おはよう龍神

十余一

前編

 集落の東側に位置する泉は、古来よりこの地の人々に親しまれてきた。

 景勝地としての美しさだけではない。長雨の際は水の受け皿となり、日照りが続けば滾々こんこんと湧く水で潤す。およそ水に関する災難とは無縁であると言えるほどに恩恵を受けた。人々は感謝し、泉のほとりに社を造立して殊更に祈る。

 寛元かんげんの頃、大水に襲われ近隣の集落がことごとく流され、あるいは沈むという出来事があった。しかし、奇跡的に当地の集落だけは被害を免れる。龍神はこのとき初めて顕現けんげんしたという。

 まつられた龍神は人々の生活を見守り、一年ののち泉の底へ帰ることになった。不安に揺れる人々に龍は言葉を残す。

「案ずるな。まどろみの中でもなんじらを助けよう」

 そうして龍は眠りについた。龍にとっては瞬きの間、人間にとっては長い時を。

 以降、十干十二支がひとめぐりする六十年に一度、昇る太陽とともに龍神は現れる。それがこの地に伝わる伝承だ。


 夜も明けきらぬ冬の日、人々は期待を胸に泉へ視線を向けている。二重三重の人垣には遠方から訪れた人もいるのだろう。普段の閑散とした集落からは考えられないほどの活気に溢れていた。

 白む空と渦巻く熱気に背を押されるようにして、年若い宮司が祝詞のりとを唱えはじめる。

「掛けまくもかしこき龍泉神社の大前にかしこみ恐みももうさく、菊の花咲き匂い、澄泉ちょうせん清らけし今日の日に、大前に御食御酒種々の味物うましもの捧げ奉り――」

 おごそかな声が響きわたると、周囲の緊張も高まる。先ほどまでの賑やかさが嘘のように観衆は静まりかえった。風もぴたりと止み、葉の一枚も音を立てることはない。水面は仄明るい空を写し、鏡のように澄んでいる。今、泉に飛び込めば夜と朝の狭間、異類の住まう世界へ行けるのではないかと人々に錯覚させるほどだ。

「――龍の里をいやし栄へ、里人とこしえに守り給へと曰す事を、聞こしせとかしこみ恐みももうす」

 祝詞を唱え終えた宮司が口を閉じると同時に、太陽が顔を出す。そのひと筋の光が水に触れると、泉全体が神秘的な輝きに包まれた。湧水が水中を昇り、やがて大きなうねりとなって、ついに龍神が顕現する。節くれだつ角、鋭い眼光、荘厳なひげ。手足はなく、長躯ちょうくを鱗が覆う。

 顕現に時を同じくして、ウィンドチャイムの清らかな音が響いた。スピーカーからは和楽器にシンセサイザーやエレキギターをミックスした爆音のメロディーが流れ、龍の髭を震わせる。極彩色のLEDライトは滑らかに色を躍らせ、光が走る龍の鱗は虹より美しく煌めいた。さらに、雲やぎょくを模ったドローンが羽音を響かせ飛び交い、華やかさを添える。

 人々は歓声を上げ、思い思いに龍神の顕現を祝う。親に肩車された幼子は千切れんばかりに手を振り、介助者に支えられ立つ老婆は手を合わせ拝んだ。そして多くの人はスマートフォンに龍の姿を収める。

 龍はその様子を金色の瞳で見下ろしていた。


 奉賀の儀を終えた龍神は、宮司によって本殿へと迎えられる。ぐるりととぐろを巻き座す龍を前に、宮司はうやうやしくこうべを垂れた。そのつむじに、龍の震えた声が降る。

「……ちがう」

「はい?」

「思ってたんと違う!」

 本殿を揺らすほどの、渾身の咆哮だ。しかし宮司は冷静に「と、言いますと」などと聞き返した。すると、衆人の前では我慢していたのであろう龍の不満が滝のように襲いかかる。

「けたたましい音楽はまだよい。問題はブンブンとうるさい羽虫と、ビカビカと鬱陶しい七色の光じゃ。何なんじゃあれは!」

「羽虫ではなくドローンです。それに七色ではありません。約千六百八十万色です」

「多いわ!」

「二百色の白のほうが良かったですか?」

「見分けつくのかそれ! というかそういう問題ではない!」

 長い長い、本当に長い溜息をついた龍は、じろりと宮司を睨みつけた。

「ワシの神々しさで魅了する儀式ではないのか。あれやこれやと手を加えおって」

「今風にアレンジさせていただきました」

 鋭い眼差しに貫かれた宮司は飄々としている。そのまま悪びれることなく、「寺でゲーミング読経したり仏像をドローンで飛ばしていたのが羨ましくてやったとかでは決してなく」とも言う。そして、なおも言葉を続けた。

「神々しさを増すために、本当に必要な演出なのです。失礼を承知で申しあげますが、龍神さま、少しばかり小さくなっていませんか。文献によると天明の頃は四十九尺七寸あったとか……」

「言うな言うな! ワシとてわかっておる……。龍神などと大層な名で呼ばれてはいるが、人々の祈りによって生まれたちょっぴり神秘的な存在にすぎん。祈る者が減れば、それだけワシも力を失うというもの」

 一人と一柱の間に哀愁がただよう。重い空気の中で口を開いたのは宮司だった。

「まあ、この集落も過疎化が進んでいますし、奉賀の儀に人が集まるのも一時的なものにすぎません。そもそも娯楽が飽和しているこの時代――」

「娯楽? 龍神のこと娯楽って言った?」

「――泉から龍が出てくるだけじゃあ、ねえ……? 正直、それだけなら他の場所でも見られます」

 暗い未来を予見した龍はワッと泣きだし、その目からこぼれ落ちた大きな雫が床に水たまりを作る。宮司は濡れることもいとわず龍に寄り添うと、これ以上ないくらい明るい笑顔を向けた。

「そこで! 私に名案があります。集落が過疎化したなら外にファンを作ればいい。グローバルでアーバンマイグレーションでボーダレスなこの時代を生き残るために、インターネットでアピールしていくのです!」

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