フェミホス
石橋清孝
第1話 ホストの研究
店内は、夜のワクワク感でいっぱいだった。一角のテーブルでは、ホストが一人の女性の肩に優しく手を回し、彼女の話に真剣に耳を傾けていた。彼女の笑顔は、彼の注意深いリアクションによって一層、輝いている。彼の優しさに満ちた目つきは、彼女を特別な存在にしているように見えた。
店の別の場所では、若手のホストが一群の女性たちを取り囲み、トランプゲームで盛り上がっていた。テーブルにはカードが散乱し、時折、爆笑や歓声が上がる。ゲームに勝った女性は、得意満面の表情で、ホストたちから褒め称えられていた。その笑顔は、夜の輝きを一層、増している。
バーカウンターでは、ホストたちが高価なシャンパンを次々と開け、勢いよく注がれる泡がグラスから、あふれんばかりだった。彼らは姫への感謝の言葉を叫び、店全体に活気をもたらしていた。姫たちは、その華やかな演出に心を奪われ、歓喜の声を上げていた。
そして、店の中央には、ホストたちが輪になり、一人の女性客を囲んでシャンパンコールをしていた。彼らはリズムよく拍手を打ち、女性の名前を呼びながら、彼女をチャンピオンのように祝福している。その女性は、まるでスターのように輝いており、ホストたちの称賛に照れくさそうに笑っていた。
こうした光景は、このホストクラブの日常だった。店内では、笑い声と音楽が交錯し、夜が更けるにつれ、喜びと興奮が増していく。
東京の煌びやかな夜景の中、一際目立つホストクラブの扉を、二十代半ばの女性、杉本美紀が静かに開けた。彼女のロングヘアは後ろできれいに束ねられ、その服装は昼間のオフィス街から、そのまま歩いてきたようだった。彼女の眼差しは冷静で、店内を注意深く観察しながら入ってきた。
若いホストが笑顔で迎え、彼女を一つのテーブルに案内した。美紀はメニューを手に取り、最も安い酒を一杯注文した。ホストは軽いトーンで尋ねた。
「こういうお店は、初めてですか?」
「研究のために来ました」と、美紀は落ち着いた声で答えた。
ホストは驚きの表情を隠せずにいたが、すぐに質問を続けた。「どんな研究を?」
「大学院でフェミニズムを研究しています」と美紀が答えると、ホストは少し戸惑いを見せた。「フェミニズム……何すかそれ?」
この質問に美紀は少し笑みを浮かべ、「男女平等を目指す思想です。例えば、女性がツケを払えなくなったとき、あなたは、どんな対応をしますか?」と逆質問した。
若いホストは、しどろもどろになり、「えっと、その……俺たちは、そういったことには関わらないんですが……」と答えた。そんな彼の様子を見ていた、ベテランホストが近づいてきた。彼の源氏名は「龍彦」。落ち着いた風格を持つ彼は、状況を把握し、話に加わった。
「失礼します、私は龍彦と申します。フェミニズムについては詳しくないのですが、教えていただければと思います」と、彼は美紀に向けて言った。
「フェミニズムは、女性が社会で平等に扱われることを目指す学問です。例えば、このホストクラブでの女性の扱いについて、どう思いますか?」と、美紀は質問を返した。
龍彦は少し考え込んだ後、「私たちは批判もされていますが、ここでお客様に最高のおもてなしをすることに誇りを持っています。この仕事が歌舞伎町の外にも影響を与えているとは正直、考えてもみませんでした」と答えた。
美紀は、龍彦の誠実さに好感を持ち、二人の間で意義深い対話が始まった。
昼下がりの大学院の静かな研究室で、美紀は雑用に追われていた。彼女の指導教授はフェミニズム研究の第一人者である。美紀は彼の研究室で資料の整理やデータ入力を行っていたが、その日も例外ではなかった。
彼女が机に向かって作業していると、スマホが振動した。画面に表示されたのは、いつかホストクラブで出会った龍彦からのメッセージだった。「美紀さん。あの後、フェミニズムの本を読んでみました。色々と考えさせられる内容でした」
美紀は、驚きを隠せなかった。彼女は龍彦に軽い気持ちでフェミニズムの入門書を勧めていたが、彼が本当に読んでくれるとは思っていなかった。彼の真剣な姿勢に、少し戸惑いを感じた。これは、ただの営業トークなのだろうか。なぜ太客でもない自分のために、そこまでしてくれるだろうか。
