聖夜の悪戯

霜月このは

聖夜の悪戯


 午前二時。静かな部屋で。隣から聴こえる寝息の音と、甘い匂いに脳をやられそうになる。


 『聖夜』なんて名ばかりの、罪に塗れた街中には、今まで嫌悪感しか抱いてこなかったけれど。


 薄明かりの下で、わたしはこの日知ってしまった。


 『罪』という言葉の、その意味を。



 ※



「しにます」


 そう、わたしがつぶやいてから、たった数分後のことだった。


「大丈夫ですか?」


 その文字列がスマホの通知に来るのと同時に、今度は着信通知が来た。


「ごめんなさい」

 

 反射的に謝る。いくらなんでもやりすぎだということは、わかっていた。別にかまってちゃんな行為をするつもりはなかったけど、わたしがSNSに上げた大量の錠剤の写真は、それなりに深刻な威力をその人に与えてしまったようだった。


「もしよかったら、今から行きましょうか?」


 丁寧な言葉でそう提案されれば、断れるはずがない。そうしてわたしは、客人を部屋に招き入れることにしたのだった。




「何があったの?」


 部屋に着くなり、開口一番に、そう聞いてくれる。


 先生は、やさしい。


「ちょっと、その、いろいろあって」

「色々って、なに」

「それはその……」


 質問に答えられない理由は、その原因が目の前にいるその人だからだ。


 昨日、友人のSNSの投稿で、わたしは知ってしまったのだ。


 綺麗な夜景の見えるレストランの、「Aniversary」と書かれたデザートプレートの文字と、写り込んだ左手首のブレスレットのせいで。


 わたしが2年間片思いしていた先生と、10年来の親友が付き合っているという事実を。



「ごめんなさい。こんなところまで来させてしまって」

「そんなこと気にしないの。それにレッスンで毎週来てるんだから、全然平気だよ」


 先生はそう言って、優しく笑う。


 週に1回、60分のフルートのレッスンは、もはや日常の一部で。

 わたしの自宅に先生が来るのは、すっかり慣れっこだけど、それがクリスマスイブの夜ともなると、ちょっと事情が変わってくる。


「とりあえずこれ、買ってきたから」


 そう言って先生が袋から取り出したのは、スーパーで買ったというローストチキンと、チョコレートのケーキ。どちらもクリスマス仕様のものだ。


「え……っ。ありがとうございます」

「残り物でごめんね」

「ううん……嬉しいです」


 先生はさらに、カバンからボトルを取り出す。スパークリングワインだ。


「このタイプか……開けられるかな」


 そんなことをぶつぶつ言いながらしばらく格闘して。客用に買っておいたプラスチックのカップにピンク色の液体を注ぐ。


 キラキラの泡が泳ぐのを見ながら乾杯するのは、この状況下だというのにやっぱり、心が躍ってしまう。


 本当にわたしは、どうしようもなくバカだ。


「……いいんですか。今日、こんなところにいて」


 バカだからわたしは、どうしようもない言葉を先生に投げてしまう。


「今日、クリスマスじゃないですか。恋人といなくていいんですか?」

「そんなこと気にしなくていいの。それに、向こうは今日、仕事だしね」


 少し寂しそうにそう言う先生の顔と、彼女の左手に付けられた銀色の輪っかが、わたしに現実を主張してくる。


 嫌になるほど。


 だからわたしは、憎らしいその輪っかから、目をそらして、乾杯した。


 人生最初で最後の、好きな人と過ごすクリスマスパーティーが始まった。



 ※

 


 物心ついた時から、わたしは死にたかった。


 ひととのコミュニケーションが不得意だったので、幼稚園生の頃から友達は全然いなくて、小学校でも中学校でもいじめられていた。


 高校は地域のトップ校に進学したおかげで、皆が勉強以外のことに関心がないせいか、いつのまにか、いじめのようなものはなくなっていたけど、相変わらずわたしはずっと1人で。


 だけど、高校一年になったばかりの十五歳の春、入部した吹奏楽部で、生まれて初めての友人ができた。


 それが里紗りさだった。


 里紗とわたしは、本当にびっくりするくらい、いつもそばにいた。部活の時ももちろんだけど、それ以外の時間でも、一緒に宿題をしたりとか、特に理由はなくてもカフェでだらだらしたりとか。


 今となっては、そんな日々もすごく懐かしいけれど、当時のわたしは同時に苦しみも感じていた。


 それはわたしが、いつのまにか里紗に恋をしてしまっていたからだ。


 唯一の友人である里紗へ想いを伝えることは、ずっとできなくて。


 約10年間。


 長く長くこじらせた片想いはジワジワとわたしを蝕み、依存の感情を生んだ。わたしのメンタルは里紗の一挙一動に左右されるようになり、里紗に冷たくされるだけで死にたくなるようになった。


