おとぎばなしの続き

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001


 こんな話を聞いたことがある。

 止まない降雪によって厳しい寒さが続くとある冬の夜、一人の大富豪が、彼の邸宅の前で座り込む一人の乞食を発見した。

 見れば、乞食の年は富豪自身とそう変わらないようだ。中年から老年に差し掛かる頃だろうか、彼はその一人の乞食のことを素直に哀れに思った。

 乞食を犬か何かのように払いのけようとするドアマンを制止し、柔らかい雪が沈むように降っている車外へ出て、どうしてここにいるのか、と問いかけた。

 ――どうしてって、どこにも行くところがないからです。ここなら、門の前に掛かっている街灯の明かりだけでも暖かい。この家は立派ですからね。

 富豪は乞食の身なりを確認し、毛布の一つも持っていないのか、と聞いた。

 ――ええ。ありません。一枚でもあれば、どれほど楽でしょう。

 それを聞いて、富豪は頷き言った。一枚の毛布でそれほど助かるというのなら私が持ってこよう、と。

 乞食は瞬間、驚いて富豪を見上げた。追い払われるだろうと思っていたのに、この男は邸宅の軒先に乞食がいることを許したばかりか、一枚の毛布を恵んでやろうと言っている。乞食は震える声で返事をした。

 ――お願いします。

 しかし、富豪が、乞食の元に帰ることはなかった。

 富豪は、決して嘘を吐いたわけではない。扉を閉めるその直前までは、自分の館の前で汚らしく座り込む一人の乞食のことを真に哀れに思っていたのだ。

 しかし、彼の人生には、考えるべきこと、優先すべきこと、美しいことや重要なことが、無数に溢れていた。

 玄関の扉を開ければセピア色の柔らかいキャンドルの光に迎えられ、姑と喧嘩をしたらしい赤い目をした妻が胸に飛び込んでくる。部下からの緊急の電話に指示を飛ばしたあと、寒さに震える指先を暖めようと広間へ向かえば、三十分も娘から愚痴を聞かされた。

 全てが片付いた後の暖炉の前で、自身のほんのわずかにかじかんだ指先を揉み暖める間に、哀れな乞食のことは小さな雪だるまのように富豪の脳内から溶け消え、そして綺麗さっぱり忘れてしまった。

 富豪には、愛されるべき気の良さがあり、その代わりのように注意深さが欠けていた。彼の幸福な人生の中では、一種の愛嬌ともいえたその軽薄さが、一人の人間の魂の支えを奪ってしまった。翌日、乞食は富豪の家の前で、毛布を待ちながら死んだ。

 ――僕は、この話が暗示している世界の真理に心当たりがある。

 幸福な人間には、どん底の人間の気持ちなど分からない。満ち足りている人間が、今日死ぬかもしれない人間と同じ真剣さで時間を使うことはできない。

 富豪には、どうして乞食がその夜に限って死んだのか、きっと最後まで分からなかっただろう。

 たとえ彼らがどれほど、心の底からの善人で、清らかな泉をその心に持っているとしても。



 そして、僕の話だ。

 旧市街においては、建物と建物の間にある子どもがようやっと一人入れるほどの極僅かな隙間だけが、乞食に許される寝所だった。

 僕は親の顔を見たことがない。兄と呼んでいる人は何人かいたが、今思い返せば血の繋がった実の兄とも思えない。物心がついたときにはすでに、右側が花屋で左側が服屋の隙間に、毛布を敷いて暮らしていた。

 ――せめて左右のどちらかだけでも、食べ物を取り扱う店だったならよかったのに。

 寒さが長らく続き、食糧難の冬だった。平民が飢えるほどの厳しさではないものの、家を持たない路上生活者の中からは少しずつ餓死者が出ていた。死の足音が自分の近くにまで忍び寄っていることを、幼いながら僕は理解できていたと思う。

 兄たちの数も、通行人から恵まれる食料の量も、目に見えて減っていた。死が間近に迫っているのを感じていたその頃、旧市街の再整備があるから乞食は一度街を離れたほうがいいという噂を耳にした。歩くことができればそうしただろうが、もはや立ち上がる気力さえ残っていなかった。

 だからもしもあの日、僕にとっての《富豪》に出会うことがなかったら、その冬のうちに僕は死んでいただろう。

 ――パンがあればいいんだね? それだけで助かるんだね?

