第2章 魂と思惑

第4話 再会


 目覚めると昼過ぎだった。





 気だるそうに起き上がり、洗面所に向かう。

 鏡を見ると、死人のような顔が映っていた。


「……」


 蛇口をひねり、乱暴に顔を洗う。




 ソファーに座り、煙草に火をつけて。

 昨夜のことを思い返す。


 夜勤明け。

 帰ってからシャワーを浴び、風俗に向かった。

 人生最後の快楽に身を委ね、そして夜が来るのを待った。


 雑居ビルの屋上で。


 それが全て、夢だったとしたら?

 そう思うのも仕方なかった。

 12連勤で、心も体も疲れ切っていたのだから。

 悪魔と契約。そんな馬鹿げた夢を見たとしても、別におかしくない。

 だが。夢だろうが現実だろうが。

 自分がまだ生きてることに、強烈な違和感を感じた。


 空は曇っていた。予報だと、昼過ぎから雨らしい。

 雨の夜に飛び降りるのも悪くない、そう思った。


 その時、インターホンが鳴った。

 モニターに映る人物。

 その姿に固まる。


「……マジかよ」


 煙草を揉み消し、慌てて玄関に向かう。

 扉を開けると、そこには昨日の悪魔、ノゾミが立っていた。


「こんにちは、雅司」


 大きな袋をいくつも持ったノゾミが、そう言って笑顔を見せた。


「……マジかよ」


 雅司がもう一度、そうつぶやいた。


「マジって、どういう意味かしら。まあいいわ、入っていい?」


「あ、ああ、入ってくれ」


 昨日の出来事が夢じゃなかったこと。

 ノゾミが家に押しかけて来たこと。

 その事実に動揺しつつ、中に案内する。


「重かったー」


 リビングで袋を下ろしたノゾミが、そう言ってソファーに座り込んだ。


「これだけの荷物、大変だったろうに」


「でも、雨が降る前に着けてよかったわ」


「確かにそうだな……あ」


 外を見ると、雨が降り出していた。


「ぎりぎりセーフだったみたいね」


「とにかく……お疲れ。コーヒーでも入れようか」


「ありがとう、お願いするわ。ミルクはなし、砂糖多めで」


「了解」


 飾らない物言いに苦笑する。


「それで? 色々聞きたいことはあるんだが、まずその荷物は何なんだ?」


 カップを手渡した雅司が、テーブルを挟んで向かいに座った。

 昨夜も思った通り、本当に綺麗な女だ。長い黒髪に白い肌、大きな瞳に小さな唇。どのパーツも、男を魅了するには十分だった。


 しかしひとつだけ、昨夜の印象と違っていることがあった。身長だ。

 昨夜ノゾミと会った時、自分と同じぐらいに感じていた。だが今目の前にいるノゾミは、自分よりも頭ひとつ分小柄だった。

 悪魔としてのオーラが全開だったせいで、大きく見えていたのかもしれない。そう思うと納得出来た。


「何って、私のに決まってるじゃない」


「いや、決まってるって言われても困るんだが。どういうことだ?」


「だから、ここに住むのに必要な荷物よ。自分の物ぐらい、自分で用意するのは当然でしょ」


 その言葉に、雅司がコーヒーを吹き出した。


「ちょ、ちょっと、どうしたのよ。ほら、これで口、拭きなさい」


 咳き込む雅司に、ノゾミがハンカチを手渡す。


「す、すまん……げほっ、げほっ」


「ほらほら喋らないの。落ち着きなさいって」


 雅司の隣に座ったノゾミが、そう言って背中をさする。


「どう? 落ち着いた?」


「……あ、ああ、もう大丈夫だ、ありがとう」


 そう言って息を整え、ゆっくりとコーヒーを口に含む。


「ここに住むつもりなのか」


「当然でしょ。昨日の契約、忘れたのかしら」


「忘れちゃいないが。と言うか昨日のあれ、やっぱり夢じゃなかったのか」


「夢って……あなたねえ、あれだけ大見得おおみえ切っておいて、今更それはないんじゃない?」


「悪い悪い、そういうつもりじゃないんだ。ただあれが現実だったのか、一発睡眠を挟んだら曖昧になってな」


