第2話
隣町へは、ほんの半時も歩けばたどり着く。
僕が通う学校がちょうど町の境で、僕らは学校で待ち合わせることにした。
もう遠くからピィヒャラピィと音がして、心は躍るばかりだ。
息を継ぐ間も惜しみながら、学校へと急いだ。
着くと、もう三人ばかり集まっていて、遅い遅い、走れ走れと急かされた。
「誠一、遅いよ」
「ごめんよ、母様がなかなか出してくれなかったんだ。あれ、光男は?」
「光男は駄目だ。親父の機嫌が悪いんだってさ。俺が出掛けに声をかけると泣いてた」
「それは残念だね」
「じゃあ行こう」
そうして僕達は夜店に向かう。
歩くにつれ、ピィヒャラの音は大きく、そして空が明るくなってゆく。
プンと醤油の焼けるいい匂いがして、僕達は皆喉を鳴らした。
ようやく神社に着くと、そこはずいぶん沢山の人が溢れていて、でも子供だけで歩いている者は見当たらない。
僕らはほんの少し大人になったような気になって、偉そうに歩いてみた。
夜店は明るいアセチレン・ランプで賑わっていて、僕らはまるで夢の中にいるような気持ちだった。
和(かず)が言った。
「僕らはもう大人だ。だからこんな風に固まっている必要だってないじゃないか」
「なんだって?」
次郎が訊き返した。
和はにっと笑った。
「いつも親父達に連れまわされて、自分の見たいものを見れないんだから、今日くらいは見たいように見ようじゃないか。皆で別れて、また帰りに一緒になればばれやしない」
「賛成。僕もそれがいいと思う」
何人かが賛成した。
本当は僕もそうしたかったけれど、でも実は反対だった。
父様と母様は、皆と一緒ならいいと仰ったのだ。
見ていないからと言って約束を破ったりしたら、きっと罰が当たる。
かといって、皆が賛成しているのに一人で反対するなんて事はできるわけがない。
そんなことを言えば、皆に臆病者扱いされてしまう。
僕はいつもそんなで、本当は駄目だと言いたくても言い出せず、結局皆の言う通りに流されてしまうことが多かった。
仕方なく僕も賛成し、替わりに本当は遊んでみたかった射的は止めて、父様の仰るとおり、菓子や面を買うだけにしておこうと思った。
結局皆と別れることになって、僕は一人で、不安な面持ちのまま夜店を歩き回った。
しかしどうして、しばらくすると夜店の鮮やかな玩具に夢中になり、そんな不安や臆病風など簡単に吹き飛んでしまった。
「らっしゃい! らっしゃい! 輪投げはどうだ! ここの一番遠い青の棒に見事投げ入れたら、この南蛮渡来の宝石箱、男の子には小型の蒸気機関車が当たるよ! さあどうだどうだ」
「いか焼きはどうですかぁ、本日採れたてのいかを丸ごとだよ、いかがですか」
「鈴焼きはいかが! 上等のカステイラの味のする鈴焼きはいかが!」
呼び込みの声がそこらじゅうでして、僕はさぁどれを食べよう、どれを買おうと思うだけで、なかなか買うことができなかった。
優柔不断だと父様は仰るけれど、せっかくの夜店なのだ。
よくよく考えて買わないと、あとで後悔してしまう。
そして歩いてゆくうちに、女の絵が目に付いた。
ずっと奥まで行くと、あまりランプが灯っていない暗い界隈があって、そこには子供がいなかった。
大人の男ばかりが沢山いて、そして父様が仰っていた紅白の垂れ幕があった。
中から灯りが洩れているから、きっと中でお芝居でもしているのだろう。
僕は約束を守ろうと思って、そこから立ち去ろうとした。
「お、誠一、お前も見にいくんか」
振り返ると、そこには和と次郎と二太郎の三人が立っていた。
「何を見に行くの?」
「あれ、お前知らないんだ。ほら、あそこの紅白の囲い。あの中に、面白いものがあんだぜ」
「面白いもの?」
「裸の女さ。俺、一回だけ裏から覗いて見たことがあるんだ。中では、素っ裸の女が男に囲まれながら踊ってるんだぜ」
「えっ!」
僕は「裸の女」という言葉に反応して、真っ赤になった。
「はははっ! 誠一お前、女の裸を見たことがないんだ」
「ないさ。悪いのかよ、それが」
「悪くなんかないさ。格好が悪いだけ」
和がそう言うと、三人は嫌な顔をして笑った。
「でさ、俺達裏からちょっと覗いてみようと思うんだ。誠一も来いよ」
「僕、行かない。まだ欲しいものがあるんだもの」
「そんなこと言って、本当は怖いのだろう」
「そんなこと、あるもんか! 僕は、まだ何にも買ってないんだもの。あとで行くから待っててよ」
僕は勢いに任せてそんなことを言った。
三人は顔を見合わせて笑ったが、すぐに神社の裏の方へ歩き始めた。
きっと遠回りして、囲いの裏へ回って覗くつもりなのだろう。
もちろん僕だって興味はあったけれど、父様は約束を破ると本当に恐ろしいから、僕は後で行くなどと馬鹿な約束をするんじゃなかったと後悔した。
立ち尽くしていると、少し先に立つ女の人と目が合った。
女の人には眉がちゃんとついていたけれど、その位置が髪の生え際近い不自然な場所だったので、僕は怖くなって、あわてて明るい方へと走った。
明るい界隈へ戻ると、僕はほっとした。
それはもちろん僕にだって女には興味があったけれど、こちらに帰って来てよかったと思って安心した。
と、そう気を抜いていたときのことだった。
――――どんっ!
