第37話 波乱の予感
エレオノールが去った後、「カフェ・カタリナ」には平和が訪れた。
「カフェ・ベルトラ」に流れていたお客さんが、あちらが閉店したことで戻ってきてくれたのは、とにかく経営者としてありがたいことだった。
様々な心理的負担がなくなり、日々が穏やかに過ぎていく。
エレオノールが南部地方に去ったので、私はなるべく社交界に出入りするようにしようと思った。
この世界の舞踏会は開始時間が割と遅めである。主催者によって異なるものの、夜の九時や十時に始まり、お開きになるのが夜一時というところが多い。
お茶会だとマドレーヌとメアリーが揃っているシフトの日じゃないとむずかしいので、まず手始めに舞踏会に参加するのがいいだろう。
前にリオネル様が紹介してくださったマルモット伯爵邸では、お茶会のケーキを「カフェ・カタリナ」に依頼してもらった。
店舗に毎日、高価なケーキを置くのはむずかしいけれど、貴族の屋敷のお茶会なら話は別……ホールで作ったほうが利益率も高い。
華やかなデコレーションケーキを製作するのは、製菓学校に行っていた私にとって腕の見せ所だ。結婚式やお茶会、晩餐会のデザートなど、貴族の屋敷には様々なビジネスチャンスが転がっている。
そうした機会を得るには、もっと社交の場に行って貴婦人たちに顔を覚えてもらわないと!
閉店後の店内の床をほうきで掃いているマドレーヌにその計画を話したら、彼女も快く賛成してくれた。
「すごい! カタリナお嬢様しかできない活動ですわ。お嬢様が多忙な時は私が管理業務をやりますから、じゃんじゃん大口顧客を掴んできてください!」
「ありがとう。世話をかけるわね」
「その代わり、ボーナスは弾んでくださいね」
にやりと笑うマドレーヌに、私は即座に頷いた。
「わかっているわよ。マドレーヌには、ポスター作らせたり紙箱のデザインをさせたり、色々させっちゃったからね」
「カタリナお嬢様は素晴らしいご主人様ですわ! マドレーヌは大変うれしく思っております」
嬉々として彼女はほうきを持ったままで、バレリーナのようにその場でくるりと回ってから私にお辞儀をした。
「あら、素敵なターンだこと!」
「昔から、お嬢様のダンスのレッスンを見て学ばせていただいていましたから。なかなか腕前を見せる機会がないのが残念ですわ」
「じゃあ、いつか私が結婚することになったら、ウエディングパーティーで踊ってちょうだい」
「えっ、いつですか!? もちろん、ユーレック子爵様とですよね!?」
興味津々に詰め寄られた瞬間、マドレーヌの肩越しに上の階から降りてきたリオネル様と目が合ってしまう。
白皙の美貌に赤みが走ったところを見ると、今の会話が聞こえていたのではないか……。
「えっ……やだ、もうマドレーヌってば!」
恥ずかしさのあまり、私は顔を両手で覆った。
「お嬢様、申し訳ございませんでした……」
反省した様子の侍女の声に少し落ち着きを取り戻し、手を外して顔を上げる。
すると、私の目の前にいたのはマドレーヌではなくリオネル様だった!
「……カタリナお嬢様。本気で私との結婚を考えてくださっているのですね? これ以上ないほどうれしいです」
澄んだブルーの瞳に見つめられて、ここがカフェの店内だということを忘れそうになる。
「あの……リオネル様。それは先々の話でして……」
「あっ、そ……そうですよね。まだ、私たちは婚約もしていない関係ですし」
しょんぼりしている彼の手を、私はギュッと握る。
「婚約なんて、どうでもいいことですわ。わたくしはリオネル様以外の男性に興味はございませんもの」
「本当ですか!?」
「……舞踏会にこれからたくさん参加していこうと思いますの。できましたら、リオネル様とご一緒に……」
「もちろんです。私にお嬢様をエスコートさせてください!」
まるで中世の騎士のように、彼は私の前に跪いて手の甲に唇を押し当てる。
この世界でそうした仕種をするのは、まさに騎士が最愛の貴婦人に愛を誓う時。
そして、結婚を申し込む時だけ……。
「リオネル様……!」
「心から愛しています、カタリナお嬢様」
「わたくしも同じ気持ちですわ、リオネル様」
この国で最も美しく優れた貴公子にかしずかれた瞬間、私は確かに幸せの極地にいた。
リオネル様のスケジュールも考えつつ、週一回は舞踏会に参加することになった。
その甲斐あってか、お茶会へのデコレーションケーキの受注が多くなり、キッチンの担当者をもう少し増やさねばならなくなった。
そこで、メアリーに頼んで「カフェ・ベルトラ」にいて仕事を探しているスタッフに声をかけてもらった。その中で、パティシエのグラン氏を雇うことができたのは、本当にありがたかった。
前世の日本とこの国では、製菓技術はかなり違う。そうは言っても、こちらで一通りの経験があることは邪魔にならない。
しかも、エレオノールがレシピを盗んでいたせいで、「カフェ・カタリナ」のメニューのほとんどを、グラン氏は難なく作ることができるのだ。
ある意味、いい事前教育をしてくれたエレオノールに感謝しなければいけない。
キッチン作業や仕込みをグラン氏にやってもらえるので、厨房の管理やっていた私やマドレーヌは前よりも楽ができるようになった。
舞踏会でひとしきりダンスを楽しんだ後、私とリオネル様はバルコニーで夜空を見上げていた。
さっき乾いた喉を潤したのは、隣国からの輸入品。飲みやすい味だったから、思わず三杯も飲んでしまった。
酔いで火照った頬を掠める夜風が、とてつもなく気持ちいい。
そんな私を見て、リオネル様が微笑みかける。
「カフェの経営は順調そうですね。安心しました」
「リオネル様のお陰ですわ。大変な時も、ずっとそばにいてくれましたもの」」
気分がいいから酔ったふりして、横にいるリオネル様の肩に凭れかかった。
「……カタリナお嬢様……」
少し驚いたように、リオネル様が私の名を呟く。
いつもは甘い雰囲気になっても、お店の中だったりすぐ近くにマドレーヌがいたりするから、私たちの間には何も進展はない。
それはそれで仕方がないけれど、もう少し恋人らしい時間を過ごしたいと思うのは、私の我儘だろうか……?
顔を上げると、彼の美貌が至近距離にある。
(キスしてくれたらいいのにな……)
そう思いながらそっと瞼を伏せると、彼は私の背を抱き寄せてきた。
彼の緊張感が伝わってくるせいか、触れ合ったところが内側から熱くなる。
――しかし、私たちの甘い時間に、思いがけぬ邪魔が入った。
唇が触れ合いそうな瞬間、バタンと大きな音が聞こえ、自然の夜空の星々しか光源がなかったバルコニーに大広間の灯りが入ってくる。
閉めておいた扉を開けた人々が、こちらを凝視していた。
「……カタリナ! お前はこんなところで、いったい何をしているのだ!?」
尖った男性の声に咎められて、私はリオネル様から体を離す。
目の前に現れたのは、一番ここで会いたくなかった人物……。
「お父様……!」
そう呟く私を見て、エルフィネス伯爵は怒りに震えているようだった。
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