第21話 薔薇は燃える

祝福されし 呂色の民よ

石塊いしくれなれど 美しく在れ

輝き満ちて この地に栄えよ

我ら等しく 美の婢女はしため


 わたしの家の歌が聞こえてくる。もう今は滅んでしまったわたしの家、そこに伝わっていた歌を、大勢の人が歌っている。


 先頭を率いていたのは、貧民窟のバァだった。子どもたちが押す手押し車に乗り、声を張り上げて叫んでいる。


「輝石の姫を解放せよ!!」バァに続き、子どもたちも口々に叫ぶ。

「お姉ちゃんを返せ!」

「新聞はうそつきだ!」


 ぼろきれを纏った彼らの後ろから、少し身なりのよい一群が付いてきていた。その派手な格好から見て芸術関係…輝石家の支持者だろうか。これまでどこに隠れていたのか、彼らも歌に合わせて声を張り上げて拳を振っていた。


 お父様が生きていたら、この光景を見てどれだけ喜んだことだろうか。わたしの心に熱い感動が広がった。だがそれと同時に、彼らが本当に立ち上がるべき時…廃家の時に同じようにしてくれていたら、と拗ねた考えが心の奥から滲みだしてくる。

 そんな考えを振り払って檻の隙間から手を伸ばし、彼らに合わせてわたしも歌った。きっとお父様だったら、こうしただろう。そうすると段々心が追いついてきて、熱いものが頬を伝い落ちた。


「何やってるんだ、降りろ!」うすら禿げの男が入ってきたが、わたしは構わず歌い続けた。今ここで喉が潰れても良いとさえ思った。


 手を伸ばすわたしに気づき、バァたちの顔が輝いた。列の勢いは一層増し、一団はあっという間に拘置所を取り囲んだ。歌声、足音、そして怒号が合わさった騒音が合わさった渦が押し寄せ、古い建物が悲鳴を上げるように軋む。


「その女はいいから、外を手伝ってくれ!もうすぐ門が破られそうだ!」様子を見に行っていた小太りの男が向こうから叫んだ。ただならぬことが起こっているのを感じたうすら禿げは慌てて牢を飛び出したが、鍵をかけ忘れたことに気づいてすぐ踵を返した。


 彼の怯えた目と視線がぶつかる。わたしはベッドから飛び降りて、その勢いのまま牢の扉を思いっきり内に閉めると、重い扉に身体を挟まれた男は潰されたカエルのような声を出して倒れた。鍵を奪い取り、彼を牢に引きずり込む。息を確かめ、ほっと胸を撫でおろした。小刻みに震える右手を押さえつけながら、なんとか鍵を閉め、牢の外へと向かう。警戒しつつ拘置所の中に足を踏み入れたが、そこはもぬけの殻だった。絶え間なく聞こえる叫び声が、がらんとした部屋に響いていた。


 身体の感覚が全て後ろに引っ張られているような、ひりつく気持ち悪さを感じる。何もかもが現実味のないまま、机の上にあった警棒を掴んで扉を開けた。その瞬間、怒号や熱気が一気にわたしを取り巻いた。


 集まった人々は拘置所を取り囲み、金属の門が人の重みで揺れていた。


 わたしを助けに来てくれた人と、ただ権力に楯突きたいだけの誰かはもはや見分けがつかず、あたりは混迷を極めていた。投げ込まれた火炎瓶がそこら中に炎をまき散らし、植え込みに咲いた見事な薔薇が燃えていた。


 目の前に広がる光景にしばし呆然としていると、1人の職員がわたしに気付いて急いでこちらへ向かってきた。押し寄せた群衆にもみくちゃにされたのか、彼女の髪は激しく乱れ、顔は汚れていた。


「牢へ戻りなさい!」


 手錠を取り出そうとする彼女を見て、考えるより先に身体が動いた。警棒を振りかぶり、目の前にある顔を思いっきり殴る。頬骨が折れたのか、ぐしゃりと嫌な手ごたえがあった。倒れ伏した職員を見て、群衆が歓声をあげた。


 警棒から血が伝い、わたしの手を赤く染め上げる。ねとついた嫌な感触で、一気に我に返った。自分が犯した罪が急に恐ろしくなり、思わず警棒を地面に打ち捨てる。


 今わたしは、ただ職務を忠実にこなしていただけの呂色国の民を、躊躇なく殴ったのだ。彼女はただ手錠を取り出しただけだ。さっきのうすら禿げのように、悪意を見せていたわけではなかったのに。


 呂色国の王家は、民を導き守るために存在する。それが、こんな。

 倒れ伏す女の虚ろな瞳に、薄汚れたわたしが映っていた。家名を失って女中になっても、血に恥じぬよう気高く生きていたいと願っていたのに。わたしはいつの間にか、王族を王族たらしめる品格さえ失ってしまったのだ。


 手に付いた血は乾くのが早く、ワンピースに擦り付けても落ちなかった。消せない罪がまとわりついている気がして無茶苦茶に擦り、手のひらがかあっと熱くなる。


「琥珀様、こちらです!!」バァの嗄れた声が、わたしの意識を引き戻した。


 溺れている人が手を伸ばすように、手を伸ばして彼女にすがろうとした。その時、暴徒が投げた石が飛んで来た。わたしはとっさにバァに覆い被さる。すぐにこめかみに爆発するような痛みが走り、生ぬるい温度が頬を滑り落ちていく。


