届かない背中 剣の杜

@Talkstand_bungeibu

第1話 届かない背中


どれだけ、強く望んでも決してかなえられない。

どれだけ追いかけても、もう決して追いつけない。

失われた。

失われてしまった。

二度と俺の目の前に姿を現すことのないその背中。




その夜、彼は目を覚ました。なんとなく居心地の悪さを感じて、枕元の細い桐箱を掴むと縁側へと足を運んだ。

時は丑三つ時。物音ひとつ聞こえることなく、少し集中すれば誰かの寝息が聞こえてきそうなくらいだった。

男は縁側の比較的明るい場所へと腰掛け、桐箱を置くとその蓋を開けた。中には白い布で結ばれた髪が一房――遺髪がおさまっていた。男は遺髪を月夜に照らし出すかのように両手に掬い上げる。

空には雲ひとつかかることなく、弧状の月が夜空を照らしている。

男は空を見上げ、三日月を茫と眺めながらうんざりしたようなため息をついた。


― 三日月はヒトの心を惑わせるのよ ―


誰もいない縁側に、彼にしか聞こえない声が響いた。

十三年前に彼女から初めて口付けされた時に、彼女が照れ隠しに言った言葉だ。


― 確かに私のほうが年下だけど、中身まで年下だとは思わないでよ ―


初めて体を重ねたときの、体に触れたさらさらとした絹のような髪の感触がまだこの手に残っている。逢瀬を重ねたときの甘くいたずらっぽさを残した声が、彼の見えない傷に爪を立てる。

懐かしく、いとおしい声と感触。あの時感じた充足感と幸福感は、いまだ彼の心奥深くに残っている。

狂おしいまでに彼女を求めようとする衝動も、まだ薄れることはない。

だが、その声の主が彼の目の前に姿を現すことはない。

男は痛みに堪えるように、手を胸にあて握り締める。皮膚が裂け、血の流れる感覚があっても手を緩めることはしない。

肉体の痛みがあれば、多少なりとも気がまぎれるのだろう。男はしばらくの間、そうしていた。

三十分ほどした頃、男はゆっくりと血の付いた手を下ろした。


「なぁ、綾姫・・・。もう10年経っちまったよ。10年だぞ、10年。俺も三十路半ば超えて、おっさん呼ばわりされる歳になっちまった。

ホント、早ぇよな・・・」


もう疲れ切った老人のような声で、男は初めて胸のうちを口に出した。


「お前のおかげで助かった二人は生意気なくらいに元気に成長してくれたよ。

俺の独り身を心配して気の利いた毒舌を吐いてくれるようになったんだぜ。ったく手前らの事、ほったらかしでよ・・・」


男は誰もいない虚空に、彼女がいるかのように語りかける。苦笑しながら、少し怒りながら、笑いながら、空との会話を続ける。

旗から見れば、非常にこっけいな姿。まさに道化としか言いようのない姿だ。

そして、男の声がふとやんだ。俯いたその顔には、深い後悔が浮かんでる。


「綾姫・・・――」


男の脳裏に浮かぶのは、彼女の最後の姿。彼に背を向け美しい髪を振り乱し、刀を構え別れの言葉を口にする姿。


「俺は――」


今でも男は考える。あの時もっと力があれば、彼の元にいる二人だけでなく、彼女を救えるだけの力が自分にあれば、と。

戦場に、『たら』『れば』はありえない。そんなことは、ずっと幼いころから叩き込まれていた。

だけど、それでもあの時もっと力があれば、望むものすべてを守ることが出来たのにと考えてしまう。


「俺は――」


―― オマエヲシアワセニシテヤレナカッタ ――


自身も重傷を負いながら、必死の思いで戻ってきて目にしたのは彼女の亡骸だった。

初め見たときは信じられなかった。死んでいるにしてはあまりにも綺麗過ぎた。

手足も欠けることなく、衣服が切り裂かれている様子もなく、まるで眠っているかのような穏やかな表情。

彼女の周囲には襲撃者たちの骸が横たわり、その中に彼女の血が混じっているなんて思いもしなかった。

彼女のちょうど心臓の真上に咲いた、深紅の薔薇を見るまでは。

それは男にとっての悪夢。10年経った今でも、彼を苛む最悪の悪夢だ。

だが男はその悪夢を力に変えた。彼女を失ったことで空いてしまった心の穴に、別のものを埋め込んだ。男は自分の腰まで伸びた黒々とした髪に触れると、ため息を吐いた。


「俺がお前にしてやれることは、もう何も残っちゃいない。残っていた復讐もついこの間、終わりを告げたよ。願掛けで伸ばした髪も、お前と同じくらいになっちまった」


すっと指で己の髪を指で梳いて、自嘲の笑みを浮かべる。


「願いはかなったんだから、この髪もあの頃位に短くしてもいいんだろうけどさ、どうにもそんな気になれねぇんだ。なんだろうな、どうやら俺はこの髪が気に入っちまってるみたいでな。氣を通せば武器にもなるし、何よりもこの姿の俺を外道どもは恐れてくれている」


男は血に濡れた右手を眼前に持ち上げる。


「夜叉白龍、裏世界じゃそんな風に呼ばれているよ。だけど、これでいい。外道を震え上がらせるのが俺の仕事だ、そのためならどんな姿だろうとも――」


瞳にいくばくかの狂気を孕ませながらそうつぶやく。だが、それも一瞬の事。狂気は消え、また抜け殻のような表情に戻っていく。伸ばした髪はもはや願掛けなどではなく、呪縛そのもの。男を外道を切り捨てる狂気に駆り立てる呪いでしかないのかもしれない。


「さてと、今日はこのくらいにしてもう一度寝るか…」


男は遺髪を桐箱に大切に戻すと男は立ち上がり寝所に歩いて行く。

女が髪に託した想いは成し遂げられず、男が髪に掛けた願いは歪められた。それでも、男は剣を振るうだろう。己が存在意義を証明していくために。

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