いでしまった。せめてその罪滅ぼしとして、あなたを安全なところまで逃がしたい。そう思ったんだ」


 普段の軽い雰囲気とは裏腹の、生真面目で熱っぽい口調。彼は恐ろしく真剣な目で、私をまっすぐに見つめていた。


「俺はこれから、あなたを王宮まで送り届ける。これは決して罠などではない。どうか俺を信じてくれ、ジュリエッタ。もしも俺が裏切ったなら、この命を取ってくれていい」


「命だなんて、大げさね」


 真面目は真面目なのだけれど、どうにもちょっとばかり熱心すぎる。ある意味彼らしくはあるのだけれど。


「仕方ないだろう、俺には差し出せるものが何もないんだ。それに、あなたに命を奪われるのも悪くないと、そう思う」


 必死なのか素なのか、これではまるで口説き文句だ。思わずくすりと笑いながら、小声で指摘する。


「ねえ、それだと『俺は裏切ります』って言ってるも同然よ? 命を取られる前提で話しているみたい」


「おっと、そうじゃなくてだな……ともかく俺は、あなたの力になりたい。王宮に無事にたどり着くまで、あなたを支え、守りたい」


 シーシェはそう言いながら、熱い目でひたむきに私を見つめる。真剣に引き締められた表情が、とてもりりしく男らしい。


 ……この熱い物言いとたくましい美貌で、今まで何人の女性に勘違いさせてきたのやら。おそらく本人は、どれ一つとして気づいていないだろうけれど。


「そう、だったらその言葉に甘えることにするわ。道案内、お願いね。……できるかぎり急いで」


「ああ、もちろんだ」


「ひとまず、話はまとまったわね。ところで、いくつか聞きたいことがあるんだけど」


 さっきまでの暑苦しい雰囲気を丸ごと無視するように、さらりと尋ねる。シーシェは全く気を悪くした様子もなく、こくりとうなずいた。


「そもそも、どうしてあなたはこの森にいたの? 穴を掘って出てきたとたんあなたに捕まるなんて、思いもしなかったわ」


「簡単な話だ。俺はあの岩山周辺の地形は一通り把握していたからな。あなたがあの部屋から穴を掘って逃げ出すなら、きっとあの辺りに出てくるだろうと踏んでいた」


 どうやら彼は、私が自力で逃げ出してくると確信した上で先回りしていたらしい。能天気に見えて、頭が回る。


「私が脱出できなかったらとか、うまく私と合流できなかったらとか、そういうことは考えなかったの?」


「考えたには考えたが、まあどうにかなるだろうと開き直ることにした。実際こうして合流できたんだから、俺の判断は間違っていなかったと思う」


「……あなたって、割と大雑把なのね? でもそういう思い切りの良さは、良いと思うわ」


「あなたにそう言ってもらえるとは光栄だな」


「ほんと、大げさなんだから」


 そうやって小声で笑い合っていた私たちの耳に、やぶをかき分けるがさがさという音が忍び寄ってきた。同時に口をつぐみ、耳を澄ませる。


「……たぶん、人だわ。二人いる」


「音だけで分かるのか?」


「私はずっと辺境の森で暮らしていたもの。獣と人の立てる音を聞き分けるくらい朝飯前よ」


 ひそひそと話している間にも、音はどんどん近づいてくる。やがて、音の主が姿を現した。


「見つけたぞ、シーシェ! やはり魔女と一緒か!」


 そう叫んだのは壮年の魔術師たち。険しい表情からして、たぶん長の手の者だろう。


 斜めに差し込む朝日に照らされたその姿は、上から下まで全身葉っぱまみれだった。彼らが森の中を歩き慣れていないのは一目瞭然だ。


「まったく、手間をかけさせる……シーシェ、お前は俺たちと共に来てもらうぞ。もちろん、魔女もだ」


「断る。それより、どうしてお前たちがこんなところにいるんだ」


 流れるような動きで私を背後にかばいながら、シーシェが問いかける。


 いきなり同僚が現れたことで、彼は明らかに動揺してしまっている。それを見て取ったからか、魔術師たちはどこか得意げに胸を張っていた。


「どうしたもこうしたも、長の命令だ。お前の様子がどこかおかしいようだったから、俺たちはこっそりとお前を見張っていたんだ」


「森の中を歩くのは不慣れで、引き離されてしまったが……まさか、魔女の脱走を手伝っていたとはな」


 そんなことを言いながら、追手たちは手を前に突き出す。何か、魔法を使おうとしているような構えだ。


