家主の死

かとうすすむ

第1話 巧妙なる犯罪

 東都大学の医学部で、一般課程の2回生として在籍していた琢磨俊一は、人一倍、神経質な性格の持ち主であった。まず、よく頻回に手を消毒する。そして、身の回りの持ち物は全て、小ぶりなポシェットの中にいれて、その配置具合までもが、意識的に整頓されていた。また、着ている衣服に食べ物の汚れが付着すると、それが気になって仕方ない。勉学までもが上の空で、懸命に塗れたハンカチでその汚れを拭き取るまでは気が済まないのである。そんな訳で、琢磨の毎日は、完璧に計算された思考活動の上に、持ち前のよく出来た記憶力のお陰で、端から見れば、実に厄介で複雑極まるものであった。しかし、琢磨はそれを苦とも思っていなかったどころか、快適であるとさえ考えていたから不思議である。

 琢磨俊一の実家は、群馬県の外れの片田舎で、代々、農業を継いでいたが、向上心溢れる俊一は、親からの反対もあったが、両親の意見を論破して、単身、上京して医学の道を志した。何故、彼が医学に目覚めたのか?それは、彼自身の性衝動、いわゆるリピドーと深く関わっていた。誰であれ、所謂、思春期には性に目覚めるものである。そして、俊一自身、高校生の頃に、ひとりの同級生の少女と付き合っていた。彼女は瑠美と言った。

 蒸し暑い夏の日の放課後である。高校での授業を済ませた俊一は、綺麗に磨かれた学生カバンを手にして帰り道を歩いていた。そして、自宅近くの雑木林の近くの裏道に差し掛かった時、近くの雑木林の中から女性の悲鳴のような声を耳にした。何だろうと、俊一には好奇心旺盛なところがあったから、それを確かめられずにはいられない。それで、樹木の中へ踏み込んでいくと、やがて、驚くような光景を目の当たりにした。

 茶色い泥だらけの枯れ葉のまみれた地面の上に、ひとりの、紺色のセーラー服をズタズタに引き裂かれて、その両手と両足を、若い学生風の男たちに押さえ込まれて、大の字に寝かされている少女がいた。男たちは嬉しそうに笑って、次々と、少女の下着を脱がせていく。やがて、彼女が、全裸にされると、どうやら、彼女の顔に掛けられたハンカチに何かが染み込ませてあるのか、彼女は反応せずに、彼らのいいなりに裸体を動かされていく。少女のいたいけな白く青ざめた両足が開かれて、俊一が今まで見たこともない形態をした女陰が覗くと、その亀裂へと容赦なく黒々とした男たちの男根が深々と挿入されていく。その振動につれて、少女の乳房がユサユサと揺れていた。いつしか、俊一は不思議な快感を覚えていた。彼の男性器までもが、大きく勃起して、射精しようとする感覚を覚えたのである。これは、彼にとって予想しなかった出来事であった。

 俊一は慌てて、物音を立てぬようにこっそりと、それまでしゃがんでいた草の茂みから、急いで自宅へと逃げるようにして帰ったのであった。

 その翌日、俊一は昼休みの時間に突如、瑠美に呼び出されて、高校の隅にある体育館の倉庫に来ていた。そして、瑠美から、彼女が昨日の午後に複数の男たちから暴行された経緯を赤裸々に告白された。これには、俊一も我を忘れて驚愕した。あの時の少女は顔をハンカチで隠されて誰か分からなかったのであるが、それが親友の瑠美であるとは知らなかったのだ。瑠美は顔を真っ青にしたまま、しばらくの間、沈黙していたが、やがて恥じらうような仕草で、俊一の股間に小さな手をかけて、一言だけ小さく言った。

