星のお兄様

みつぼし

第1話


 白く清潔な天井が見える。うちの天井ではない。うちの天井はもっとくすんでいて、所々に虫を潰したようなシミがある。今見える天井は、清潔で生活からも遠い。


「あ、起きましたか。」


天井と同じように、白く清潔な服を着た女性が横に立っているのが見える。


「今先生を連れてきますから、そのまま待っていてください。」


そう言って、看護師は部屋を出て行った。どうやらここは病院らしい。なぜ病院にいるのか、うまく思い出せない。


「目を覚ましてよかった。どこか違和感のあるところはありませんか?」


看護師が連れてきた医者は、白髪の初老の男性だった。医師はにこやかに僕に話しかけた。


「・・・僕はなんで病院にいるんでしょう?」

医師は少し怪訝な顔をしたが、すぐに先ほどと同じ笑顔を見せた。


「少し記憶が混濁しているようですね。交通事故です。頭を強く打ったので、一時的に記憶障害になっているだけだと思います。自分の名前や、年齢、職業などは言えますか?」


そう言われ、考えた。水道の蛇口を少しずつひねるように、記憶が脳に流れ出てくる。


「名前は、新田です。新田かおる。29歳です。職業は、フリーのライターをやってます。」


記憶が戻ってくるというより、自分が何者か、目を覚ましてから考えていなかっただけという感覚だった。


「大丈夫そうですね。その調子なら記憶も徐々に安定してくるでしょう。」


一時的な記憶障害」のせいか、頭の中に薄く霧がかかった状態は拭えない。


「あと少し検査をしたら、おうちに帰れますよ。ご家族も心配されていることと思いますし。」

 

 家までの帰り道、家族のことを考えた。父は他界している。母の認知症は進行し、今では息子はまだ高校生だと思っている。人間はなぜ、死ぬときは一人なのに孤独になることがこんなにも寂しく、何かが欠けているような感覚になるようにできているのだろう。


 ぼんやりそんなことを考えながら歩いていると、人の足のようなものが道路わきの草むらから見えた。整備されていないその空き地は雑草が目いっぱい茂っている。少し迷ったが、どうせ通り過ぎなければならない道なので、見て見ぬふりはできない。近くに寄ってみると、男性が仰向きに倒れていた。見たことろ外傷はない。眠っているようにも見える。ただ、何か大きな違和感がある。


「あの、すいません。大丈夫ですか?」


何度か声をかけたが、目を覚まさなかった。救急車を呼ぼうとしたが、スマホを持っていないことに気づいた。事故の時に無くしたのだろうか。病院から受け取った所持品の中身を漁っていると、むくりと男性が起き上がった。


「ここは、どこですか?」


男性は目をぎょろりとさせ、無表情で僕に聞いた。


「ここですか?東京です。町田市の外れの・・」


「地球ですか?」


男性は僕の言葉を遮った。一瞬言っている意味が分からなかったが、聞かれたことをそのまま答えた。


「はい、ここは地球です。」


声をかけたことを後悔した。人が倒れていたんだ、スマホがなくても誰か周りの人に助けを求めればよかった。発見した時から違和感はあった。緑色の長髪に、鼻についたおかしなピアス。昔の女子高生が履くようなロングスカート。どんな格好をしていても個性とされる時代だが、個性という価値観では収まりきらないような異質さがあった。ぎょろりとこちらも見る目は、右目が青で左目が緑だった。


「やったぞ。成功したんだ。言語も通じている。他星境界接続文化インストールも完璧だったんだ。」


「あの、大丈夫そうであれば僕はこれで。」


足早にその場から立ち去ろうとしたが、いつの間にか腕をつかまれていた。


「せっかくですから、少し話をしましょう。あなたはこの星を支配している種族ですか?」


「あの、僕は急いでいるので、すいませんが。」


振り払おうにも、なかなか手を離さない。むしろ先ほどよりも強くなっているようにも感じる。


「少しいいではありませんか。なに、私から自己紹介しましょう。私は、この地球で言うところの、宇宙人です。」


そう言うと僕の顔をじっと見たあとにこっと笑った。


「私は調査のためにこの星にやってきました。別に侵略しようっていうんじゃありません。文化、科学などこの星の叡智を知りたいのです。それが僕の任務です。えー、この星で言うと外交官、ですね。外交と言っても、一般的な知識やその結果でいいのです。資源を奪ったりはしませんよ。私たちの星とは離れすぎていて、運ぶだけで大変だ。とにかく、侵略や略奪の意志はありません。あくまで、友好的に情報を知りたいのです。あなたはそれに選ばれたというわけです。」