 そうだ、パンさえあればいい、と僕は返事をした。思えばあれが、彼に対して主従の関係をわきまえず口を利いた最初で最後の機会だった。

 そして、今日に至る。



「探したよ」

 振り返れば、十年以上前に彼にパンを差し出した主がそこにいた。返事をするために騎士の礼を取ろうとしたが、そうする前に腕を組まれてしまう。いつも、こちらが取ろうとする礼儀を先んじて封じてくるような人なのだ。

 ――変わらず屈託ない人だ。

 どう育てられればこのように笑うようになるのだろうと不思議に思うほど、柔らかく、日溜りを宿したような表情をする。あの日も、そしてあれから随分時が経ち互いに成人した今となっても。

「今日は良い知らせがあるんだ」

「いつも、良い知らせばかりお持ちですね」

「最高だろ? ――でも、今日のは格別だ。実は、君にウィンストン家の養子になってもらおうかと思って」

「……冗談でしょう?」

 ウィンストン家は、主人の家から分家した傍流の更に遠縁の――とにかく遠くはあるが、主人と血筋の繋がりある子爵の家だった。大した力があるわけではないが、どれほど弱小だろうと没落していようと、貴族の家だ。

「なんで? 騎士として生きるなら、いつかはそうしなくちゃいけないだろ。まあもう少し先でもよかったけど、でもずっとこうしたいと思っていたんだ。だから言いたいことは一つだよ」

 僕が返事を出来ないままでいる間に、主人は完璧な笑顔を作っている。

「きみに爵位を与えよう」

 本来ならば喜んで受けるべき主人からの申し出にどう返事をしたものか迷った末、結局僕は首を振った。

「……あれ、もっと他の家が良かった?」

「いいえ。でも、もし望めるなら、僕にはなんにも与えないでくれませんか」

 主人は苦笑いを浮かべた。

「相変わらず気難しいね。別に、俺の家のことが嫌いってわけじゃないんだろう?」

「……」

 この若き主人に、例の説話を語るべきだろうか。嫌味っぽくなるだろうし、失望を押し付けることになるのかもしれない。

 続く沈黙を何かの肯定と捉えたのか、主人はもう一度笑った。

「嫌いじゃないなら、いいじゃない。初めて会った時はパンだけで助かるって言ってたけど、さすがにもう少し大きい報酬が必要だろう?」

「パンを頂けたことが、一つの奇跡でした」

 ぷっ、と主人が噴き出すように笑う。飽きれた顔の一つぐらいは許されるだろうと顔を顰めれば、ごめんごめん、と目を細められる。

「……いや、僕らの出会いについて、随分と運命的なもののように語ってくれるんだね」

「あの日あの場所で出会えたことも、たしかに類稀なることでしたが――どちらかというと、わたしにパンを与えるのをお忘れにならなかったことが、一つの奇跡です」

 どういうこと? と首をかしげる主人に、結局僕はあの説話を語った。

 十数年前の幼い主人は、例の富豪よりも的確な記憶力と行動力を持っていた。だから僕は助かったわけだが、それでも、互いの間にあるはずの深い溝のことを忘れたことはない。

「この話を初めて聞いた時、思ったんです。富豪はきっと、乞食がどうして死んだのか分からなかったんだろうな、って」

「……どうして?」

 あの夜、その乞食は死んだ。

 その日の寒さが格別酷かったというわけではない。もっともっと酷い夜を残り超えていたはずの乞食の身体は、いや、精神は、魂は、与えられた救いに縋り、そしてその希望の炎が消え去るのと同時に崩れ果て、それが彼を絶命に至らしめた。

