アパート管理人はダンジョンマスターを兼務する

深香月玲

第1話 プロローグ

ここ数年、正に踏まれたり蹴られたりだった。

妻には先立たれるわ、自分も癌になるわ、会社を辞めさせられるわ。

私は1968年生まれの現在54歳。

フランスワインで言えばボルドー、ブルゴーニュ共に超不作の年だ。

かと言って、自分が人間として不出来だと言っているわけではない。

どちらかと言えば、上位から数えて五本の指に入る国立大学を卒業しているので頭の出来は良い方だと思っている。

運動神経も悪くはない。大概の競技は人並み以上にすぐに出来るようになった。

苦手だったのはサッカーぐらいだろうか。

ドライブシュートやタイガーショットを蹴ることはできなかった。

ここ、一応笑うところです。

今更そんなことはどうでもいいか。


三年前に妻が脳卒中で突然他界し、気落ちから立ち直ったころに昨年の夏にベッドから起きようとしたら腰に激痛が走り起き上がれなくなってしまった。

ああ、これがぎっくり腰かと思いしばらく様子を見てたのだが、一向に痛みが治まる気配がない。

仕方ないので救急車を呼びはしたものの新型コロナウィルス感染症の蔓延で搬送先がなかなか見つからず、二時間ほど救急車の中で待たされてしまった。まあ二時間ほどで済んだと喜ぶべきかもしれないが。

病院に運ばれてX線写真を撮ったら、ぎっくり腰ではなくて背骨が折れていたことが判明して驚いたのなんのって。

ベッドから起きようとしただけなんだけどなんて言ってたら、なんか色々検査されてさらに衝撃の事実を突きつけられた。


「多発性骨髄腫です。」


「はい?」


「簡単に言うと血液の癌です。放っておくといろんな病気を併発して死に至ります。」


「はい?」


多発性骨髄腫は日本では10万人あたり5~6人の発症率で年間死亡者数は約4000人ほどらしい。

近年新薬や治療法が開発されて死亡率は低下傾向にはなっているとのこと。

そのまま入院することになってしまったので、大家さんに連絡して諸々お願いしてしまった。

大家さんはアパート内に自室を持って管理人として暮らされていて、引っ越してきてから割と年が近いこともあっていろいろと相談に乗ってあげていたので親身になってくれている。

救急車で運び出されるときも心配そうに見送ってくれていた。


その後、治療は何とかうまくいって落ち着いている状態にはなったものの、体力はなかなか元には戻らず、いつ再発するかも分からないので仕事にも完全復帰できない状態が続くと、くそ上司がやんわりというかやや強めに依願退職を迫ってくるのでここらが潮時かと辞めてやった。それが五か月前のことだ。

まあ、治療費も解約しようか迷っていて結局続けていたがん保険のおかげでなんとかなったし、生活費はマンションの賃貸料でなんとかなるし、あと何年生きられるかも分からないし、好きなことをしてのんびり暮らすのもいいかなと思った次第だ。

好きなことと言っても、特に凝った趣味を持っているわけでもない。

旅行は面倒だし、海外なんて以ての外だ。出張でイギリスとフランスに行かされたことがあるくらいでプライベートで海外旅行に行ったことはない。箱根温泉とか、伊豆温泉ぐらいが関の山だ。

そう言えば、新婚旅行も箱根の強羅だったな。

基本的に小食なので、食道楽でもない。それなりに美味しいものを少し食べられれば十分だ。

わざわざ遠出してまでなんとかの美味しいお店に行くなんてこともしたことはない。

近所のお店で良さげなところに行く他は仕事の出先でお奨めされた所に行くのが精々だ。

ファッションにも特に興味はない。

ブランドの名前はある程度知ってはいるがほぼ買ったことはない。

というのも、若い頃はかなり細くて当時の最小のサイズでもお直ししないとはけなかったので、また店に取りに来るのが面倒だったから適当なもので済ませるようになったために着るものに関しては基本的に無頓着になってしまった。


大家さんとお茶でも啜りながら過ごそうか、なんて思って実際そうしていたら三か月前に大家さんが交通事故で亡くなられてしまった。

お買い物帰りに近所でひき逃げされてしまったのだ。

裏道をとんでもない速度で走っていた車にはねられたようで、とてもお気の毒だ。

大家さんは既にご両親を亡くされていて、結婚もされておらず、親戚の存在も聞いていなかったので、この先このアパートってどうなるんだろうと心配したのだが、数日後に弁護士さんが私の所にやってきて意外なことを仰られた。


「大家さんが貴方にこのアパートを含む全財産を譲渡する旨を遺言状に残されていたのですが、相続されますか?」


「はい?」


「生前、貴方に良くしていただいたことを大変感謝されていたようです。」


確かに隣のアパートの管理人や、やんちゃな大学生たちの傍若無人な振る舞いに対して相談に乗ってあげて解決したりもしたけど、それだけで全財産を譲ると言われても、ねぇ。

それにこの辺りの地価とか考えても相続税ってとんでもないことになるんじゃないの。

弁護士さんに実際に金額を聞いてみると、ぎりぎり払えそうだったので大家さんの好意を受けることにした。

諸々の手続きを弁護士さんにお任せして、自分は102号室から大家さんの暮らしていた部屋に移って妻に加えて大家さんの冥福を祈る生活を始めたのだ。


そんなこんなの慌ただしい数年だった。

今宵は天気もいいみたいだし、皆既月食と天王星食でも見て心を和ませるとしようか。

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