第14話 昨日とは違う空


 夜勤を終えた雅司は、空を見上げていた。


 ――雲一つない、真っ青な秋の空を。





「笑ってる」


 雅司を見て、自然と出た言葉。


「変だったかな」


「ううん、そんなことない。そうじゃなくてね、その……いつもの雅司に戻ったなって思って」


「そんなに違ってたか? と言うか俺、ひょっとして笑顔になってなかったか? そんな風に言われたら、心配になってきたぞ」


「あれは作り笑顔でしょ。それぐらい分かるわよ」


「……うまくやれてると思ってたんだけどな」


「落ち込まない落ち込まない。でも今の雅司、本当に自然な笑顔よ」


「そうか?」


「ええ。それに柄にもなく、空なんか見上げちゃって。何かいい感じ」


「何かって、何だよそれ」


「ふふっ。でも本当、いい顔よ」


「……いつも感じることなんだ。同じ空の筈なのに、出勤の前と後では、こんなに違って見えるんだなって」


 その言葉、少し詩的だと思った。


「だからかな。入りの時と明けの時、空を見るのが癖になってるんだ。そしていつも思う。昨日の空も、こんなに綺麗だったかなって」


「いつもは足元しか見てないのにね」


「違いない、ははっ」





 駅前のファストフード店に入った二人。

 雅司が無造作に、ハンバーガーを口に放り込む。二つ分、あっと言う間の食事だった。

 私の料理の時と全然違う、そうノゾミは思った。


「とりあえず、俺の職場はあんな感じだ。感想は?」


「あれでも落ち着いてる方なのよね」


「ああ。佐藤さんが怒鳴る回数も少なかったし、渡辺さんの訴えにしたって、いつもの半分ぐらいだった。ひどい時はあの人、寝ずに訴えてくるから。殴りかかってくることもある」


「そうなんだ……でも、昨日の状態をマシって言ってることが、そもそもおかしいって思わない?」


「施設なんて、大体こんなもんだよ。特に認知症の施設は」


「食事の時だって、この人が立って、座ったと思ったらあの人が立って。私にはとても無理だわ」


「モグラ叩きみたいだったろ?」


「え?」


「ほら、ゲームセンターにあるモグラ叩き。食事の時、いつもあれみたいだって思ってる」


「何よそれ、ひどい例えね」


「ははっ、そうだな、悪い悪い」





「佐藤さんの服、見つかったの?」


「ん? ああ、あれね。服がなくなったってやつ」


「あなた、朝になったら調べるって言ってたでしょ」


「あれはな、あの人の記憶違いなんだ。服は全部揃ってる」


「……」


「あの人が言ってた服、と言うか記憶ってのが、そもそもいつの物なのかも分からない。ひょっとしたら、何十年も前の記憶なのかもしれない」


「そんな」


「でも佐藤さんにしてみれば、その記憶こそが正しいんだ。だからなくなってると思い込む」


「記憶違い、分かってもらおうとはしないの?」


「無理だな。だって佐藤さんからしてみれば、あることが真実なんだ。それを否定しても、怒らせるだけだ」


「でも、そのせいであなたが罵倒される訳じゃない。泥棒扱いまでされて」


「経験の少ないスタッフだと、今のノゾミみたいに感じて、つい正論をぶつけてしまう。あなたが言ってる服は、元々ありません。勘違いですよって。でもそれは、認知症を理解してない人がやってしまう失敗なんだ。

 誰だって、自分を否定されるのは嫌だろ? 認知症に正論をぶつけるってのは、そういうことなんだ」


「ならせめて、泥棒のことだけでも」


「俺もな、この業界に入った頃は色々試してみたんだ。そして気付いた。

 どこの施設でも、泥棒騒ぎってのは必ず起こる。どう対処すべきか、初めは分からなくて大変だった。泥棒なんていません、何も盗まれてませんよ、そう言って益々怒らせたこともある。

 泥棒騒ぎへの一番の対処法はな、静観、放置なんだ」


「……」


「何をしても無駄だった。説明しようが、家族に説得してもらおうが駄目だった。

 だってそうだろ? それがその人にとっての真実なんだから。そして、その対応に時間をかければかけるほど、その問題が利用者さんの脳に刻まれていく。何より怖いのは、他の利用者さんにも伝染することだ。そうなったら大変だ。みんなが疑心暗鬼になって、犯人探しが始まる。そんな状態が何か月も続く。

 そうならない為の静観なんだ。訴えがあればその都度聞く。否定もしない。それを繰り返して、利用者がそのことに執着しないようになるのを待つ」


「でもそれは、あなたがずっと罵倒されるってことじゃない。昨日も思ってた。なんで言い返さないんだって」


「あれが一番いい対応だからだよ。反論すれば、そこで新しい不安や不満が生まれる。そうすると、どんどん怒りが増幅して終わらなくなる。

 だから黙って、全てを受け入れる。相手の怒りが治まるのを待つ。人間が怒りの感情を保てるのは5分、その時間ひたすらに耐える。まあ、認知症にそれが当てはまるかは分からないがな」


「……」


「別の方法、ひょっとしたらあるのかもしれない。優秀なヘルパーで、それを知ってるやつがいるかもしれない。なら俺もやってみるんだけどな」


 そう言って笑顔を見せる。




 何笑ってるのよ。あなたのことを言ってるのよ。

 あなたが心配で言ってるのに、なんでそこで笑えるのよ。そう思った。



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