 希望を与えられてから、吹き消された。キャンドルに灯された炎は、守られず風の中で消えてしまった。一度あげると約束された林檎は二度と実ることがなく、枯れ木の前で死にゆかなければならなかった人。

 僕はその乞食の気持ちが、どうしようもなく、よく分かる。

「助けていただいた身でありながらこう言うのもなんですが、この話の乞食の気持ちは分かるのです」

「思うに――その主人はさ、すぐに使用人か誰かに言いつけるべきだったよね。毛布を持って行ってやれって。忘れそうなことは、いの一番にするべきなんだ」

「いいえ、これはそういう教訓の話ではないように思っています」

「そう? 僕はそういう風に受け取ったな」

 物忘れは人を殺してしまうことがある――そんな風に素直な形で、この物語の教訓を受け取ることは僕にはできそうになかった。であればやはり、これは富豪と乞食との理解しえない壁を象徴しているのだろう。

 爵位の件は辞退しよう。そう思い口を開く前に、主人が思いついたようにぽつりと言った。

「もしくは、約束なんてしてはいけなかったよね」

「…………え?」

「そのお金持ちさん。出来ないことを、出来るなんて言うからよくないんだ。無言で家に戻ってから、覚えていれば毛布を届けさせる――それでも良かったわけだろ? 目の前の、自分と同じぐらいの年の人に、前払いで感謝してもらいたかったのかもしれないし、まあ何も考えてなかったのかもしれないけど……」

「それはつまり……」

「望んでもいなかった希望を一度示されて、それが叶わなかったのなら、心が折れても当然だ」

 主人が、施しの『受け取り手』である乞食の気持ちをどうやら理解しているようだということが、僕に結構な衝撃を与えた。有能で、明るくて、朗らかで、屈託ない性格の主人だと思っていた。そういう人物は、乞食の内面を窺うことなどできないはずだ。

「……何、びっくりしてるの?」

「いえ。ご慧眼に驚いておりました」

「ほんとに? 信じられないなあ」

 だからさ、と、主人は言葉を続ける。

「ちょっとは信じて欲しいんだ。ウィンストン家の養子にするのだって、絶対できる、大丈夫だ、ってところまで進めたから、今日こうして君に吉報を届けることができているんだから」

「…………それは」

 あの日拾われてからというもの、今日までに幾多の機会を授けられてきた。使用人室から個室への移動、騎士団への入団受験資格、そして今日の爵位の話。どれ一つとっても、主人は丁寧に僕に確実に褒美を授けてみせた。

「そもそもね、拾った犬は最後まで面倒みないといけないだろ。途中で放り出したら、泣いた目のまま、パンを待って死んでしまうかもしれないじゃないか」

「……乞食の気持ちがお分かりになりますか?」

「そこは分かるさ。でも、この話を『金持ちには期待するな』って文脈で曲解して受け取ってる君のことについては、よく分からないね」

 僕は、説話の中の乞食と、目の前の主人について考えた。この人がこの十年以上もの間、どういう人間であったのかを、思い出そうとしていた。苦笑いしたくなるような思い出も多いが、とても運のいい幸福な暮らしだったことを否定することはできない。

「で、来週ウィンストンの家に行こうと思ってるけど、一緒に来てくれるってことでいいんだね?」

「……はい、まあ」

「もう少し喜んだ顔をしてほしいものだなあ」

 それだけ言ったら主人は満足したようで、くるりと背を向けて邸宅のほうへ帰っていく。途中で伸びをして立ち止まり、南の空に浮かぶうろこ雲をぼんやり見つめ続けている。午後の予定はどうなっていただろうか。随分長い間庭に立っていたからか、僕は不意に寒気を感じて身体を震わせた。外套を羽織っていない主人の後姿をもう一度見守っているうちに、どうやら隣に来てほしそうだということにようやく気が付いた。

 僕は右足から歩き始めた。



<了>

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