その疑問を、沢木教授に相談することにした。美紀は彼の大きなデスクの前に立ち、「教授。ホストクラブでの出来事なんですが……」と切り出した。彼女は龍彦からのメッセージと、彼が教授の本を読んだことを伝えた。
沢木教授は、興味深そうに眉をひそめた。「それは面白いな。ホストクラブとフェミニズムか」彼は一瞬、考え込んだ後、「もう一度、そのホストクラブに行ってみたらどうだろう。研究費は出す。ホストクラブの中でフェミニズムが、どう受け取られるのか、具体的に調べてみてほしい」と言った。
研究費という言葉に少し驚いたが、美紀にとっては願ってもない話だ。彼女は沢木教授に感謝を伝えて、研究室を後にした。
その日の夜、美紀は再び歌舞伎町のホストクラブへと足を運んだ。
美紀は二度目の来店で、堂々とホストクラブの奥深くへと歩みを進めた。今夜、彼女は龍彦を正式に指名することに決めていた。彼は彼女の担当となり、これからは他のホストには乗り換えることは許されないというルールだった。
店内は賑やかで、若いホストと夜の仕事をしていそうな女性客たちが、軽い話題で盛り上がっていた。彼らのテーブルからは、笑い声や歓声が絶え間なく聞こえてきた。しかし、美紀と龍彦のテーブルの雰囲気は、まるで異なっていた。
龍彦は謙虚な姿勢で、美紀が話すフェミニズムについての考えを真剣に聞き入れていた。「ホストとしてフェミニズムを、どう思われましたか?」と美紀が尋ねると、龍彦はじっくりと考え込んでから答えた。
「女性のお客様が快適に過ごせる環境を作ることが、私たちの仕事です。それは、フェミニズムにも通じるものではないでしょうか?」
美紀は龍彦の真摯な態度に感心しながら、他の姫たちとは異なる自分の位置を少し楽しんでいた。そして、彼女は思い切って、高級なシャンパンを注文した。彼女の注文が伝えられると、店内には拍手と歓声が響き渡った。ホストたちは一斉に立ち上がり、美紀を中心にして、シャンパンコールを始めた。
美紀は、その場の華やかな雰囲気に少し圧倒されながらも、他の姫たちが感じるであろう優越感を味わっていた。シャンパンの泡が彼女のグラスに注がれ、周りの目が彼女に注がれた。龍彦は彼女の側で、控えめながらも誇らしげな笑みを浮かべていた。
美紀は、沢木教授の研究室に緊張した面持ちで足を踏み入れた。重厚な書棚に囲まれた部屋で、彼女は教授の厳しい表情に直面していた。
「杉本さん。あなたが請求した研究費についてなのだが……」と沢木教授が切り出した。彼の目は真剣そのもので、美紀は彼の言葉に胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
「私は、あなたに研究調査をしてくるように指示したが、ホストクラブで遊んでこいとは言っていない。あなたが請求した金額は、常識的な範囲を超えている」沢木教授の声は冷静で、しかし非情に響いた。
「研究費として支払えるのは、その一部だけです。残りの金額は、あなた自身で返済してください」教授の言葉に、美紀の心は重く沈んだ。
美紀は困惑と不安でいっぱいだった。彼女がしている家庭教師のアルバイトでは、その巨額の返済は不可能に近かった。返済計画を、どう立てればいいのか、頭の中は混乱でいっぱいだった。
研究室を後にした美紀は、深い途方に暮れながら龍彦に連絡を取ることに決めた。彼なら何か良いアイドバイスをくれるかもしれないと思ったからだ。彼女はスマホを取り出し、震える手で龍彦にメッセージを送った。
「龍彦さん。私、困っています。研究費の請求が高すぎると言われ、残りを自分で返済しなければいけないんです。どうしたらいいでしょうか……」
送信ボタンを押した後、美紀は不安で胸がいっぱいになり、涙がこぼれそうになった。彼女は、これからどうすればいいのか、答えを見つけるために必死に考えていた。龍彦からの返信を待つ間、彼女は深く息を吸い込み、不安を抱えたまま夜の街を歩いた。
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