とてつもない大きな爆発音が聞こえた。
「わぁ!」
僕は慌てて尻餅を着く。
「何の音?!」
もしかしてどこかで爆弾でも爆発したのではと思ったが、周りの人たちは平然としていた。
そこで声がした。
「さあ、いらはいいらはい。ポン菓子はいかが! ふっくら膨らんだポン菓子はいかが!」
ポン菓子?
ポン菓子なら食べたことがある。
そうか、さっきの音はポン菓子の音だったのだ。
「滋養満点、風味豊かで甘露なポン菓子はいかが! 糖蜜も沢山かけております!」
僕はもうどうしてもポン菓子が食べたくなって、声のする方へ向かう。
そこは人だかりができていて、大きな機械が「ぶうん」と唸りを立てていた。
「ポン菓子はいかが! さくさくのポン菓子はいかが!」
声を張り上げているのは僕と同じくらいの年の女の子で、大声で客を呼びながら、買う人に紙袋を渡してお金を受け取っている。
僕はよし、買うぞと思うのだが、なかなか声をかけられない。
言う間に、ポン菓子はどんどん売れていって、そのうちに人だかりと共に棚の上も空になってしまった。
店の親父は弁を見つめながら、大きな機械に片手をかけている。
きっともうすぐ大きな音がして、ポン菓子が出来上がるのだろう。
女の子は集めた金を種類ごとにわけて仕舞ってゆく。
ぼうっと見ていると、女の子が走り寄ってきて言った。
「お兄さん、そこにいると耳がおかしくなるよ、よけておいた方がいいよ」
叫び過ぎなのか、ずいぶんとがらがらとした声だった。
「いいんだ、僕、ポン菓子ができるところを見ておきたいから」
「……ご勝手に」
女の子はすぐに店に戻り、そして弁を覗き込む。
親父さんは何事かを言うと、左肩を左耳に当て、左手の平では右の耳を押さえた。
女の子は両手で耳を塞ぐ。
僕はあわてて女の子がするように耳を押さえたが、そのとたん、爆発音がした。
――――ぼんっ!!
