ルル ~黒の克肖者~

文明参画

第一部 地獄篇

召喚失敗

  影が重なりしとき、それが滅びのとき。

  二つの心を持つ者、

  青き星の輝きと共に降臨し、

  慮外なる力の開放と共に、

  戦の世を救い給うなり。

       ――『ヒエロニムス黙示録』より




 むせかえるような臭気が充満する中、召喚体は意識を取り戻した。

 周囲に広がるのは驚くほど醜悪な光景だった。

 秘装合金製の壁一面には飛び散った血痕がある。引きちぎられ解体されたような肉塊と、おびただしい量の臓物が湯気ゆげを放っているのも見える。加えて糞尿による汚物臭。


 異世界からの召喚失敗による惨状だった。

 飛び散るようにして堆積した赤黒い臓物がおぞましい。召喚体は、それこそがおのれ自身の姿であることを思い出す。


 中身だけか……。

 そんな声が聞こえたような気もした。

 元よりリスクの高い術式だったのだろう。にえとなるものの命と引き換えに得られるのは、異世界の力を内包する強大な存在だ。霊素をたっぷりと蓄えた心臓は、それでもまだかろうじて動き続けている。


 だが、器がなければ死んだも同然だった。


 だから廃棄体とされた。

 場所は召喚術式の行われた神殿の地下だ。薄暗く、えた臭いで満ち満ちている。

 臭い……? そんなものを感じ取れる身体もないのに。

 召喚体はそれが無性におかしかった。

 そして同時に「生きたい」と願ってもいた。

 傍らには真新しい少女の死体が無造作に放置されていた。

 こいつがたぶん贄だろうと召喚体は思う。


 美しいむすめだった。

 深い海の色をした髪の毛は長く、水蜜桃すいみつとうのような白い肌がのぞいている。

 身に着けているのは黒と白の侍女服だ。おおかた、どこかの屋敷から拉致されてきたのだろうか。いずれにせよ、不幸な境遇の娘だった。


 ややあって、召喚体はその少女を求めた。

 正確にはその肉体を欲していた。

 かれの心臓は依然として強い霊素を放出し続けている。そのことが既に失われた身体を動かす原動力となっていた。呆けたように開かれた少女の口をさらにこじ開け、その内部へと侵入する。器さえあれば生きられる。召喚体にはそんな確信があった。


 そしていまひとたびの形を手に入れた。

 ヒトとしての形を、だ。

 いや、人間かどうか正確にはわからない。人間の形はしていたが、それはすでに人ならざるものだった。はらりと長い髪がなびき、大きな乳房が揺れた。


 驚くほど美しい生き物の誕生だった。



 ***



 時間をかけて取り戻すのは力だ。少しづつ少しづつ、蓄えてゆく。

 どれほどの間、そうしていたのだろう。

 ほうけていた顔が苦悶に歪んだ。器がなじむと同時に痛覚が蘇ってきた。

 苦痛に呼応するかの如く、瞳が輝きを取り戻す。

 炎のように揺らめくそれは、どす黒い憎念の輝きだ。

 生きたいと願うものだけが持ち得る、原始的な生命の炎だった。


 これでいい。

 これでいい。

 生きるためにはこれでいいのだ。


 こいねがうのはただそれだけだった。

 生への執着に、理由や悔恨があったわけではない。

 ただ突き上げるような衝動がそれを求めている。

 生きることは「手段」なのだから。

 だからこそ――


 私は生きられる――そう思った。



 ***



 その少女の名をルル・ベアトリクスといった。

 器との融合を終えた召喚体は、彼女の記憶や知識も手にしている。

 どうやら近隣の町から連れてこられたらしい。

 記憶にあるのは三階建ての大きな屋敷だ。そこで使用人して働いていたことが分かる。

 屋敷の名は、イジチュール伯爵家。

 ルルはそこへ戻ることを決めた。



 ***



「おお、ルル。どこへ行っていたのだ? ほうぼう探したのだぞ」


 そう言ってみせたのは大柄な成人男性だった。

 確かこいつは――と、ルルは記憶の糸を手繰り寄せる。ヒンドリー・イジチュールといったか。数年前に他界した、先代イジチュール伯爵の長男だったはずだ。心配したそぶりを見せていはいるが、その所作は実にわざとらしい。本心からのものでないことは一目瞭然だった。


(この男が、自分を贄として差し出したのだろうか?)