「あたしを抱いて、‥‥‥‥‥‥あたし、俊ちゃんなら良い。きっと昨日のことを忘れてしまいたいのね、あたし」

 それから、俊一と瑠美の二人は、しばらく、倉庫の中で、秘密なる猥淫の時を過ごした。それは二人だけの秘め事であった。

 それから、俊一は、一冊の大型の医学書を都内の大手の書店まで赴いて購入してきた。それと言うのも、先刻の出来事である。ひとりの人間が、少量の液体で意識を失ってしまう事実、それから、あの暴行事件で垣間見た男女の肉体の神秘、そして俊一自身、それに反応して勃起したという現象、そしてその後に起きた瑠美との性行為までもが、俊一に人間の身体の不思議を目覚めさせるには充分であったのだ。

 それ以来、彼は、人間の身体と医学について独学で研究に没頭し始めた。そしてそれが契機となって、彼を大学の医学部へと専攻させていったのである。

 琢磨俊一は、一般に言うところの苦学生であった。親からの仕送りはあったが、僅かな金額ではあり、彼が大学生活をごく普通に送るためには、幾ばくかの学費と生活費のための資金が必要であった。それを彼は、以前までアルバイトを幾つか掛け持ちして遣り繰りしてきた。裕福な家庭での家庭教師、個別指導の塾講師、果ては、コンビニの店員から、飲食店のウェイターや日雇いの肉体労働まで経験してきた。しかし、彼の根気が続かなかったことと、出費が思いの外、多く出ることがよくあって、琢磨は金銭問題で頭を悩ませる日々を送っていた。

 「金さえあれば‥‥‥‥‥‥‥」

 と、琢磨は考えた。概ね、医学部の学生は裕福な家柄の子息が多いものである。この東都大学でも多分に洩れず、いわゆる「お坊っちゃま」タイプの純粋な性格をした学生でほとんどであった。そんな中、琢磨は、金の捻出に専心して、その突破口を、ひとり、探っていた。

 その日のお昼休みの時間も、苦悩する琢磨は、ひとりで学生食堂の椅子に腰かけて、ざる蕎麦定食を口にしながら、頭をフル回転させていた。

 誰かに借金するという手もあるが、余り得策ではない。返済の手間もあれば、高額の利子がついて回る。いっそのこと、銀行強盗を強行して、一攫千金といくか?しかし、そんな愚かなことに手を染める琢磨ではなかった。余りに稚拙である。そして、この一言、「金さえあれば」と言う言葉のために、ついに琢磨はひとつの犯罪にその手を血で染めてしまうこととなるのであるが、彼にはそんなことに気づく余地も皆無であったのである。

 そしてある偶然が、彼に、その犯罪へと向かう危険な契機を与えてしまったのである。

 それは、ある日の午後である。9月25日の午後、その日は琢磨が住むアパートの家主のところへ、1ヶ月分の家賃を納めにいく定期日であった。彼の家主は、アパートから、さほど遠くない距離にある住宅街の一角にある邸宅に独りで住んでいる隅村かよという名の小柄な老婆であった。隅村は、その邸宅に住んで、多くの資産にものを言わせて、幾つもの不動産を所有しては、他人に賃貸で住まわせて、月々に高額の収入を得ていた。

 神経質なまでの性格である琢磨は、その日も、身なりをきちんと整えて、家賃の現金を厚手の小封筒に持参して、徒歩で、隅村邸を訪問したのである。

 やがて、屋敷の奥から、女中らしき若い女性が現れて、妙に色気付いた素振りで彼を招き入れると、奥の応接間まで、長々とした暗い廊下を歩かされた。やがて、突き当たりにある大きな木製の扉を両手で開くと、中の広い応接間の白い巨大なソファに深々と、かよが座って、こちらを向いていた。絞り染めの暗い色の和服の良く似合った小さな老婦人である。琢磨は無礼を詫びると、向かいの席に腰かけて、早速、家賃の封筒をかよの手に渡した。いつものように、無表情にかよは中身の1万円札の束を数えてから、軽く何度か頷いて、それを封筒ごとに黒い大理石のテーブルの上に置いた。それから、琢磨が暇乞いをすると、まあまあと彼を窘めるようにかよはそれを遮って、大声で女中の女を呼びつけると、彼に珈琲を一杯勧めるのであった。