「なんと、輝石の姫様の美しいお顔が!」バァの声は震えていた。

「姫様なんてやめてください。わたしはもう…」自嘲的な言葉が喉まで出かけたが、後ろで不安そうな顔をしている子供たちが目に入り、口をつぐんだ。


 たとえ王族の心を失っていても、よい人間であることはできる。いま自分を哀れむより先にすべきことがあるのは明確だった。


「そんなことより早く逃げましょう。ここはじきに燃え落ちます」


 薔薇の花から広がった炎はやがて建物まで達し、辺りには焦げ臭い匂いが立ち込めていた。そこらじゅうで暴力が行われ、純粋な子どもたちの瞳に血が映る。関係ない彼らが暴力の前に晒されているのは、全てわたしのせいなのだ。罪悪感で折れそうになる心をなんとか奮い立たせ、バァの手押し車を掴んで足を踏み出した。貧民窟から持ってきたであろうそれはぼろぼろで、持ち手にびっしりと生えた錆がわたしの手を茶色に汚し、血の跡を覆い隠した。


 燃え盛る炎はますます野次馬を呼び寄せていた。人の流れが手押し車を押し返し、思いきり力を込めても容易には進めなかった。


「これを押してたら進めませんで。どうかわしらには構わず先に行ってください」

「皆を置いていくなんて、できません。わたしを助けるために来てくれたのに」

「そう、わしらはあなたをお助けするために来たんじゃ」皴だらけの暖かい手が、わたしの頬に触れた。


「琥珀様を安全なところまで逃がすのが、わしらの仕事なんじゃ。だからお願いです、どうか先にお逃げください。なに、わざわざ老人と子どもに乱暴する輩はこの中におるまいよ」バァはほほ笑んだ。確かに暴徒は公権力を袋叩きにするので忙しく、わざわざ弱者に向かってくる暇はなさそうだった。


「どうしてわたしのためにそこまでしてくださるんですか。もう王女ではないのに」

「たとえあなたが平民でも、わしらは助けに行きました」 バァが優しく微笑んだ。


「貧民窟には道を踏み外した人が大勢やってきて、やがて去っていきます。皆こんな場所と関りがあったことを隠そうと必死になって…ここを出た後もわしらのことを気にかけてくれたのは、あなただけですじゃ。だから皆、片山さんから話を聞いて居ても立ってもいられずに…」


 思い出すまいとしていた名前を聞き、わたしは凍り付いたように動けなくなった。


「あの人が?」

「ええ。わしらの家で琥珀様をお待ちです。さあ、早く行きなされ!」バァは自分の頭に巻いていた布を外すと、わたしの顔が隠れるように巻いてくれた。


 彼はいつ来たのか、なんと言っていたのか、聞きたいことは山ほどあったが、頭にもやが立ち込めているようでうまく言葉にできなかった。わたしを裏切った張本人のくせして、なぜ助けるような真似をするのだろう?わたしは混乱したままふらふらと歩き出した。


 あの人は…自分だけ安全なところに身を隠しておいて、バァや小さな子どもたちをこんな危険な場所に向かわせたのだ。その卑怯さにも、そんな人間に初恋を捧げてしまった自分にも吐き気がした。


 わたしを裏切って金を手に入れたのに、今更会いに来いだなんて、この期に及んで心まで手に入れようとしているのだろうか。自分がそこまで御し易い女だと舐め腐られて腹が立つと同時に、あの人がまだわたしを求めていることに少し嬉しさも感じているのもまた事実で、我ながら自分の心が全くわからなかった。


 彼の元に戻ってはいけないと頭では分かっていたが、だからといって犯罪者になったわたしに行く宛などなかった。もし水晶の館に戻れば、守背だけでなく他の女中たちにも塁が及ぶだろう。


 今のわたしに残されているのは、氷冠かあの人のどちらかに媚を売り、彼らが飽きるまで飼い殺しにされる道だけだった。


 輝石の呪い、なんて巷で騒がれて、まるで自分が小説に出てくるスパイか何かにでもなったつもりでいたけど、結局自分は男たちの手の上で踊っていただけなのだと思うと、悔しくて涙が堪えきれない。胸が焼けた鉄棒で掻き回されているかのように鋭く痛んだ。


 全身の力が抜け、もう足を踏み出す気力は少しも残っていなかった。このまま目を閉じてうずくまって、何もかもを放り投げてしまいたい。氷冠でもあの人でもこの際どちらでもいい、ここからわたしを攫ってくれればいいのに。


 膝をついてうなだれたとき、バァが巻いてくれた布がはらりと落ちた。饐えた匂いを放つその薄汚れた布の端で、何かがちらりと光った。


 そこには、輝石家の紋章が刺繍されていた。錆びた針を使ったのか、糸が通っている部分は引きつれていたが、白い糸でかたどられたその単純な図形は間違いなくわたしの家の紋章だった。


 バァはきっと、輝石家に思いを馳せながらあの貧民窟で針を進めたのだろう。それに、輝石家のために、わたしのために身を投げ出してここまで来てくれた人があんなにもたくさんいる。

 かつて王族だった人間としての責務が、わたしにはあるのだ。辛くても悲しくても、自分を想ってくれる人たちに報いるためにも、前を向いて進まないといけない。


 とにかく今はここから離れなければ。再び歩き出したとき、誰かが強い力でわたしの袖を掴み、重い包みを手のひらに押し付けてきた。

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