繭の中~水鏡の死~

胡姫

繭の中~水鏡の死~

ずっと蚕の繭の中にいるようだった。


白い男の喉からは、赤い血の筋がいくつもいくつも流れている。温かいはずのその血はなぜか温度が感じられず、作り物のようだった。知的な美貌を持った男の死に顔はどこまでも冷たく、最後まで嘘くさい闇に満ちていた。


司馬徽徳操。


司馬徽という底なし沼のような男に会わなければ、今頃俺は人並にどこかの君主に仕え、ひとかどの官吏として生を終えていたかもしれない。諸葛亮がそう予言したように。だが今俺の手には懐剣が握られている。懐剣に刻まれた司馬家の紋には、男の濃い血がべっとりとついていた。


俺は顔を上げた。天井近くまで設えた棚一面に白い虫が蠢いている。蚕。蚕。あちらにもこちらにも蚕。


俺は懐剣を置き、室を出た。ようやく自由になると思った。




元は潁川の名士だった司馬徽が襄陽で塾を開くことになった詳しい経緯を、俺は知らない。


司馬徽は清潔な美貌と豊かな学識で人を魅了する男だった。年は五歳ほどしか違わなかったが、恐ろしく落ち着いた風貌はずっと年上に見えた。しかし底が知れないという印象を抱かせる男でもあった。何でも「好好」と受け入れるなど常人の神経とは思えない。

どこか大事な部分が壊れているのではないか。

実際司馬徽は男でも女でもお構いなしに彼を望む者すべてを受け入れた。全てを受け入れるということは何も受け入れないのと同じである。司馬徽を評し「水鏡の如し」と兄貴分である龐徳公は言った。まさしくさざ波ひとつたてぬ水鏡の如く、何にも心動かされぬ男であった。


潁川からついてきた徐庶は、司馬徽には心が無いのだと言っていた。その通りなのだろう。そんな司馬徽から俺は目が離せずにいた。


諸葛亮ら学友たちが仕官していく中、俺は誰にも仕えず司馬徽の隣に残った。仕官する気は失せていた。虚無で満ちた彼の心の内がどうなっているのか見たかった。「好好」と言わない顔を見たかった。司馬徽という男にすっかり魅せられていたのかもしれない。


誘蛾灯に吸い寄せられる羽虫とは逆に、俺は闇にこそ吸い寄せられる虫だった。


塾生が一人減り二人減り、ついに誰もいなくなっても、俺は司馬徽の隣に留まり続けた。しかしいつまでたっても司馬徽は好好の顔を崩すことはなかった。




いつかこんな日が来ることを、俺は予期していたのかもしれない。


俺は空を見上げた。室内の蚕が一斉に羽化し、無数の蛾になって飛び回る光景が見えた気がした。




何年も過ぎたころ、新緑の眩しい季節に、ある男が俺を訪ねてきた。


龐統だった。


荒れるに任されていた水鏡塾の跡地は崔家で買い取って保存していた。俺が時々ここに来ることを龐統は知っていたらしい。


酒を手にした龐統は、庭にある桑の大樹の下で飲もうと誘ってきた。桑は好きじゃないと言ったが聞かなかった。仕方なく俺は龐統と二人で桑の木陰に座った。


「劉備軍の居心地はどうだ」


「悪くない。孔明もいるしな」


劉備という主を得た龐統は以前より生き生きして見えた。水を得た魚とでもいうのか。龐統は居場所を見つけたのだろう。俺の得られなかったものだ。


水鏡塾が誇る最高の人材、伏龍鳳雛を劉備に勧めたのは司馬徽だった。檀渓から逃れた劉備を匿った話は司馬徽から聞いていた。表向き公正を装っていたが司馬徽が劉備に肩入れしていた。そういえば劉備も底知れぬものを感じさせる男だった。どこか通じるものがあったのかもしれない。人に心を動かすことのなかった司馬徽には珍しいことだった。


「今でも信じられないよ。あれからすぐ、水鏡先生が死ぬなんて」


龐統はゆったりとした口調で話し始めた。


「先生を看取ったのは崔州平、お前なんだって?どんな死に際だった?」


「別に。穏やかな死に顔だったよ」


杯が震えないよう気をつけて俺は酒を口にした。龐統の目がじっと俺を見ている。


がらんどうになった塾は俺自身のようだった。司馬徽と二人きりになったが、彼の心はそこにはなかった。司馬徽との日々は、全てを与える男が何も与えない男であることを痛感する日々だった。


やがて司馬徽は薬草採りに行く龐徳公に同行して帰ってこない日が多くなった。まるでこちらが本職だとでもいうように。蚕の蠢く暗い室内で俺は司馬徽を待った。他に行き場がなかったからだ。


その日ふらりと帰ってきた司馬徽は、いつになく晴れやかな顔をしていた。身の置き所を見つけたような顔だった。俺と居る時には見せなかった顔。言葉にしなくても、司馬徽がここを去る決心をしたことが分かった。指の間をすり抜ける水のように、司馬徽は俺のもとから去ろうとしている。


その時俺は、自分の求めているものを悟った。


「先生を殺したのは、君か」


酒杯に桑の葉が落ちた。桑の香が立った。




俺を見る龐統の目は穏やかだが、確信に満ちていた。この男は分かっている。何もかも。


「先生を留めておきたかったのか。それとも解放されたかったのか。」


俺は杯を置いた。どちらでもあり、どちらでもない。司馬徽の水鏡の如き姿が酒に映って見えた。


「水鏡のように静まり、どこにも居場所を持たない男。居場所を必要としない男。それが許せなかったのかもしれない。俺には、他に行き場がなかったから」


桑は嫌いだ。司馬徽を思い出す。絹を吐く蚕のように白い美貌を持つ男。俺をいつまでもここに留めている男。


俺に刺された瞬間すら、司馬徽は「好好」と思っただろうか。


「死体はどこにある」


俺は黙って桑の根元に視線を投げた。大樹の根元に埋まった死体は桑の栄養分となり、桑は司馬徽の血肉を吸って香り高い葉をつける。


桑は司馬徽だ。


龐統はふうっと長い吐息をついた。


「気づいているのは俺と孔明だけだ。安心してここを守りな」


ざわっと少し強い風が桑の葉の間を吹き抜けた。なまぬるいような、底冷えのするような、どこか皮膚をざわつかせる風だった。


ずっと蚕の繭の中にいるようだった。今も繭の中にいる。桑の香りが頭上から降り注ぐ。自分も蚕になったような気がする。


司馬徽が死んでも、俺はここから出られない。


「…桑樹には俺も少々思い入れがあってな」


唐突に、龐統は腰を上げた。気が済んだという顔だった。


「誰にも言わねえよ」


訪ねてきた時と同じく、龐統はふらりと立ち去った。




落鳳坡で、龐統が命を落としたと聞いたのは、それから間もなくのことだった。




         (了)




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