「この年にまでなるとねえ、あなた」

と、かよは弱々しい口調で言うのであった。

「なかなかに、ゆっくりと話せる話し相手も少なくなってくるものですよ。あなたのように若い殿方なんて、滅多に現れるものじゃありませんからねえ」

と、染々と琢磨の顔を覗き込むのである。これは参ったなあと琢磨は思ったが、そこは年の功というもので、その巧みな弁舌であっという間にかよの日頃の愚痴を延々と聞かされる結果となってしまったのである。しかし、である。これは先程も述べたように、かよはかなりの資産家であり、その保有する財産もおそらく天文学的数字なのだろう。苦学生の琢磨にとっては羨ましい限りであった。そのためか、かよの話す話題は時として資産に関するものであったが、此れが琢磨の将来を決定づけた魔の扉が開く時であったのだ。というのも、それは、琢磨が非常に注意深く神経質なタイプであったがゆえであろう。彼は、ある不思議な事実に気づいたのである。それは、かよの視線であった。かよが、「資産」に関する言葉を発する度に、彼女の小さな瞳の視線が、しぜんと、彼女の腰かけたソファの斜め向かいにある壁に掛けた大きな額入りの西洋画のところに向くのである。一度や二度ならば偶然かも知れなかったが、それを越える回数で、彼女はその西洋画の額をチラリと一瞥するのである。最初、これは琢磨にとって謎であった。何だろうと思ったわけである。しかし、秀才としての琢磨の明晰なる頭脳は、これを深く読み込んだ。やがて彼の頭に、「隠し財産」と言う言葉が浮上してきたのである。あの額入りの西洋画は、妙にその厚みがあった。それは、結構な量の物品を隠しておくくらいのスペースを内部に持っていたのである。あの西洋画の額縁の中に、結構な額の隠し財産が隠してあるのではないか?やがてそれは琢磨の確信へと変わっていった。それで琢磨は、その仮説を試すかのように、ゆっくりとした口調で老婆に話しかけて見せた。

「それならば、ねえ、隅村さん、この家に、例えば、隠し財産なんかがあっても、おかしくありませんねえ、ねえ、そうでしょう?」

 すると、どうだろう。琢磨の予想通りに、急に老婆の視線は、西洋画を離れて下をうつ向いたのである。此れで間違いはなかった。彼女は、本当のところを指摘されて狼狽し、西洋画を見るどころか、本心を隠そうとして下を向いてしまったのである。それで、事実、あの額縁の中に隠し財産があると言う秘密を握った琢磨は内心で有頂天になった。あの財産が僕の手に入れば、僕の大学での生活はバラ色なものになる。どうにかならないものか?

 隅村宅を辞して、自宅のアパートへと帰宅していく琢磨はそれを考え続けて、結局のところ、最終的に、老婆の口を封じること、つまり、老婆を殺害するよりも他に方法がないと結論した。

 琢磨のアパートの近くには、小さな堤防道があった。それで琢磨は、途中、堤防の斜面に腰を下ろして、眼下に見える河のせせらぎをボンヤリと眺めて、泳ぎ回る稚魚の群れに目をやりながら考えていたのである。

 ただ、老婆を殺害しては、どうかすると、関係者である琢磨にも嫌疑が掛かる可能性が拭えない。それでは困る。単なる殺人事件では困った結果になってしまうわけである。それでは、事故死、もしくは変死ならばどうであろうか?事件は、単なる偶発事として処理されて、おそらく隠し財産の事など問題にもされずに終わってしまうに違いない。これは良い考えだ。実に上手い。それで行こう。そう決心すると、琢磨は堤防の斜面から腰を上げて一路、自宅への道を急ぐのであった。 

 しかし、その翌朝になって、琢磨の頭は目覚めたままのためか、よく冴えて、ある手抜かりに気づかされた。アパートの洗面所で鏡に映った自分の顔を見ていた時に、ふと、本当にあの額縁に隠し財産があるのか?と言う素朴な疑問が彼の頭に浮かんできたのである。もしも、それが間違いならば、老婆を殺害してもなんの意味もなくなってしまうではないか?それではいけない。それで、彼は、それからの間、大長考に入って自問自答を繰り返し、やがて最後には世にも恐るべき奇妙な犯罪計画を立てたのである。

