繭に死す~水鏡の死・水鏡視点~

胡姫

繭に死す~水鏡の死・水鏡視点~

無人の室内は静寂が支配し、蚕のかそけき音だけがかすかに響く。


蚕の糸が好きだ。光沢のある表面は光によって虹色に輝き、柔肌を思わせるなめらかな手触りはどんな時も私を魅了する。糸は私を夢幻に誘う。よい夢よりも悪い夢の方が私には心地よい。七色の蚕の糸の一本一本には、極上の悪夢が詰まっている。


私は旅装を解かぬまま、静かにその音を聞いていた。かつて門人たちが集った水鏡塾も、今はただ蚕の気配を聞くのみである。蚕棚には無数の蚕たちがやわらかな桑の葉を食んでいる。蚕は私の分身。白い異形。司馬家での私。


「水鏡先生。お戻りですか。」


背後で私を呼ぶ声がした。振り返ると、門人の一人、崔州平が立っていた。

崔州平は高名な政治家、崔烈の子である。その気になればいくらでも仕官先はあるだろうに、門人たちが仕官先を見つけて去った後も、崔州平は官に就かずいまだここに通ってくる。毎日のように。私が不在の時も毎日訪れ、掃除や蚕の世話をしていることを私は知っていた。


「どちらへ行かれていたのですか。」


「少し山へ。龐徳公のお供をしたら、山中をさまよわされましてね。」


「…もうお戻りにならないかと思いました。」


「薬草を煮ていただけです。公と夜通し、大鍋でこう、」


両手で鍋をかきまわす真似をして見せたが、崔州平は笑わなかった。育ちの良い眉宇がなぜか曇った。


「公とどんな話を?」


「いろいろ。公は博識ですから話は尽きない。」


答えながら私は衣の紐を解いた。着替えてさっぱりしたかった。崔州平の前なら構わないだろう。私は衣をすべて脱いで身軽になると、手桶の水に手巾を浸した。崔州平の視線が肌を伝うのを感じた。彼からは時折こんな視線を感じる。入浴中や、遊び女との情事のさなかなど。


熱を帯びた視線は少し苦手だ。


「先生はここを去るのですか。」


唐突に、崔州平が問うた。


「何故そう思うのです。」


「先生が、身辺整理をなさっている気がして。」


確かに私はこの地を去る気でいた。崔州平はなかなか鋭い。


「そうですね。孔明を劉備殿に引き合わせた今、特に面白そうなこともなさそうだ。」


檀渓を越えてきた劉備玄徳の、しとどに濡れた姿が浮かんだ。彼には底知れぬ大きなものを感じた。黒目がちの瞳には吸い込まれそうな磁力があり、濡れそぼった肢体からはぞくりとさせる官能の匂いがした。意図せず男を惹きつけるタイプの男だ。私は女が好きだが男も好きだ。男が惚れる男。いろいろな意味で。


こういう男は時に番狂わせをもたらす。天が彼を生かしたことには意味がある。


「劉備殿は面白い御仁だ。彼なら大博打を打てそうな気がします。」


「天下は博打ではありません、先生。」


「博打ですよ。わずかな変化が大きな変革をもたらすこともある。だから孔明を…」


「楽しそうですね。」


崔州平に言われて、私は自分の声が弾んでいることに気づいた。徐庶を使って伏龍鳳雛の名を吹き込んだのはほんの気まぐれだったが、劉備に興味をそそられたのも否めない。彼にはなぜか私と同種の闇を感じる。


「先生も劉備殿の所へ行くのですか。」


虚を衝かれ、私は崔州平のこわばった顔を見つめた。


「まさか。私は誰にも仕えない。あの曹操にも。」


「でもここを去るのでしょう?私からも、」


僅かに震えた語尾から、崔州平は私が離れていくことを案じているのだと気づいた。私が劉備に心を奪われたと思ったのかもしれない。時々彼はこのような誤解をする。私にはそもそも奪われる心が無いことを崔州平は分かっていない。


崔州平は何故傍にいたがるのだろう。こんな空虚な男の傍にいても彼に利はない。見限って仕官先を探した方が彼にとって良いはずである。


熱のこもった視線がひりひりする。人の想いは痛い。というか理解できない。生来私に欠けたものだ。私に向けないでほしい。私は望むものを与えられない。


私は作り物の笑みを浮かべた。


「一緒に来ますか?州平。」


生きていくための知恵のようなものだった。彼を連れて行っても良い。どちらでもよいことだ。こう言えば皆満足する。崔州平もきっと。


「先生には、心が無い。」


何が起きたか分からなかった。氷のような冷たさの後、襲ってきたのは灼熱の激痛だった。




なまぬるい液体が首から下を赤く染めながらとめどなくしたたり落ちている。


からん、と音を立てて司馬家の紋が入った懐剣が床に落ちた。崔州平の手から落ちたものだ。衣の中からいつの間に抜きとったものか。


崔州平は白い顔をしていた。全ての表情が消え、諦念だけが支配した顔だった。


何故。


問おうとしたが切り裂かれた喉はひゅうひゅうと鳴るばかりで音にならない。代わりにごぼりと大量の血液が噴き上がった。崔州平の目は何も映していないようだった。よく動く表情が今は死んでいた。師である私を切り裂いた短剣を握りしめたまま、崔州平は一言も発しなかった。


何故。


天井が見え、床が見えた。視界が回っているのだ。蚕たちの蠢く棚があちらにもこちらにも見えた。蚕は私だ。白い異形のように行き場を失くしていた私が唯一友とした、私の分身。


「最後まで俺を見てくれませんでしたね。」


崔州平の言葉はもう私には聞き取れなかった。白い霧が濃くなった。視界は朦朧と白く沈み、赤い血の川だけが浮き上がって見え、凍えるような寒気が徐々に私を死へと誘いざなっていった。




私は血まみれの手を虚空に伸ばした。


物心ついたころから私は家人との間に、白い霧を隔てたような冷ややかさを感じていた。どれほど近しい者にも私は親しみというものを感じたことがなかった。周りの者の言う心を震わす感動、愛でも憎悪でも何でもよいがそうした生々しい心が私にはなかった。何故かは分からない。自分が生まれながらにして何かが抜け落ちていると自覚する頃にはもう、私の胸には回復不能な虚無がぽっかりと開いていた。


何も欲することなく、何にも手を伸ばすことない、司馬徽徳操という人の形をした何か。


私とは何者なのか。


この皮膚の下には本当に赤い血が流れているのか。


所帯を持っても空虚は変わらなかった。美女を抱いても、時には男を抱いても、心は動かなかった。いつまでたっても私は白い霧の中だった。霧の向こう側には行けない。生きている感じがしない。


生きるとは、どんなものなのだろう。


常に冷静を保つ私を周囲は人格者だと褒めた。龐徳公は私に「水鏡」の号をつけた。さざ波一つ立てぬ水鏡のようだと。鋭敏な彼はそこに波を立てるべき心が無いことを見抜いていたかも知れない。


――否、一度だけ、さざ波が立ったことがあった。


桑樹の上下で龐統と語らい、襄陽に行こうと思った時。自分から何かを行動したのはあれが最初で最後だった。死の間際に思い出すとは。やわらかな葉の間から漏れるゆったりとした声にわずかに波立った、あれが、


――あれが私の心だったのだろうか。


死にゆく瞼の裏をゆったりと鳳が舞った。私は虚空に手を伸ばした。


それは蚕糸が見せた最後の、極上の悪夢だった。




          (了)


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