 大学を卒業して社会人になる頃、これではいけないと、思い切って里紗とは距離をとることにした。


 空いた時間で吹奏楽部時代にやっていたフルートを再開してみようと、個人の先生についてレッスンを受けることにして。


 それで、出会ったのが、結城ゆうき先生という女性のフルーティストで。


 今目の前にいる、わたしの人生二度目の片想い相手なのだった。



 ※



知優ちゆちゃんは……その」


 先生は一つ一つ、言葉を紡いでゆく。


「……はい」

「気づいてるんだよね、私たちのこと」

「気づいてるも何も。あれってそもそも、匂わせじゃなかったんですか」


 SNSに載せられた、お揃いのブレスレットの写真のことだ。


「里紗が、撮ろうって言ったからつい……。私も、ああいうのは初めてだったし、つい、盛り上がっちゃって」

「なにそれ、いい歳して」

「ほんとだよね」


 そう言って笑い合う。先生は私の一回り歳上で。だけど歳のわりに世間擦れしていないというか、びっくりするほどピュアな、まるで少女のような部分が垣間見える瞬間がある。


 音楽家というのはそもそもそういうものなのか、それとも彼女がたまたまそういう人というだけなのか、わからないけれど。


 だけど私は、先生のそういうところが、たまらなく好きだった。


 ……でも。


「間違いだったら、ごめんね。もしかして今日のアレは……私たちのせい?」


 そうやって、わざわざ聞いてくるデリカシーのないところ。そんな、わかりきっていることを。


 ああもう、ほんとに。愛しいけど、憎らしい。



 ※


 それは今年の秋のことだった。

 高校の同窓会があって、すごく久しぶりに里紗と再会したのだった。

 

 わたしがフルートのレッスンを始めたという話をしたら、里紗も習ってみたいというので、結城先生を紹介した。


 里紗は高校時代はサックスを吹いていたけど、大学時代にジャズバンドに参加するうちにフルートにも興味を持つようになっていたらしい。


 結城先生の演奏動画なんかを見せたら、やたらと食いついてきて。わたしもすっかりテンションが上がってしまった。


 だって、なんだか嬉しかったのだ。

 自分の好きな人を、自分の好きな人が気に入ってくれるというのが。


 わたしはその頃にはすっかり結城先生に恋をしてしまっていたから。


 本当に、苦しいほど。



 ※



「……先生のせいって、言ったら、付き合ってくれるんですか?」


 目線を合わせることなく、軽口を叩くように、わたしはそう言う。


「ごめん」

「もう、謝らないでください。わたしが惨めになるだけなんで」


 結城先生にわたしが告白したのは半年前。玉砕したけれど、今もレッスンを続けていられるのは、先生がそれを優しく受け止めてくれたからだ。


 先生は、やさしい。


「死にたくなくなる方法が、あればいいんだけど……」


 そんなことを大真面目に言うものだから。


「それは全メンヘラの悲願ですね」


 ついそう答えて笑ってしまう。


「ともかく、わたしのこれからの生死について、これ以上2人にできることは何もありません」

「そんな……」

「大丈夫ですから、もう。湿っぽい話はもう終わりです。わたしは、先生が今日来てくれたってだけで嬉しいです」


 そう言って、話を強引に終わらせた。


 喉元から出そうになる『どうして里紗なんですか』という言葉を、ぐっと堪えて。


 そんなこと、今更聞いても仕方がないし、先生をこれ以上困らせたくなかった。



 ひと通り飲んで食べていると、先生がうつらうつらと眠そうにし始めたので、わたしは部屋の灯りを小さな常夜灯だけにして、先生にはわたしのベッドの上に上がってもらった。


 いくらわたしのベッドがセミダブルで広くても、恋人のいる人と普通に並んで寝るのは申し訳なかったから、わざと狭い方に足を伸ばすような向きにして、距離を取った。


 ベッドに上がると、先生はすぅっと、落ちていくみたいに眠ってしまった。


 あんまり見ないようにしないと、と思う。

 里紗の顔が頭の中にチラつく。


 だけど、欲望にはどうしても抗えなかった。


 眠っている先生の顔を覗き込む。長いまつ毛。目を閉じているから、余計に存在を主張する。


 甘い香りが鼻をくすぐる。

 その瞬間、露出した鎖骨に食らいつきたくなる。


 震えた。

 こんなの、初めての感情だった。


 寝息に混ざる小さな声を聴くたびに、首筋に舌を這わせる妄想をしてしまう。


 それは、苦しくて、せつなすぎる衝動で。


 けして許されることではないから。わたしのしていいことではないから。


 先生の困る姿も、里紗の悲しむ姿も見たくなくて、わたしはただ、死にたくなった。



 だけど、その時。


「……おふとん、ちゃんとかけないと」


 突然、先生が起き上がり、私に布団をかけてくれる。


 寝ぼけていたのか、布団をかけて満足すると、そのまますぐに眠りについてしまった。


 先生は、やさしい。

 けど、すごく意地悪だ。


 わたしを心配して来てくれたって言うけど、自分を好きだった人の前で、こんな無防備な姿を晒してしまうなんて。


 苦しくて、せつなくて。


 涙がこぼれそうになるのをぐっとこらえて、わたしは先生に背を向ける。


 ただし、ちょこっとだけ。

 この愛しくて憎らしい人に、悪戯をしてしまおう。


 寝ている先生の、露出した首筋を、グッと思い切り、指先でつまむ。


 起きたって、知るものか、と思う。


 里紗はこれに気づくだろうか。

 明日はビデオ通話をすると言っていたから。


 気づいて慌てればいい。


 これは私から里紗へのクリスマスプレゼントだ。


 先生に寂しい思いをさせた罰。


 聖夜にこんな罪を犯して、わたしも他人のことは言えないなって思いながら、再び寝転ぶ。


 愛しい愛しい人の肌に刻まれた、赤い色の悪戯を横目に見ながら、わたしはようやく眠りにつくことができたのだった。

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