ミナシの神、《確変》を予告す

浦切三語

第1話 白い服、ハマり続ける男

 頭蓋の奥を震わせるのは、無数の金属たちの大合唱。


 でもここは、むせかえるほどの清潔さに満ちたクリーンルームじゃない。無骨なロボットアームが超高速で人殺し兵器を大量生産する場所じゃない。ぼくはいま、過去とは無縁の場所に存在している。


 ぼくは、喫煙ボックスへ入っていく、ひとりの男の後ろ姿を眺めている。経年劣化して白っぽくなっているアクリル製の壁越しに見る彼の装いに、自然と視線が引き寄せられる。袖口のたっぷりとした白い厚手のロングシャツにも、裾にかけてゆったりと広がる白のカーゴパンツにも、社会から見捨てられた痕跡は見当たらない。


 ぱっと見た具合はよくあるファッションだけど、早朝のごみ捨て場を荒らすカラスの羽のような色合いの長髪だけは、どうしても不潔に感じる。靴もボロボロで、あろうことか布のガムテープでつま先部分を補強している有様。アンバランスな清潔感。


 たぶん、おそらく、きっと、この男は浮浪者のルーキーだろう、と心の中であたりをつける。きっと昨日、今日のレベルで最底辺にまで落ちてきて、だから服もそこまで汚れていないのでは? さまざまな事情で社会の落伍者と成り果てた彼らは、磨り潰した未来の代価をその手に握りしめて、極彩色の機械を相手に闘いを挑んでいる。


 ぼくも、今日からは彼らのうちのひとりになるのだろうか。こんな場所にのうのうと足を運んで、クズだということは自覚している。だけれども、自覚して何か解決するのか? 自省を繰り返したところで、ぼくの現実が変わるわけじゃない。なら、究極のところは個人的な快楽の果てを目指せば良いだけのことじゃないのか。


 詰まりに詰まった現実の状況に我慢ならなくて、なにかが変わるんじゃないかとひそかに期待して、ぼくはこうしてホールに留まり続けている。


 ところが、RASH継続率九十パーセントの機種のはずが、たった三ラウンドで左打ちに戻せとアナウンスしてきたものだから、なんだかあっけに取られてしまう。そのタイミングで、隣の角台を打っていた男が急に席を立ったものだから、ぼくは彼の忘れ物に気付くことが、いまこうして出来ている。


 喫煙ボックスに足を踏み入れても、金属の喧騒は続いている。右手に350ミリサイズのぶどうジュースが入ったペットボトルを握り締めて、ぼくは、


 あの、


 と、浮浪者と思しき男へ呼びかける。


 反応はない。ホール全体が、つんざくような爆音に包まれているせいだろうか。声量の調節が難しい。


 浮浪者はこちらを振り返ることなく、壁に向かって紫煙をくゆらせている。すぐ近くのブースでは、無人兵器の規律性を思わせる整然さで居並ぶ機種たちが、金属の合奏を延々と続けている。吐き気がする感覚に一瞬襲われるけれど、こらえて、肚に力を溜めて声を出す。


「あの」


 浮浪者は、男はゆっくりと振り返る。馬のような顔をしている。口元と顎周りに、びっしりと茶色くて長い髭が生えている。手入れと無縁なせいか、眉毛の毛先が上まつげにかかるぐらい伸びている。優しい目元が、特に印象的。


 手に持ったペットボトルを差し出しつつ口にする。


「これ、あなたのですよね。忘れてましたよ」


 男は、ゆっくりと煙草の火を消してから、ペットボトルとぼくの顔とを、しばらく交互に見比べる。口髭に覆われた分厚い唇がわずかに開く。そこから生臭い息が漏れてくるのかと思いきや、鼻先を掠めるのは、シナモンと漢方薬を混ぜたような独特の薫り。


「あなた、台を打つのは初めてですか?」


 言葉の意味を理解するより先に、ペットボトルを持つ手に鳥肌が立つのがわかる。男の、ほとんど動いていない唇の隙間。男の声は、出玉の洪水音で麻痺しているぼくの耳朶に鮮明さを与えてくる。喫煙ボックスに設けられたエアコンの微かな排気音さえ、ほら、こうして聞こえてしまいそうなくらいに。


「離席する時には、自分の持ち物を台に置いておくものなんです。他のお客さんに取られないようにね」


 やってしまった。なんて言い繕おうかと目を泳がせていると、男が控えめに表情を崩す。


「怒ってませんよ。あの機種は、じつはみなし機でね。このホールでアレを打っているのは、私だけなんです」


 みなし機・・・・。どういう意味だろう。


「ためしに見学してみますか。私の遊技を」


 言われるがまま、ぼくは喫煙ボックスを出て、男の後をおずおずとついて回る。


 静寂は破られ、再び喧騒が舞い戻ってくる。煌びやかな電飾音と、金属球の連続する衝突音と、ひっきりなしに襲ってくるランプの光の嵐。整然と鎮座する機種の群れは、目の前に居座るお客さんたちではなく、狭い通路を掻き分けるように進むぼくらへ無言の威嚇を放っている。