すさまじい音だった。
とたんに網になったところにいくつもの膨らんだ米がパラパラと飛んできて、親父さんは「ギィ」と重そうな扉を開け、こてで中身を箱へ移した。
とたんに人が集まってくる。
「さあ、いらはいいらはい。ポン菓子はいかが! ふっくら膨らんだポン菓子はいかが!」
女の子が叫ぶ。
僕は思い切ってそれを買うことにする。
「それ下さい」
「あられと板があるけど、どちら?」(※あられはバラバラのもの。板は塊になっている)
「うんと、じゃあ板を下さい」
そしてお金を渡す。
「どうもありがとうございます」
女の子が僕に袋を渡してくれた。
僕はそれを受け取り、手を突っ込むと、ポン菓子はまだずいぶん暖かかった。
「サツキ、交代するから」
ふと見ると、僕よりも四~五歳は上だろう男の人が、女の子と交代していた。
「あいよ、お兄(にぃ)」
そう言って女の子は走って人込みに消えてしまった。
それから僕は、三度ばかりポン菓子の爆発音を聞いて、そしてふと皆と約束していたことを思い出す。
「皆怒っているだろうか。それとも僕が逃げたと思って馬鹿にしているだろうか」
そう思うとなんとなく気分が暗くなった。
神社の入り口へ向かうと、もう皆揃っていて、僕が遅かったことを口々に責めた。
「ごめんよ、僕ポン菓子の音が勇ましくて嬉しかったんだ」
「ポン菓子?」
「それより誠一、お前約束したのに来なかったろう」
「うん。だって僕忘れてたんだ」
「うそつけ、本当は怖かったんだろう」
「そんなもんか!」
「うそだ。でも誠一、おまえは来なくて正解だったよ。俺達見付かっちまったんだ」
「えっ! それで?!」
「拳骨を喰らった。でも、……な?」
和がそういって一緒だった二人と顔を見合わせて、嫌らしい声でヒヒヒと笑った。
「殴られた甲斐はあったぜ、な?」
「な」
「なんだよ」
僕は不愉快になって言った。
「凄かったんだぜえ、こう、女が裸になって、尻を振って踊るんだ」
「乳が揺れてた」
「いやらしかったぞ」
三人は殴られた頭をさすりながら自慢した。
僕は少しだけそれを想像したけれど、きっとそれはしちゃいけないことだと思って、慌てて打ち消した。
帰り際、三人はずっと裸踊りの女はどうだった、いやこうだったと盛り上がっていた。
僕はどうしてか悲しくなって、でもどこか疼くような気持ちにもなって、早く家に帰って寝てしまいたいと思った。
「あのさ、知ってるか? ああいったテキ屋で働く女は、悪戯しても何も言わないらしいぜ」
「へぇっ、それってどういうこと?」
「だからさ、今日の裸踊りをしてた女がいたろう、あれは、テキ屋の女が交代でやってるんだぜ」
「じゃあ、明日から学校に来る女っていうのも、悪戯してもいいってこと?」
「そりゃあそうだよ、旅芸人は皆そうだって、うちの親父が言っていた」
三人はそんなことばかりしきりに話した。
僕はそんな馬鹿な話はないと思って、何も言わずにただ黙って聞いていた。
そして何故かポン菓子屋の娘を思い出した。
ところが僕はふと一瞬、あの子が裸で踊っているところを想像して、どきりと興奮してしまい、同時にそんな自分がとても悪い人間に思えて、必死になってそれを打ち消した。
うちへ帰ると、母様が玄関口で待っておられた。
「お帰りなさい、誠一さん」
「うん、ただいま母様。あのね、とても楽しかったよ」
僕はそう言って、今日の出来事を母様に報告する。
もちろん裸踊りを見に行った三人のことは口にしかなったけれど、奥に行くと紅白の仕切りがあって、すぐに引き返したことは言っておいた。
母様は安心されたようで、笑って頭を撫でてくれた。
「母様はね、誠一さんが帰って来るまで心配で、ずっとここで待っていたのですよ」
「ありがとう母様。でも、僕そんなのなくても大丈夫だから、これからはちゃんと居間で楽にしていて」
僕はそう言って、報告を終えた。
居間に行くと、父様がお茶を飲んでおられた。
「父様、ただいま帰りました」
「おう誠一。どうだった夜店は」
「とても楽しかったです。僕、ポン菓子を買ったんです」
「ポン菓子をか。他には?」
「それだけです」
僕が言うと父様は呆れたように言った。
「他にもいいものが沢山あるだろうに」
「はい。でも、ポン菓子の機械が勇ましかったので、ずっとそこから離れられませんでした」
父様はそれを聞いて愉快そうに笑った。
「小遣いは残っているのか?」
「はい。ポン菓子しか買ってないので、ほとんど手付かずなんです」
「そうか。それじゃ、明日は俺と一緒に行こう。明日は囲碁大会に源の字が出て来やがるからな。俺も三年前の雪辱を晴らさなくちゃならん」
「明日も、行っていいのですか」
「ああ、構わない。これからも学業を真面目にがんばるならな」
「ありがとうございます。きっと僕がんばります。実は僕、まだ全部見てないから、物足りなかったんです」
そう言って僕はお礼を言った。
明日は、必ずもっと沢山のものを買おう。
いか焼きも、鼈甲飴も、杏だって買おう。
そう思うと今から楽しみで、もう今日あった嫌なことなどすっかり忘れてしまっていた。
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