 目的があるとすれば、異世界から召喚された者が宿す力だ。

 強大な霊素をもつとされる異世界人は、伯爵家にとって最高の賓客になり、そして戦力にもなるはずだったからだ。


(そう、この世界は戦争をしている)


 記憶のふたはゆっくりとだが次々と開いてゆく。その大半はろくでもないものばかりだ。

 しかし、いま気にするべきは戦力を求めるイジチュール家の状況だろう。各領土を巡っての紛争は、各地に拡大している。どの陣営もこぞって強い霊素を持つ者を集めては、戦力として自軍に配備している。それは異世界のものだけとは限らないが、ヒンドリーの目論見もまた、同様のものだった。


(だがそれは失敗に終わっている……)


 ルルがここにいるということが何よりの証明だった。

 ゆえに、「死んだはずのこいつがなぜ戻ってきたのだ……」とでも言いたげに、ヒンドリーの眼は泳いでいた。


 異世界召喚は禁断の術式とされている。

 それはそうだろう。全く無関係の存在を強制的に呼び寄せ、この世界の戦力にしようという、いわば壮大な拉致に他ならないからだ。加えて生贄いけにえの命という代価も必要とされる。失敗のリスクは高く、その多くはルルが目の当たりにしたような惨状で結実している。世界秩序を管理する〈教会〉が、召喚を禁呪と定めている理由はそこにあった。


「ところで――」とヒンドリー。「何をぼさっと突っ立っているのだね? 戻ったのならばすぐに仕事に取り掛かりたまえ。もう夜も遅いとはいえ……日中の仕事は残っているはずだぞ? 本来ならば職務放棄した罰を与えねばならないところだが、今夜中に屋敷に掃除を終わらせるならば見逃してやってもよい。私は寛大なのでな」


 ははぁ、とルルは瞬時に理解する。これがヒンドリーの素顔なのだろう。嫌味ったらしい笑みを浮かべている。つまるところルルとは、下女としてこき使われている立場なのだ。


 いっそこの場で殺すべきか?

 湧き上がるのは刹那的な殺意衝動だ。

 だが、それはまずいと考える。

 まだ己の置かれた状況が完全に把握できていない。いま問題を引き起こすのは控えるべきだとも思考する。だからこう答えた。


「恐れながらヒンドリーさま。私は先代の伯爵さまに拾われてこの家の一員となったのです。むろん御恩に報いるべく、お手伝いはさせていただきます……が、召使になったわけではありません」


 己のうちにある記憶はそのような事実を告げている。だからそれをそのまま言葉にしてみた。

 ルル・ベアトリクスとは、やんごとなき家柄の令嬢だった。戦火によって家と両親を失い天涯孤独となった彼女を引きとったのが、先代のイジチュール伯爵だった。


(もっとも、その伯爵も昨年他界されてしまったが……)


 それが少女の立場を悪くするきっかけだった。

 イジチュール家を継いだヒンドリーとは暴虐な男だった。それまでのルルの暮らしは一変し、下女の身分に落とされた。使用人としての待遇は温室育ちのルルには厳しいものだった。少女はそれに文句を言うような性格ではなかったが、さりとて屋敷を出て頼るあてもなかった。


「……口答えするというのかね? 父上が亡くなった今となっては、この私が屋敷の主だ。その主がこうして仕事を命じているのだがね。ああ、よいのだぞ。不服があるのであればすぐにでも出てゆくといい。だが、お前のような能無しのグズを拾う先などあると思うかね? ないだろう? ないよなあ。そのことはお前自身が一番よくわかっていると思っていたのだが……」


 ヒンドリーはそこで言葉を区切ると顔を歪める。整った容貌ゆえに、その落差は醜悪なものだった。


「聞いているのか? おやおや、どうやら頭だけでなく耳まで悪くなったと見える」


 ヒンドリーはそう言うと傍らに置かれた金属製のおけを蹴飛ばす。

 水がこぼれ、廊下に大きな染みを作った。


「私はこれから夜会に出かけるが……明朝、帰るまでにすべて終わらせておけ」


 無情な宣告だった。

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