全くこちらの意見を聞かずに滔々と話す姿は見事と思われた。


「そうですか。でも僕はしがない一般人です。僕なんかよりきっともっと助けになってくれる人がいますよ。ここで待っていればすぐにまた別の人が通ると思います。もしくは、交番ってところがありましてそちらに行けば色々と教えてくれると思います。ぜひ交番に行ってください。」


「あなた、信じていませんね。私はこの地球にくるにあたってこの星について沢山学びました。この星の支配種族である人間はまだ宇宙人との交流をしていないことになっている。しかし、本当なのです。どうやったら信じてもらえるかはわかりませんが、この姿も借り物です。この星に適応し、違和感のないように変身しているのです。同じ人間に見えるでしょうが、この星に適応するためには仕方ないのです。」


手を握られたままの僕は、さすがに腹が立ってきて、手を強く振りほどいた。


「あの、宇宙人ごっこをするのはあなたの勝手ですけどね、巻き込まないでください。僕も暇じゃないんです。」


目の前の男は、少しだけ驚いた顔をした。


「なるほど、疑い深さは、生き残るための大事な要素です。さすがこの星の支配種族です。では、信じてもらうために一つお見せしましょう。あなたの頭を触らせてください。」


目の前の宇宙人と名乗る男はそう言うと、目を閉じて右手を前に差し出した。怪しさしかないが、これで終わるならと思い頭を差しだした。


「うーん、はあなるほど~。そうですか。そうですか。あー、あらあら。」


男は目を瞑りながら何やら楽しそうにつぶやいている。


「満足しましたか?」


僕がそう言うと、男は目を開けて僕の顔をじっと見た。


「あなたの名前は新田かおる。男性。フリーのライターをやっている。」


男の口から出た言葉に、驚きよりも恐怖の方が強かった。なぜか自分の情報を持っているこいつは、僕をだまそうとしているのか?


「あんた、なんなんだよ。なんでそんなこと知ってるんだ。何が目的なんだ。」


男はまたにこっと口角をあげた。


「そうか、まだこれくらいじゃあ弱いですね。では、これでどうでしょう。あなたは大学生になってかっこつけるためにたばこを吸い始めるも、肺に入れるのは健康に悪そうだという理由から、口でしか吸っていなかった。あとはそうですね、あなたは幼いころから寝るときには小さいコアラのぬいぐるみがないとぐっすり眠れない。」


誰にも言ったことのない情報ばかりだ。たばこに関しては、親も知らない。


「どうなってるんだ・・・。」


事故にあって自分の頭がおかしくなってしまったのか。


「だから言ったでしょう。私は、宇宙人です。さあ、信じてもらえたのならこの星を案内してください。あなたの頭に触れたら、気になるものがとっても沢山ありました。」


まだ思考が追いついていない。本当に宇宙人?だとしたら報告した方がいいんじゃないか?どこに?警察?永田町?頭の中がぐるぐる回っているあいだにも目の前の自称宇宙人はしゃべり続けている。


「わかりました。にわかには信じがたいけど、いったん信じてみます。この星すべてを案内することはできません。僕が知っている範囲でお答えしますし、お連れします。」


悪意のようなものは感じられないし、一緒にいれば正体がわかるかもしれない。


「おお。やっと信じてもらえましたね。」


おおげさに喜ぶ姿は、あまりにも人間的だった。


「ちなみに、あなたのことはなんて呼べばいんですか?宇宙人じゃ、あんまりだし。名前はありますか?」


うーんと小さめに唸り、男は答えた。


「名前、識別するものですよね。そうですね、ここではなんて呼んでもらうのがいいでしょう。そうだ、あなたの頭の中をのぞいた時に見えたものにしましょう。フルーツタルトはどうですか?とっても印象が強く見えましたよ。」


