第4話 幻覚の予言

 診察室に座る真理子の緊張が、顔に出ていた。彼女の背後で、西澤慎一郎の幻が静かに立っている。林医師は診察台に寄りかかりながら、慎重に言葉を選んでいた。


「真理子さん。西澤さんは幽霊ではなく、あなたの記憶が生み出した幻覚ではないでしょうか? 新しいことを教えられないのは、そのためかもしれません。これは私の仮説ですが……」と彼は優しく説明した。


 その言葉を聞いた西澤の幻は情けない表情を浮かべた。それを見た真理子は、さらに混乱し、彼女の中で葛藤が渦巻いた。林医師の言葉が事実だとしたら、彼女の練習は何だったのかという疑問が、彼女の心を暗くした。


 林医師は、その葛藤を察しながらも、真理子に寄り添うように話を続けた。真理子は頭を抱え、目を閉じた。音楽への情熱と、現実との間で揺れる心。彼女はどう進むべきか、まだ答えを見つけられずにいた。



 西澤の幻が、ゆっくりと口を開いた。「あなたには、もう教えることがないのです。あなたは、自分で成長していける人です。自信を持ってください」と、弱々しく真理子を激励した。


 真理子は、怒りに震えた。「言い訳をしないで! あなたは本物の西澤先生じゃないんでしょう?」と彼女は叫んだ。


 幻影は静かに、うなずきながら答えた。「脳外科手術を受けて、万全の体調で国際コンクールに臨んでください。私は、ずっと、あなたの側にいることになるでしょう」


 林医師は、このやり取りを黙って見守っていたが、内心では自分が立てた仮説が揺らいでいることを感じた。幻影は幽霊なのか、それとも患者の記憶の産物なのか。彼は真理子の頬に伝う涙を見て、この幻覚が何であっても、彼女にとっては非常にリアルな存在であることを理解していた。そして、彼女が音楽に打ち込むための、ある種の精神的な支柱であるということも。



 手術を乗り越え、国際コンクールの舞台に立つ真理子の心は、複雑な感情で溢れていた。西澤の幻は、もう彼女の目には映らないが、彼の存在は彼女の心の中に深く根ざしていた。


 真理子はピアノの鍵盤に指を置き、深い呼吸とともに演奏を始めた。彼女は力強く、それでいて繊細に、バッハのプレリュードを奏で始める。各音符に、彼女の感謝と先生への想いを込めながら、彼女は音楽を通して内なる声を世界に響かせた。ピアノから溢れる旋律は、手術前には聞こえなかった新たな美しさを持っていた。舞台の上で真理子は一人だったが、彼女は決して孤独ではなかった。彼女の中で、西澤先生は永遠に彼女と共に演奏を続けている。



 コンクールの会場は報道陣で溢れ返っていた。真理子は、そんな中、落ち着いた様子で彼らの質問に答えていた。


「佐伯真理子さんは、西澤先生から、どのような影響を受けましたか?」という質問に彼女は柔らかく微笑みながら、「西澤先生の指導は、私の演奏の核です。毎日、彼の言葉が私の心に響いています」と答えた。


 別の記者が「あなたの演奏に最も影響を与えたのは何ですか?」と続けた。真理子は一瞬考え込むと、「西澤先生の献身的な教育と、音楽に対する純粋な愛情です。彼は、ただ技術を教えるのではなく、音楽の背後にある情熱を教えてくれました」と答えた。


 しかし、彼女の心の中では、自分自身の音楽への情熱や、これまでの人生についても話したいという思いが生まれていた。彼女は、冗談めかして言った。


「あのう、私のことも話していいですか?」


 報道陣は、苦笑した。西澤慎一郎とのエピソードを求めるような質問は続いたが、真理子は、彼女の中に生まれたばかりの自信と平和を感じていた。手術を経て、彼女は自分自身で、その道を切り拓いていく覚悟ができていた。彼女は、西澤からの最後の教えが、自分の中に生き続けていること感じた。



 林医師は、静かな自宅のキッチンで夕食を作る。野菜を切り、鍋をかき混ぜながら彼は、この単調な作業の中に、ある種の慰めを見出していた。


 食事をテーブルに並べ、彼はテレビのリモコンを手に取り、画面に映し出された真理子の姿に目を留めた。報道番組は彼女を「西澤慎一郎の最後の弟子」と紹介していた。


 彼女が独自の道を歩むための西澤からのアドバイスは、いかに適切だったかを思う。脳腫瘍の患者が見る幻覚に、未来を予測する力があるのだろうかという、奇妙な思考にふける。


 食後、彼はリビングにある亡き妻の写真を手に取って眺めた。そして妻と、もう一度話ができるならばという思いが生まれた。


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