第5話 詐欺師と老婆

 林医師の診察室には、その日もまた様々な人々が訪れた。しかし、その中でも際立っていたのは、32歳にして体全体に刺青を施し、筋肉質の大柄な体躯を持つ男性、渡辺だった。彼の風貌とは裏腹に、弱々しい声で体調不良を訴える姿は、何とも言えぬ矛盾を感じさせた。


 渡辺が訴えを続ける中、突如として林医師の目に、彼の背後に老婆の幻影が映った。透明な輪郭をした老婆は林医師に向かって、


「この男を治療しないでください」と哀願する。その声は、か細くも切実なものだった。


 渡辺は自分の話を続けるが、老婆の幻影はさらに言葉を重ねた。


「この男は、振り込め詐欺のリーダーなんです」と。


 健太は、老婆の幻の声には耳を貸していないようだった。彼が幻の声を聞いていないのか、あるいは聞こえていても無視を決め込んでいるのか、林医師には見極めがつかない。


 診察室には怪しげな空気が流れ、林医師は自身の目と耳を疑いながらも、その戸惑いを顔に出さぬよう努めた。


 彼は医師としての倫理と、幻影からの訴える声との間で揺れ動く心を抱えつつ、診察を続けた。


 この男は本当に犯罪者なのか、それとも、ただの病人なのか。それを決めるのは、自分の役割ではない。しかし、老婆の幻がもたらす情報は、林医師に深い問いを残し続けた。



 林医師は診察室の沈黙を破るように、渡辺に問いかけた。「今までに見えなかったものが、見えるような症状はありますか?」彼の声は柔らかく、しかし鋭い洞察を含んでいた。


 渡辺は一瞬、言葉を詰まらせた。幻覚を見ると認めることは、自分が精神的に不安定だと客観的に認めることに等しく、なかなか出来ることではない。


 その時、老婆の幻が恐ろしい怪物に変貌し、渡辺を取り囲むように巨大化した。しかし、渡辺は一切の反応を示さない。彼には、その幻が見えていないのか。それとも裏社会で鍛えられた度胸で、あえて無視しているのか。


 やがて、彼はぶっきらぼうに「変なものは見えません。ただ、頭痛と吐き気が……」と返答した。その答えは、もっともらしく、表面上は全く問題ないように聞こえた。


 怪物は、やがて元の老婆の姿に戻り、ひそかに悔しがっていた。その幻影が何を意味するのか、林医師には分からないが、彼は自分の仕事に集中することに決めた。


 彼は渡辺の頭部の画像を再度チェックし、次の診療ステップを考えた。彼が見ている幻に惑わされることなく、医師としての職務を全うした。



 林医師が自宅のキッチンで一人、夕食の準備をしていた。鍋の中のシチューが静かに煮えたぎり、香りが心地よく広がる。テーブルに料理を並べ、彼は席に着こうとした、そのときだ。


 昼間の診察で見た老婆の幻影が、突如として彼の目の前に現れた。彼女の姿は透けて見え、部屋の灯りで、ぼんやりと照らし出されていた。


 老婆の幻影は、ゆっくりと、そして重々しく振り込め詐欺の被害に遭った経緯を語り始めた。彼女の声は震え、時折途切れながらも、自分が騙されたことによるショックと、そのせいで家族や親戚、近所の人たちから受けた屈辱を吐露した。彼女が涙にくれ、やがて泣き崩れる様は、見る者の心を痛ませた。


 林医師は、深く溜息をついた。彼の目の前で崩れ落ちる老婆の幻影に対して、医師として患者を見捨てるわけにはいかないと思った。


 幻影は途絶えがちな声で「警察に通報してください」と懇願した。林医師は、その場で立ち尽くした。彼女の願いに、どう応えるべきか、深く考え込んでしまった。患者の病は治さねばならないが、この幻影が彼に訴えかける正義の重さを、彼は無視することができなかった。



 朝の光が病院の廊下を柔らかく照らす中、林医師は重い足取りで出勤した。医師が犯罪に気づいて、警察に通報するのは日常的なことだが、今回の情報源は、医学の領域を超えたものだった。非科学的、非現実的、まさに幻想そのものだ。


 診察や検査で、渡辺に薬物の痕跡を見つけ出せたならば、どれほど事が簡単だったことか。しかし、渡辺の体は、あらゆる不正を否定するかのように、清浄そのものだった。


 林医師は、同僚に相談することもできず、孤独に決断を下すしかなかった。部屋が人の気配から解放された瞬間、彼は電話を取り、警察にダイヤルした。以前にも、刑事の捜査を支援した経験があったので、その刑事を指名した。


「脳腫瘍の患者が、うわごとで振り込め詐欺への関与をほのめかしているのです」


 その言葉は真実を曲げたものだったが、林医師には、それが患者を守り、もしかすると何人かの無実の人々を救う唯一の方法に思えた。



 手術室の白い壁は、無言で進行する手術の緊張を反映していた。林医師は深呼吸をし、渡辺の脳にある腫瘍にメスを入れた。まわりのスタッフは、静かに彼の動きに集中しているが、彼らには見えない老婆の幻が、部屋の隅に静かに立ち、全てを見守っていた。


 今までの経験では、この瞬間に幻は痛みに顔を歪め、手術の成功と共に消え去る。しかし、今回は違った。脳腫瘍の切除が終わり、林医師が顔を上げると、老婆は依然として、そこに立っており、不気味な微笑を浮かべていた。


 老婆の幻影は、渡辺の脳腫瘍とは無関係だったのだ。

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