「なんでフルーツタルトが。しかも長いな、じゃあタルトにしましょう。というか、別に僕はそんなにフルーツタルト好きじゃないですよ。なんでそんなのが印象強く出てきたんでしょう。」

「さあ、私に聞かれても。私はあなたの頭を覗いただけですから。タルト、いいじゃないですか。さあ、さっそく食べに行くことにしましょう。」


そう言うと、僕の返答を待たずに大きく手を振って歩き始めた。


「ちょっと、どこに行くんですか。それに、食べるものってのは分かるんですね。」

大げさに歩くタルトは、歩く動作の途中で大げさに振り上げた手を止めてこちらを見た。

「だから、この星のことはある程度インストールしてるし、勉強してきたんです。いい加減信じてください。」

「わかりましたよ。フルーツタルトですね、知ってる店がありますからそこに行きましょう。ついてきてください。」


なぜかふっとケーキ屋が浮かんだ。過去に数回使ったことがある程度の店だ。



「ここにおいしいフルーツタルトが置いてあります。じっくり見てください。」


ガラスケースに綺麗に陳列されている、フルーツタルト。照明の光を受けてキラキラと水あめでーティングされた果物が光っている。


「うわー、これはとっても綺麗ですね。これが食べ物なんですね、装飾品のようです。」


本当にこんなことを調査する必要があるのだろうかと不信に思ったが、タルトの顔はあどけなく、素直に喜んでいたので、悪い気はしなかった。


「あ、久しぶりですね! 最近見なかったので、引っ越したのかと思いましたよ。」


唐突に正面のガラスケース越しに声が聞こえた。どうやら僕に言っているようだ。随分フランクな店員もいたもんだと訝っていると、店員も不思議そうな顔をしたあと、何か思い出したかのように気まずそうな顔をしてうつむいて別のお客のところに行ってしまった。


「かおるさん、これ、食べましょうよ。お金を払う必要があるんですよね。買ってください。」


タルトはしぶしぶ財布を出す僕を見ながら、エサを待つ犬のような顔をしている。普通だったらこんな簡単に受け入れることのない現実に、なぜかすんなり受け入れている自分がいる。奇妙ではあるが、タルトには妙な安心感がある。


「これは、感動です。とてもおいしい!こんなにおいしいものがこの星にはあるんですね。」


目を輝かせながら言う姿は、子どものようで、何かを懐かしく感じさせた。あっという間に食べ終わると、タルトはすぐに次の場所に行きたがった。



「ねえ、いいでしょ。人間以外の種族も見たいんです。立派な調査ですよ。」

「動画とかじゃダメなんですか?家に帰れば沢山見せてあげることができますよ。」

「だから、直接体験しないと意味がないんですって。あなたの頭の中にはとっても素敵な思い出として記録されていましたよ。」


またそれか。動物園に行ったのなんて何年前だろうか。その時は確か、大学に入ってすぐだったような気がする。


「わかりました。行きましょう。おっさん二人で動物園なんて、周りの目が気になりますけど。」

「どういう意味ですか?」

「いや、なんでもないです。」


「おー。ここが動物園とやらですか。なんだかにおいますね。」

「文句を言うなら帰りますよ。」

「感想を言っただけですよ、そんな怒らないでください。」


タルトはずっと楽しそうだ。


「そういえば、僕の頭の中の動物園はどんな感じだったんですか?」

「まさにこの場所です。情報と合わせて少しだけその時の感情も読み取れる、というか流れてくるといった方が適切かもしれませんが、かおるさんにとってここは、楽しい場所でもあるし、寂しい場所でもあるようです。なんだか複雑な感情でした。」