 しかし、最後にある問題がひとつ残った。それは、「殺人行為に対する恐怖心」であった。誰でもそうである。そんなことは出来ないのだ。その恐怖心を、琢磨は自分の心から何とか取り去ろうと考え続けたのである。そして琢磨は、その対応策を練り、そして、それをそれから数日後の夜に決行することにしたのである。

 その晩、琢磨は、アパートの自室で着替えていた。黒い上着と黒いジーンズ、そして黒いマスクと野球帽で頭を隠して、自宅を出た。アパートを出ると、夜の住宅街に人影はない。ただ、暗い舗道が延々と、両側に住宅を挟んで伸びていく。静かで、物音もない。琢磨の歩く靴音だけがいやに騒々しく響いた。やがて住宅街を抜け出ると、道は国道へと変わり、その隣に小高い林に囲まれた児童公園があった。何の躊躇いもなく、琢磨は公園に踏み込んでいった。公園の中は、思うよりも広かった。公園のあちらこちらの片隅に、青い安っぽいベンチが置かれていて、そのひとつに、黒い人影が座っているのが分かった。それで、琢磨は静かにそのベンチに忍び寄った。すると、近づいてみて、それが、抱き合っている若いカップルであることが分かった。二人は最初、気づかなかったが、やがて黒ずくめの琢磨の異様な姿を認めると、突如、それまで、女を抱き締めていた若い髭面の男が、怯えた悲鳴のような声を発して、その場に女を残したまま、恐怖の余りに逃げ出してしまった。思わず、琢磨は笑いを堪えていた。残された若い女は、異様な琢磨の前で、既に、全裸に近い格好で、ベンチで足を組んで、胸もとに手をあてがって隠していた。

「だ、誰よ。何のつもりなの?」

 女は囁くように言ったが、その身体は既に恐怖で小刻みに震えていた。なにも言わずに、琢磨は、片手に細身の肉切り包丁を握り締めたまま、それを、いとも容易に、ぐいっと、女のぷりんとした白い乳房の下に差し込むように刺し貫いた。思うほど、血は出なかった。しかし、女はぐらりと頭を揺らすと、そのままベンチの上で横たわって動かなくなった。琢磨は抜き取った血まみれの包丁を手にしたまま、立っていた。女の黒い影が静かに公園の土に伸びているのが分かった。

 「殺人は容易だ。しかし、殺人は癖になる」

いつしか、そんな言葉が彼の頭で渦巻いていたのである。

 そして「深夜の殺人予行演習」が行われてから、3日後に、老婆殺しは実行に移された。琢磨は、殺人事件のアリバイを気にする必要はなかった。ただ、彼が犯行を行うところを誰かに見られては不味い。それだけが肝心だった。

 大学の講義は午前中で終わらせて、電車に乗った琢磨は、車中で座席に座って、何度も何度も、手筈に抜かりがないかと考え直した。大丈夫だ!大丈夫だ!そう、自分に言い聞かせて、手にした黒い鞄を見つめた。その中は、犯行に必要なものがキチンと綺麗に整頓されて入れてある。大丈夫だ。

 電車が、隅村宅の最寄駅に到着すると、車掌の軽快なアナウンスが流れて車扉が開いた。いよいよである。

 駅の広い構内にある清潔そうなイメージのコンビニに立ち寄ると、琢磨は御昼御飯のパックお握り3個とペットボトルのお茶を買って、そのまま、近くに置いてあった長椅子の隅に腰掛けて、外の景色を眺めながら食事にした。すぐ足元には、行き交う車で忙しげな高速道路が走り、傍には、広い空き地のようなグラウンドが広がり、そこでは、サッカーに興じる子供たちの小さな姿も覗き見えた。彼のすぐ向かいは、スーパーマーケットに通じるガラス張りの透明な扉があって、大きなカートを押して食料品を買い込む女性客たちの姿が見えた。

