第20話 わたしの身体

拘置所の床は冷たかった。

 自分を罰したい。そんな気持ちに従って、わたしは直に床に座った。薄いワンピース越しに感じる冷たさが背筋から登ってきて、膝をぎゅっと抱きかかえる。


 裏切られた、とは思いたくなかった。


 質屋に財宝が売られたと聞いた時、あの人の顔がよぎらなかったわけではない。でもどうしても信じたくなくて、どうか違いますように、盗んだのは誰か別の人でありますように、と願っていた。でも、やっぱりあの人だった。堂々と嘘をついて、私を売った。


 復讐から気を逸らすべきではなかった。これはきっと罰だろう。お父様の恨みを忘れ、恋愛なんかにかまけてしまった罰。

 彼の気持ちはいったいどこから嘘だったんだろう。初めて声を掛けてくれた時から、すべて氷冠に仕組まれていたのかな。


 お尻が痛くなり、もぞもぞと身体を動かす。涙が伝った後がかゆくなって、爪を立ててぼりぼりと掻いた。

 人前で泣いてしまったことがいまさら恥ずかしくなる。ああいう時はしゃんとして、憎まれ口の一つでも叩いてやるべきだった。でもほんとに悲しくて、どうしようもなかった。彼の呆然としたような顔を思い出し、今度は怒りでまた視界が滲んでくる。


 檻の向こうにいる男が、隣にいるうすら禿げと何かささやき合ってこちらを見ている。泣いているわたしがそんなに面白いのだろうか。笑いたいなら、どうぞ笑えばいい。うすら禿げと小太り野郎なんかにどう思われたって構わない。

 くそじじいどもめ。わたしは心の中で毒づいて、それからまた泣いた。

 あの人だってこいつらと年は変わらない。でも上品で、紳士的で、何もかもが素敵だった。女中をしているわたしの瞳から、昔の_お姫様だったころのわたし、教養があったころのわたしに気づいてくれた。

 

 この期に及んでもまだ、彼のことを思うと胸がきゅっとする。そんなことだから騙されるのだと自分に腹が立ち、膝に思い切り爪を立てた。


 図書室、仮面舞踏会、土いじり。宝石、初めてのキス。素敵な思い出が走馬灯のようにくるくると回る。

 そうだ、不敬罪っていったい懲役何年になるんだろう。わたし、をせずにおばさんになっちゃうのかも。初めては彼が良かったな。本でしか知らないあのことを、彼に優しく教えて欲しかった。

 こんな時に考えることじゃないってわかってるけど、牢屋と懲役のことを考えるよりは、あれのことを考えたほうが気分がマシになる。

 

 いい加減きつくなってきて、固いベッドに横たわる。目の前にいる男たちからすれば、わたしは目を閉じてじっとしているようにしか見えないだろう。でも今この身体には、怒り、悲しみ、絶望、それからときめきと欲情がないまぜになっている。


 歯を食いしばってじっと我慢していると、鍵の揺れる音がした。


「お前に面会が来ている」小太りの男はわたしを見下しながらそう言った。


 それを聞いて、急いで飛び起きた。いきなり動いたせいだろうか、心臓が動悸をうつ。髪の毛を手櫛で整え、顔におちた涙のあとをごしごしと拭く。

きっとあの人だ。わたしは自分を少しでも綺麗に見せようとしながら、今謝ったら許してあげようと思った。人間誰だって魔がさすことくらいあるはずだから。


 息せき切って面会室の扉を開けると、そこに居たのは氷冠だった。気持ち悪い奴。今日はいつになく楽しそうで、満面の笑顔を浮かべてわたしを待っていた。わたしは失望を隠そうともせずに不貞腐れた。


「おや、目が腫れていますね。さぞかし泣いたのでしょう、可哀そうに」

「何の用?」


 不敬罪で拘置所に入れられているのだ、いまさらこいつに敬語を使う必要はない。わたしは椅子を壁に寄せて、できるだけ氷冠から離れて座った。

 彫刻のように整った顔をしているが、この顔を美しいと思ったことは一度もない。いくら外見は美しくても、その心から漏れ出す腐臭は隠すことができない。例えば今、わたしを見て口角を上げたあの唇…見た目はつやつやとして綺麗だけど、今にも蛆虫が這い出てきそうな、そういう気持ち悪さがある。


「琥珀さんが心配で様子を見に来たのです。初恋の男があんな嘘つきの盗人で、さぞ傷ついたことでしょう」

「どうせあなたが仕組んだことでしょう。しらじらしい」この男と一緒の部屋にいるのが耐え難く、すぐにでも会話を終わらせたかった。


「わたしは大丈夫。裁判の時は泣いちゃったけど、今はそんなに悲しくないの。ああやっぱりね、って感じ。だからもう帰ってちょうだい。これからは刑務所で大人しく本でも読んで過ごすから、もう二度とわたしに関わらないで」