「そう。そうだろうね。ここは、思い出の場所であることは間違いない。」

「女性、ですかね。一緒にいたのは。」

タルトの声のトーンは途端に低くなった。今までのタルトの様子とちぐはぐだが、いろいろ学んでいるのだろう。

「うん。当時、お付き合いしていた女性です。大学生の時だから、もう10年くらいになるかな。」

「大事な人だったんですか?」

「なんだよ、急に普通の人間みたいなこと聞いて。」


ふっと僕が笑うと、タルトは気まずそうに頭をかいた。


「高校生の時から付き合ってました。家が近くで、幼馴染でした。思春期に入るとお互いに少し距離ができたけど、それでもいい相談相手でもあり、最高の友達でした。相手が誰かに告白されたってのを聞いて初めて自分の気持ちに気づきました。自分でも驚きましたよ。心ではずっと友達だと思っていたはずだったのに、まさかこいつのことを好きになるなんて、って。少女漫画みたいにありきたりだし、恥ずかしくなって。そしてその女性は告白を受けたんです。学校でも有名なモテ男だった。この気持ちは自分だけじゃないって思ってた自分がいたことと、あんな軽薄な男と付き合う女だったのか、って勝手に怒ってた。馬鹿ですよね。」


タルトの僕をみる目は真剣だった。青と緑の目が作り物であるかのように、現実感がない。


「でも、結局かおるさんと付き合ったんでしょ?」

「はい、まあ、そうですね。その男はその女性の、いわゆるプライバシーにかかわるような写真を自分の男友達に送っていたんです。僕はそれに気づいて。友達であることには変わりなかったので、それを伝えました。そしたら、その子は絶対信じないって。僕にそれはまあひどい言葉を浴びせましたね。でも、それでも、僕は許せなくて。その男に直接言いました。大喧嘩ですよ。結果として僕が一方的に殴られていただけなんですけど。それを彼女の友達がたまたま見ていて。そこで、自分の彼氏がやっていたことに気づいたようです。」

「なるほど、それでそんな男とは別れて自分を救ってくれたあなたと付き合ったと。」

「いや、すぐにはそうはなりませんでした。僕に対しての申し訳なさと、好きだった人に裏切られたことのショックで誰かと付き合うことにすごく抵抗を感じるようになっていました。いわゆるトラウマですかね。その後もしばらく友達でいました。その間、僕にも恋人ができたりして、それをとても喜んでくれたのを覚えています。自分でもあの時の感情はわかりません。彼女のことが好きだったはずなのに。恋愛として好きでいることから逃げたかったのか、嫉妬してもらいたかったのか。どちらにせよ、最低ですね。当時お付き合いをした恋人には申し訳ないことをしたと思っています。結局、長くは続きませんでした。その後、彼女の方から告白されました。かおるのことなら、愛せそうって。すごく嬉しかったですね。そっから、3年くらい付き合ってました。この動物園はその時によく来ていました。」


彼女とよく来た動物園。もう10年も前なのに、自分の心の中にはしっかりと残っている事実に少し胸がきゅっとした。


「なんでお別れしてしまったんですか。」


そう聞くタルトはの表情はまるで、彼女との日々を一緒に体験したかのように恍惚としたものだった。


「彼女が、海外に行くって言ったんです。とても絵が上手で。海外の学校で一から学びたいって。日本にもレベルの高い芸術の大学はあるし、僕も最初は引き留めましたよ。でも、そのうち自分が足かせになってることに気づいて、送り出しました。恋愛ではよくある話です。何度か連絡は取りましたが、向こうも忙しいし、時差があってタイムリーなやり取りが減ってきて、それっきりですね。」

「そうですか、きっととても素敵な女性だったんでしょうね。」


タルトは少し涙ぐんでるようにも見えた。


「もう、過去の話です。その後も特に絵が有名になったとかは聞かないのですが、どこかで元気にやってることでしょう。」


そうだといい。


「では、今日でまた新しい思い出を作りましょう、私と。」

「確かに彼女との思い出を宇宙人で塗り替えるのは僕が初かもしれません。ある意味一番印象に残りそうです。」

彼女のことを思い出したのは、久しぶりのはずだったが、当時の記憶が感情と一緒に鮮明によみがえった。

「ここは広すぎます。なにかおすすめの動物はいませんか?」

「ああ、それだったら確か最近象の赤ちゃんが生まれたはずですよ。とても可愛いです。」

「赤ちゃんですか、生まれて間もない子供を差す言葉ですね。僕は別にかわいいという感情がなんなのかも分からないのであまり興味ありませんね。それよりも、より人間から離れている種を見せてください。」