 最後にお握りのかけらをぐいっと口に押し込んで、お茶で流してしまうと、琢磨はやおら腰を上げて、駅の階段を小走りに降りて、そのまま、一路、隅村宅へと向かったのである。

 目的の邸宅へと繋がる住宅街の広い通りをまっすぐに歩きながら、琢磨は気忙しく腕時計を覗いた。午後2時13分。もう大丈夫だ。女中の女性は、毎日、午後2時には夕食の買い出しで街まで出ていく。もう今、自宅に居るのは、かよだけであった。これで事は簡単に運んでくれる。

 鉄製の重い門扉を開いて、丸砂利の敷き詰められた小道をしばらく歩くと、玄関の扉に辿り着く。黒い鞄から小さな金属製の鑢のようなものを取り出すと、琢磨は、それを玄関の鍵穴に差し込んで、しばらく捻って回していたかと思うと、やがてカチンと小さな音がして、鍵が外れたようである。それで、琢磨はふうと溜め息を漏らし、改めて周囲を見渡すと誰も見てはいないことを確認してから、静かに玄関の中に侵入した。こんな時に通信販売で買った奇術用品が役立ってくれたか、と琢磨は鞄に金属の棒をしまい込みながら感心して思った。

 屋敷の中は琢磨の予想以上に広くて複雑な間取りになっていて、奥の応接間に辿り着くのに我ながら往生した。そこに、老婆が居ないことは前から承知済みであった。その時間は、彼女は2階の和室でゆったりと昼寝をする時間なのである。琢磨を邪魔する手間は取られなかったのだ。それで、彼は、おもむろに応接間の白い壁に掛けられた例の大きな西洋画の額縁を両腕に抱え込み、えいっと持ち上げて、床に置いてみた。結構に重い。どうだろう?と、琢磨は額の裏側のベニヤ板を調べて、上手い具合にそれが、外せるように仕込んであるのが分かった。外してみた。中は、大きな空洞になっていた。そして、そこに大量の1万円札の束が山積みに敷き詰めたものを発見したのである。驚くべき大金だった。これがあれば、充分に楽をしてキャンパスライフを満喫できる。そう確信した。慌てふためいたように、次々と琢磨は札束を持参した黒い鞄の中へと移していく。そして全て入れ終えると、にんまりと笑みを漏らしながら、鞄の蓋を締めた。犯罪の半分は終わったのだ。もうあと半分。それが、問題であった。

 部屋を見渡して、抜かりがないことを確かめた上で、黒い鞄を片手にして、琢磨は応接間をあとにした。次は2階である。つまりは、老婆の眠る和室であった。散々に迷った挙げ句に、琢磨は2階へ通じる回り階段を探り当てると、足音を殺しながら、そっと静かに登り始めた。どこかで老婆の立てる、すやすやと言うような寝息が響いて来た。こっちだな。琢磨は、やがて小さな和柄の襖の前に立って、中の様子を窺った。間違いなく、そこで、老婆は眠っていた。

 和室の中。部屋の中央の青い畳の上に、ちんまりとした布団を敷いて、こちらに背を向けたまま、老婆はどっぷりと眠り込んでいた。寝息も安らかである。おとなしく、琢磨は老婆の傍で正座になって座ると、そっと小声で囁いてみせた。

「ねえ、お婆さん。僕はね、これからあなたを殺そうとしているんですよ。いいですか。あなたに恨みはありませんがね、僕にとっては死活問題なんですよ。どうか、許して下さいねえ」

 そう言い終えて、そっと傍に置いた鞄を引き寄せた。そして、出来るだけ、老婆を起こさぬように、静かに掛け布団をめくると、老婆の身体を仰向けにした。しかし、起きる気配はなかった。それで、琢磨は老婆の和服の胸もとを大きく開いた。胸の辺りの皺ちゃけた肌が露出した。琢磨は、鞄の中から、1本の中型の鋭い注射器を取り出した。そして注射器の中を一杯の空気で満たすと、尖った針の先端をくっと老婆の胸の中央の辺りに深々と差し込んで、ぐっと注射器を押した。