「彼らは魔術師の中でも、魔法を用いた戦闘に長けている。気をつけてくれ」


 シーシェはそうささやくと荷物を地面に置き、すっと身構えた。


「だからここは、俺に任せて……っておい、ジュリエッタ!?」


 真剣な表情をしているシーシェのすぐ横を、ごく気軽な足取りですり抜ける。そのまま、ふらりと前に進み出た。


 緊張感のかけらもない私の動きに、魔術師たちが一瞬ひるんだ。その隙をついて、大股で一気に詰め寄る。こっそりと手の中に握りこんでいたものを、一人の顔面に叩きつけた。


「ぐあっ!?」


 その一撃をくらった方の魔術師が、あっという間に崩れ落ちる。もう一人の魔術師とシーシェが、あっけにとられた顔でこちらを見ている。


 けれど、シーシェのほうが一瞬早く立ち直ったらしい。彼はもう一人の魔術師に飛びかかると、首のあたりにするりと腕を絡ませて締め上げた。


 そうしてこちらの魔術師も、あっけなく気を失った。双方魔法を使うことなく、あまりにもあっさりと決着がついたのだった。


「強いんだな、ジュリエッタ」


「辺境の小屋の近くまで、ごくたまに賊がやってきてたのよ。私たちの貯えを狙って」


 答えながら、手にくっついていたマジマの粉の残りをぱんぱんと払い落とす。さっき魔術師にぶつけたのはこれだ。


 先日の夜、眠れないでいたファビオに食らわせた残りが、たまたま服の隠しにしまわれていたのだ。やっぱり、相手を無力化するならこれに限る。


「おかげで、殺さずに黙らせたり追い払ったりするのだけはうまくなったわ。そう言うあなたも、中々見事な手際だったわ。どこで身につけたの?」


 気絶した二人をせっせと縛り上げながら、シーシェはふふんと笑った。


「あれか? 王宮の兵士たちに教わった、ごく普通の格闘術だが」


 最初に出会った時から感じていたのだが、シーシェはやけにがっしりとしている。そのさわやかで男らしい美貌と相まって、彼は魔術師というよりも騎士のような雰囲気を漂わせているのだ。


 確かにこれだけの体格があれば、格闘術を覚えるには困らないだろう。とはいえ、あそこまで見事に動けるようになるには、結構練習が必要なのではないか。どうしてそこまで頑張ったのか。


 そんな疑問が顔に出ていたのだろう、シーシェは朗らかに、さらりと言った。


「俺は、使える魔法が少ないんだ。基本の魔法を一通りと、あとは転移の魔法だけで。だから、身を守るものがもう一つくらい欲しいと思ってな。それで格闘術に手を出した」


「確かに、それはちょっと少ないわね。……転移の魔法が使える時点で十分過ぎる気もするけれど」


 転移の魔法はとても有用な反面、使い手がたいへん少ない。そんな転移の魔法を会得できたのであれば、それだけで十分に魔術師としてやっていける。


 しかし、応用魔法をろくに習得していない魔術師というのはやっぱり珍しいのではないかとも思う。応用魔法ってとにかく便利なものが多いし、難易度も転移の魔法より低い。


「もちろん応用魔法も勉強したさ。しかしどうにも、うまくいかなかった。才能がなかったんだな」


 そう語るシーシェの横顔は、少し寂しそうだった。若い女性なら、もれなくうっとりと見とれてしまいそうな姿だった。


「だから俺は転移の魔法一本に絞った。使える手札が少ないのなら、手持ちの武器を研ぎ澄ませばいいと、そう考えて」


「あなた、意外と苦労してたのね。でもその前向きな考え方、嫌いじゃないわ」


「見直してくれたのか? だったら嬉しいんだが」


 縛り終えた魔術師たちを適当な木につなぎ、シーシェが立ち上がる。


「しかし、俺の様子がおかしいことまでばれていたか……これはいよいよ、急いで逃げないとまずそうだな。少し近道するか。ジュリエッタ、ちょっと我慢してくれよ」


 言うが早いか、シーシェは荷物を拾い上げた。そうして私の腰に腕を回し、なんとそのまま肩に担ぎ上げてしまったのだ。


「えっ、ちょっ、何!?」


「しっかりつかまっててくれよ、落ちたら大変だからな」


 私に反論する隙すら与えずに、彼はそのまま恐ろしい勢いで走り始めてしまったのだった。

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