打って変わって宇宙人らしいことを言う姿に頬を緩ませた。

「わかりましたよ、じゃあ爬虫類でも見に行きましょう。」

と言って歩き始めたタイミングだった。

「それにしても、ここに来たのは10年以上前って言っていたのに、よく象の赤ちゃんが生まれたの知っていましたね。かおるさんも宇宙人じゃないんですか?」

タルトはふざけて言ったが、たしかに最近この動物園に来た覚えはない。僕は、何かひどい思い違いをしているような感覚に陥った。何で自分はそんなことを知っているんだ。何かおかしい。先ほどのフルーツタルトの店での出来事もそうだ。あの店でフルーツタルトなど食べたことないのに、なぜおいしいと言ったのか。店員の態度もおかしかった。何か、ピントが合わない。


「すいません。一度家に戻っていいですか。少し疲れてしまったようで。」


頭を抱える僕を、タルトは怪訝な顔で見ている。


「大変だ、何か機能に異常がありましたか。すぐに戻りましょう。」


 虫がつぶれたようなシミがついた天井。だけど、なにか違和感がある。家に来てからじゃない。ずっとつきまとっている。タルトは家についてから、風呂場を見たいと言って戻ってこない。あたりを見回すが、間違いなく自分の家だ。大学を卒業して、駅から近いという理由で即決した自分の家だ。家の中を見回しているうちに僕はリビングで見覚えのない写真立てを見つけた。その写真立てには三人の男女が肩を組んで写っていた。写真には、タルトが写っていた。今の見た目とは大きく違う。髪の色も目の色も黒だ。いわゆる普通の見た目だった。でも、タルトと同じ顔をしている。真ん中に彼がいて、その右隣りに僕がいる。左隣には、若い女性が写っている。見覚えのある顔をしているが誰だかわからない。頭がぐるぐる回る。今、一体何が起きているのか。