 人気機種が勢ぞろいしている四パチ、一パチ、パチスロコーナーを通り抜け、最後にジャグラーコーナーを避けるように左へ曲がる。ホール西側に集結しているバラエティーコーナーの端っこ。ぼくが打っていた台の隣へ目を向ける。角台を誰かが占有している様子はない。


 ほっと胸を撫で下ろしていると、男がやおらに角台の前に腰かける。背筋はバレエダンサーのようにピンと張って、気のせいか眼光もやや鋭くなっている。これが、勝負師の顔ってやつだろうか。


 男はシャツのポケットから抜き身の一万円札を取り出すと、一切の迷いなく、台間玉貸機サンドへ滑らせていく。驚きを通り越して唖然としてしまう。ぼくなんか、今日は昼過ぎからずっとホールにいるけど、四パチの人気機種を打ったら千円札がたったの五分で溶けたことにビビッて、ちまちまと一パチで時間を潰すのが精一杯だというのに。というか、この金に対するある種の潔さは、間違いなく浮浪者のそれじゃない。きっと、彼はパチンコの儲けだけで生計を立てている、いわゆるパチプロという存在なのだろう。


 男の、長く骨張った人差し指が玉貸のボタンを押し込む。二十分の一に分解された万札が欲望の音を響かせて、川の流れのように上皿を満たしていく。ぼくは年甲斐もなく、わくわくした心地で様子を見守る。


 女の乳房でも扱うかのような手つきで、男の右手が台の右下に設置された丸っこいハンドルにかかる。その手が、ほんのわずかに右へ傾いた瞬間、遊技が始まる。


 さながらマシンガンの如く、射出口から発射されていく金属の玉の数々。盤面に穿設された釘に弾かれ、自重に従って次々に落下していく。目指す先は「ヘソ」だ。大当たりも何もない、通常時のスタートチャッカー。盤面中央のやや下に設置されていることから、人間のへそになぞらえてそう呼ばれているらしい。まずはここに入らないことには、図柄の変動が起きない。それくらい、超・初心者のぼくにだってわかる。


 ところが、球はいっこうにヘソに入らない。釘という釘に弾かれ、無機質な哀れみと共にアウト穴へ吸い込まれていく。腕時計を確認すると、時刻は夜の九時を回っている。


 打ち始めてから三十分が経過している。


 依然として、大当たりどころかヘソに一発も入っていない。こういう時に客のほとんどが口にする助言はなんだろうかと考えてから、男の肩越しに投げかけてみる。


「別の台に変えたらどうですか?」


「いや、これで良いんです」


 サンドに二枚目の万札を投入しながら、男は即答する。盤面を覆うアクリル板越しに映る彼の表情をそれとなく観察する。表情は読み取れない。ただ、黙々とハンドルを操作し続けている。


 さらに三十分経過。立っているのが辛くなってきた。隣の席に腰かけて、男の様子を観察し続ける。


 さらに三十分経過。さすがにおかしいと直感する。店側の設定ミスかなにかだろうか。ヘソに一発も入らないのはどうかしている。


 都合一時間三十分。三枚目の万札が泡のように消え、残高表示がゼロになったところで、男が立ち上がる。ようやく店側にクレームのひとつでも入れるのかと思いきや、帰り支度を始めている。


「じゃあ、今日はこれで帰ります」


 ぼくはあっけにとられて、反射的に腰を浮かしつつ口にする。


「まだ勝ってないですよ? というか、これ、ぜったいおかしいですよ」


「何もおかしなことなんてありません。いつも通りです。それに、私個人の勝ち負けはどうでもよいので」


 男は朗らかな調子を崩さない。ぼくは無性に腹が立ってくる。


「お店にクレーム入れた方がいいですって。機械が壊れているんだ」


「壊れてなんていません。間違うのはいつも人間の方だ。機械を疑ってはなりません」


 クリーンルーム。ロボットアーム。ベルトコンベアの残像。


「何を言ってるんだ、あんた」


 混乱するぼくを他所に、男は、軽くこちらに向けて手を挙げて別れの挨拶を寄こすと、そのまま夜の街へ消えていく。


 ぼくは、わけも分からず、飲みかけのぶどうジュースが入ったペットボトルを、力強く握り締める。

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