「まあそうね。悪魔と契約だなんて、御伽噺おとぎばなしとしか思えないもの」


 そう言って、雅司の顔を覗き込む。

 こいつ、距離感がおかしくないか? そう思い困惑する。


「でも夢じゃない。あなたは昨日、私と契約した」


 その言葉の重みに、雅司がゆっくりうなずく。


「私があなたを愛する。それが成された時、あなたの魂は私の物となる」


「そうだったな」


「契約が成立した時点で、私たちの魂は結ばれた。取り消すことも変更することも出来ない」


「そうなんだ」


「そうよ。契約は絶対なんだから」


「契約とあんたが来たこと、結びつかないんだが」


「一緒に暮らす為に決まってるじゃない」


 何を言ってるのかしら。そう言わんばかりの呆れた顔を向ける。


「いやいや、何も一緒に暮らすことはないだろう」


「この方がいいって、先輩に言われたの。恋愛関係を構築するには、これが一番だって」


「先輩にか」


「ええ、そうよ」


 そう言って満面の笑みを向ける。

 本当に可愛いな、こいつ。


「……まあ、俺の方は問題ない。部屋も余ってるし、好きに使って構わないよ」


「そう? ありがとう」


「でも、あんたはいいのか? 契約の為とは言え、あんたみたいな若い女が、男の家に一人で」


「まず」


 雅司に人差し指を向ける。


「そのあんたっての、やめてもらっていいかしら。私はノゾミ。あんたじゃない」


「いや、そんなことよりあんたは」


「ノゾミ」


「……ノゾミ」


「何かしら」


 そう言って、満足そうに微笑む。


「ノゾミは大丈夫なのか? いくら悪魔とは言え、俺も男なんだぞ。ノゾミみたいな若い女が」


「私、あなたが思ってるよりずっと年上だから」


「年上、ね」


 見た目は20代前半なんだよな、との言葉を飲み込む。


「心配しなくていいわ。これからずっと、私が傍にいてあげるから。家事もまかせて。こう見えて得意なんだから」


「家政婦が欲しい訳じゃないんだが」


「いいからまかせなさいって。悪いって思うんだったら契約の為、頑張って頂戴」


 何かおかしい。この女、何か勘違いしてる。

 そんな疑念がよぎったが、とりあえず後回しにしよう、そう思った。


「それで? 何を持って来たんだ?」


「色々あるけど、ほとんど服かしら」


「そんなにいらないだろう、服なんて」


「女には必要なの。それに雅司だって、色んな私が見れて楽しいでしょ」


「そんな物かな」


「そういう物なの」


「まあ……いいか、分かった。じゃあよろしくな、ノゾミ」


 そう言って、ノゾミの手に自分の手を重ねた。


「ひゃんっ!」


「……え?」


 ノゾミの反応に、雅司が慌てて手を引っ込めた。ノゾミは両手で顔を隠し、身をよじらせていた。


「お前……まさかとは思うが」


「言わないで言わないで」


「いいや、言わせてもらう。もしかしなくてもお前、こういう経験、全くないんじゃないか?」


 ノゾミは益々身をよじらせ、耳まで赤くして声を上げた。


「そんなこと、そんなことないから! 私はエリートなの! 男の一人や二人、何てことないんだから!」


 声を震わせ叫ぶノゾミ。彼女を冷めた目で見つめながら、


「分かった分かった。コーヒーのおかわり、入れるな」


 そう言ってカップを取った。


「……その言い方、全然分かってないよね」


「そんなことないさ。経験豊富なノゾミ様が、好感度を上げる為にあえてそういう反応をした。だろ?」


「……馬鹿にされてるとしか思えないんだけど」


「ははっ。ほら、コーヒーのおかわり、どうぞ」


 そう言ってカップを置き、微笑んだ。

 ノゾミは口をとがらせて、


「ええそうよ、作戦通りなんだから」


 そう言ってコーヒーを一気に飲んだ。


「熱っ……」



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