 つまりは、多量の空気を老婆の心臓に注入したわけである。

 しばらくは何も起こらなかったが、やがて老婆は息苦しそうに寝返りを何度か打っていた。そして、苦し気に胸の辺りをかきむしった。そして、そのまま微動だにしなくなった。絶命したことは明らかであった。

 琢磨は老婆の衣服を戻して、上から、キチンと掛け布団を掛けておいた。これで良い。そして、

終わったか、と琢磨は感慨を持って想いに耽った。

 しかし、油断はならない。この後、誰にも気づかれずにこの屋敷をでなくてはならない。一刻の猶予もならないのだ。

 その時である。突如、琢磨の予測しない不測の事態が起こった。

 屋敷の遠くから、玄関の扉がガラガラと開く物音が聞こえてきたのである。帰ってきた。女中が帰ってきたのだ。

 これはしまった。不味いことになってしまった。急ごう。

 琢磨は、やにわに鞄を掴むと、猛スピードで、老婆の死骸を後に残して和室を飛び出すと、階段を掛け降りて、足音を立てぬように気を配りながら、すぐ近くの廊下から、裏庭に出た。一面の玉砂利の石庭を横切って、そのまま背の高いコンクリート造りの塀を必死になって駆け上がった。何とか乗り越えると、そこは住宅街の広い舗道の途中。幸いにも人の姿は皆無であった。何とかなった。よし、よし。改めて鞄を握りしめていることを実感して確かめてから、何気ない様子を装いながら、琢磨は住宅街の暑苦しい環境の中を潜り抜けた。どうやら琢磨の老婆殺害計画は成功裏に終わったように思われた。

 やがて住宅街を抜けると、大きな河に架かる橋に差し掛かった。琢磨は、ひとまず足もとに鞄を置いて、橋の欄干に手を突いて、空を見上げた。

 雲ひとつない青い大空であった。

 そして、たくさんの小鳥たちが、しきりと鳴き声を上げていることに、その時始めて気づいた。

真っ青な空だ。何て清々しいんだろう。 

思い直してみると、実に呆気ない。こんなことで一人の人間を殺して、大金が手に入るとは夢にも思わなかったのである。

 琢磨は、大きく深呼吸した。

 そして、再び鞄を持ち直すと、テクテクと歩き始めた。

 すぐ近くの舗道の脇に一台の自販機があった。琢磨の気は緩んでいた。何か飲んでいこう。彼は、ポケットから、綺麗な小銭入れを取り出して、コーラを1本買うと、その場で、ゴクゴクと喉越すように飲んだ。旨い。

 日は高い。さあ、自宅に帰ろう。もう、こんなところに用はないのだ。

 家路を急ぐ琢磨の小柄な後ろ姿が、どんどんと小さくなって消えていくのであった。


アパートにある琢磨の部屋の室内は、彼の性格をよく示すように、綺麗に片付けられていた。大きな書きもの机と木製の椅子、黒い書棚には、順に並べられた医学の専門書がズラリと置かれてある。床はベージュ色のカーペットが敷き詰められて、そのどこにも小さな汚れ一つも無かった。窓も扉もよく磨かれていて、傷もない。完璧である。

 彼は、戸棚から、一台のコーヒーミルを取り出すと、袋に入った珈琲豆を食卓の上で砕き出した。例の金は、もう、隠してある。それは天井裏であった。黒い鞄に入れたまま、暗い天井の上に置いてあるのだ。大丈夫。気づかれはしないだろう。あとは、と琢磨は挽いた珈琲豆をドリップしながら、ポツリポツリと落ちていく珈琲の雫を眺めながら、思っていた。いつものように、変わらぬ生活を送っていれば良いんだ。犯罪が発覚する恐れはまず無いのだから。それでいいんだ。

 一杯の珈琲が出来上がった。

 香りが素敵である。琢磨はいつにもまして、上機嫌で珈琲を美味しそうに口へと運んでいくのであった‥‥‥‥‥‥。

 

 

 

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