「写真、見たか?」


声に驚き、振り返るとタルトがいた。


「・・・どういうことですか?」


タルトは、先ほどと恰好は変わっていない。しかし、別人のように見えた。先ほどまでの、あどけなさや好奇心がもうその顔にはない。


「そこに写っている女性、誰だかわかるか?」


喋り方も変わっている。耳になじまない高い声で、敬語を使っていたが、今は低く大人びた声だ。


「わかりません。どうなってるんですか。僕の脳をいじったりしたんですか。まず、ここに写っているのは、あなたですか?」


やはり騙されていたのかもしれない。実験体かなにかにされたのだろうか。記憶が混濁していたのも、そのせいだったのか。


「その女性は、俺の妹だ。そして、お前の恋人だ。」

「は?」

「動物園であんな話が出たから顔は覚えているもんだと思ったが、気づかないんだな。」


そう言われ、混乱しながらも記憶をたどった。見覚えがあるのも当然だった。むしろなぜ最初気づけなかったのか。長年付き合った、あの人本人だった。


「彼女とは大学生の時以来会ってないし、こんな写真を撮った記憶もない。何が、どうなってるんですか。」


タルトは、少し寂しそうに首を傾けているが、その真意までは読み取れない。


「俺は、お前に死なないでいて欲しいだけだ。」


唖然とする僕を見つめながら、宇宙人と思っていた男はふうと長く息を吐いた。


「お前は交通事故にあって、病院にいたわけじゃない。自殺しようとしたんだ。これで三回目だ。」

「僕が?自殺を?三回目?」

「事故にあった瞬間を覚えているか?」


僕は記憶の糸をたどるように思い返した。事故の記憶はなく、頭に浮かんだのはあの白く清潔な天井だけだった。そんな僕の様子を見て、男は続けた。


「その女性、かすみはお前の恋人だ。お前らは、一年ほど前からまた付き合い始めたんだ。」

「ばかな。かすみと付き合っていたのは、高校生から大学生の時ですよ。一年前だなんて。」

「かおる、お前今何歳だ?」

「え。僕は今年29歳ですよ。」

「違う、お前は今30歳なんだよ。」

「・・・ちゃんと説明してください。」


男はリビングのソファに腰を下ろした。こんなに大きいソファを買った覚えはない。


「お前とかすみは大学を卒業してから再会したんだよ。かすみは日本に戻ってきたんだ。そして、お前らはまた付き合い始めたんだよ。そして、死んだんだ。交通事故でな。」


交通事故で死んだ。息が、鼓動が、早く、大きくなる。頭の中に今までなかったイメージが流れてくる。


「思い出してきたか?」

「その人と僕はこの家で、一緒に暮らしていた・・・」


男は大きくうなずいた。いや、男ではない。かすみの兄の開だ。小さい頃から三人でよく遊んでいた。


「車で事故に遭ったんだ。トラックが突っ込んできて。その前に、運転を変わると言って、かすみと運転を交代したんだ。かすみが、免許取り立てで、練習したくて、最初運転してたんだ。それで・・・」


全部思い出した。かすみとの一年間の思い出。事故の原因。自分のすぐ隣で起こったかすみの死。かすみとの時間が丸ごと消えていた。


「お前のせいじゃない。あれは居眠り運転をしていたトラックが、暴走した結果起こってしまったことだ。自分を責めるな。」


開は、立ち上がり顔を両手で覆い隠すようにうずくまる僕の手を無理矢理はがした。まだ頭が混乱している。


「お前は、かすみの死後三回自殺未遂を起こした。そして、段々と記憶がおかしくなっていったんだ。今回は完全にここ一年の記憶がなくなっていることを医者に教えてもらったんだ。」


あの医師の怪訝な顔、ケーキ屋の店員の不自然な態度、全部合点がいった。


「なんでわざわざこんなことを。」


開はわざわざ宇宙人の振りをして僕に接触した。


「かすみが死んで、お前は自分を責めて日常生活に戻れなかった。二回目の未遂の時にはもう記憶が混濁していた。医師や俺の口から事実を聞かされ、全てを思い出したお前は取り乱し、精神が壊れそうだった。だから、徐々に思い出させようとしたんだ。かすみとの楽しい思い出をまずは取り戻してほしかった。だから突拍子もない宇宙人って設定を使ったんだ。フルーツタルトを食べていたのはいつもかすみだった。何かあるたびにあそこのケーキ屋を使ってたんだよ。動物園だって二人でよく行ってたんだ。俺も一回一緒に行ったことある。」


そうだ。あそこのフルーツタルトはかすみのお気に入りだった。象の赤ちゃんが生まれたから見に行こうって言ったのもかすみだった。そして、事故に遭ったあの日、プロポーズをしたんだ。はにかみながらも、指輪を受け取ってくれたかすみの顔が浮かぶ。視界がくらむ。立っていることができない。


「自分を、責めるな。かおるが自分で死んだら、かすみはきっと怒る。思い出してみろ、かすみは、お前の恋人は、俺の妹は、事故に遭ったことをかおるのせいにするような女だったか?かすみは、きっとかおるに救われたはずだ。高校の時から、ずっと。」

「思い出しました、全部。でも僕は、これからどうやって生きていけば・・・。」

「生きるんだよ。どうやってでも。死んだら駄目だ。お前が死んだら、かすみと分かち合った記憶も全部なくなるんだ。フルーツタルトも、象の赤ちゃんも、人に裏切られても、人を愛せるようになったかすみのことも。お前が全部背負って生きるんだ。」


かすみとの思い出、一つ一つがゆっくりと、映画のワンシーンのように心に流れてくる。混乱する頭の中で、この思い出は消したくないと思った。


「強く生きていきます、とは今はまだ言えません。思い出した現実をまだ受け入れられていない。けど、かすみとの思い出は失いたくないと思います。」


開さんの目は赤かった。緑と青のカラーコンタクトに、白目が赤くなり、鮮やかだった。


「それで、いいんだよ。俺だってもう二度とあんな思いをするのは嫌だ。それで、いいんだ、今は。」


開さんは静かにそう言った。


 僕は、ふと、部屋を見渡した。まだかすかに残るかすみの気配に、ただいまと、語りかけた。







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星のお兄様 みつぼし @mitsuboshi-t

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