 精一杯の強がりだったが、泣き暮れているわたしを期待していた氷冠には通じたようだった。彼は表情を変えなかったが、瞬きを何度も繰り返した。


「じゃあこのまま刑務所で一生を過ごすつもりですか?」

「わたしにはもう、家族も頼れる人もいないから。別に一生刑務所でも構わないわ、孤独なのは同じだもの」


 わかりきったことだったが、改めて口に出すとしみじみ悲しくなってきた。ずっと一人で戦ってきて、ようやく隣で安心できる人を見つけたのに、彼もわたしを騙して結局一人ぼっちだ。いつか復讐が終わったらお母様に会いに行きたかったけど、それももう叶わない。


「あなたは刑務所を知らないからそんなことが言えるんです。塀の中にはあなたが陥れた呪いの被害者だっていますよ。獅子の檻に生身で飛び込むようなものです」

「…さっきから結局何が言いたいの?わたしをこの状況に追い込んだのはあなたでしょう」要領を得ない氷冠の言葉にイライラしてきて、思わず口調がきつくなる。


「刑務所に行かなくていい方法がある、と言ったらどうします?」

「教えてくれなくて結構。あなたからの提案にはもう耳を貸さないことにしたの」

 

 散々こっちを利用しておいてなんの躊躇もなく切り捨てたくせに、まだわたしが言うことを聞くと思っているなら相当のバカだ。何を目的に絡んでくるのか知らないが、もういい加減縁を切ってしまいたかった。


「そろそろ行くわね。さようなら」

「後宮に入るのはどうでしょう」

「はい?」


 自分の耳を疑って、思わず聞き返してしまった。彼は今、確かに後宮と言ったのだろうか?この状況で?


「王の側室に司法は手出しできませんから、全ての罪が不問に付されますよ。それに、刑務所に行けばそこで輝石の血が断絶して、千年続いた家が本当に終わってしまいます。それで先祖に顔向けできますか?小物に復讐していくよりも、賢泉と輝石の血を継いだ子を産んだ方がよほど先祖孝行ですよ」

 

 わたしは思わず嘔吐しそうになった。廃家にされた時も彼は側室の座を提案してきたが、それはわたしを貶めるための侮辱だとばかり思っていた。でも今_今彼は、賢泉と輝石の血を継いだ子、と言った。冗談でそんなことをいう訳が無いし、何よりもそれが目的なら合点がいく。2つの王家の血を継いだ子がいれば、輝石家を支持していた人間からの敬意も得られ、賢泉家の支配がより盤石になるだろう。

 あれをせずに死ぬのが心配だったけど、それより下があるとは思わなかった。わたしの身体はこの男に弄ばれ、価値のある血を残すためだけの入れ物として使われるかもしれないのだ。


「おぞましい。恥を知りなさい」拳を握り締めて必死で耐えながら、何とか言葉を絞り出した。彼がわたしのことをずっとそういう風に見ていた、そのことがただひたすら恐ろしかった。わたしがあの人に触れたいと思ったように、目の前にいるこの男もわたしにそう思っているのだろうか?もしかして寄宿学校の頃から?王家同士は結婚できないというのに。


 そこまで考えて、気づいてしまった。最初は輝石家の廃家に反対していた賢泉当主を、彼が執拗に説き伏せたその理由が。

 氷冠はわたしと同じ言葉を話しているが、中身は人間ではない。人の形をした悪魔だ。その悪魔がわたしと番い、子を成そうとしている。

 もう耐えきれなくなって、わたしは部屋から逃げ出した。

 扉の外に立っていた小太りの男が立ちはだかる。彼を突き飛ばし、転がるように檻の中に入った。


「どういうつもりだ。まだ王子がお話の途中だ」

「もう聞きたくないわ。早く鍵をかけてください」


 体の芯から震えが止まらない。さっきあの部屋で聞いたすべてのことがおぞましく、背筋を無数の虫が這っているようだった。助けて、と思わず口から洩れる。その言葉は誰にも届かないと分かっていた。

 あの人は氷冠の罠の一つで、わたしのことなどなんとも思っていなかったのだろう。でも、頭を撫でてくれた手の暖かさ、それは嘘じゃなかった。きっとこの先わたしの身体は自分のものじゃなくなる。氷冠の冷たい手であらゆるところを辱められ、彼が飽きたらどこかの娼館で慰み者にされるのだ。そんな中でわたしは、あの人から触れられた記憶、最初で最後の肉体の喜びを、この先擦り切れるまで思い出すのだろう。

 その時、遠くから群衆の歌声が聞こえてきた。


祝福されし 呂色の民よ

石塊いしくれなれど 美しく在れ

輝き満ちて この地に栄えよ

我ら等しく 美の婢女はしため


 この歌は。

 ベッドに駆けのぼり、窓から外を見る。目を凝らすと、大勢の人々が輝石家の歌を歌いながら拘置所に向かってきていた。

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