余白の多い老人
氣嶌竜
余白の多い老人
いつ、この地獄から抜け出せるのだろう、ということは、最近では考えないようにしていた。
夢を持て、個性を大切にしろと大人から言い聞かされ、忠実にその教えを守ってきたが、大学を卒業してからあっという間に地獄に突き落とされた。保険も年金も払えない。
誰かのせいにしても意味がない。何も変わらないことを、社会が十分教えてくれた。私に突き抜けた力があれば、周囲の反応も収入も良かったに違いない。あらゆる方向から飛んでくる自己満足な正義の矢に対し、豪雪に耐える信号のように辛抱する必要もなかっただろう。矢が心に刺さりすぎて、感覚が麻痺してしまうこともなかった。親の顔を伺うことも、近所の冷たい視線も、同級生の華やかな姿を影から見つめることも。
余白の多い老人に出会ったのは、近所をあてもなく散歩しながら、無いものねだりをしている時だった。紐がもせた運動靴を履いた私の横を、前かがみになりながら歩いていた。あと少しでコケる、一大事になりかねないと思い、とっさに声をかけた。
「あの、大丈夫ですか?」
「わしのことが分かるのか?」
老人は歩みを止め、驚いたような口調で私を見上げた。わしのことが分かるのか、私には老人の発した言葉の意味が分からなかった。まるで、自分がこの世に存在せず、人間の目には見えない幽霊だと明かすようだった。
老人は自分を覆う余白のように、純白な歯をみせて言った。
「わしと三本勝負しようや」
私は魔術にかけられたように固まった。
「わしが出す問題に1つでも正解したら、ここから解放してあげよう」
私は慎重に息を吸ってから尋ねた。
「私は今、捕らえられているのですか?」
逃げ場は前後左右、どこにでもある。老人を力業で倒すこともできるし、ちょっと走れば振り切れる。
「あんたは動けない人間だ」
余白の多い老人の言葉は、最初から少しも理解できない。脳内に全く刺さらない。
「動けない人間・・・」
私は呟くように老人の言葉を繰り返した。特に意味はなく、頭で理解しようと無意識にした行動だった。
近くにある2車線の国道を、大型トラックがけたたましい音を立てて走っていく。景色が揺れ、余白が縮む。
「1問目。わしの職業は何だと思う?」
「ヒントをいただけますか?」
「質問は一切受け付けない」
犯人はお前だと決めセリフを吐く刑事ドラマをみているような、野太く確信を得た声が響く。老人をみると、迷いなく私の方を見つめている。彼を覆う余白に変化はない。私は戸惑いながら、無難で範囲が広いと思われる答えを選択した。
「会社員・・・ですか?」
後方から救急車のサイレンが微かに聞こえる。
「残念っ!不正解」
老人はわざとらしく悔しい表情をみせた後、嬉しそうに体を左右に揺らした。
「正解はフリーターや。続いて2問目。わしの貯金額はいくらだと思う?ピタリ賞で賞金100万、おおよその額でも特別に正解にしたるわ」
再びヒントが欲しくなったが、グッと飲み込んで真剣に考えた。根拠はないが、サービス問題のような気がした。30秒ほど悩んだ後、「400」と答える。すると、余白の多い老人が純白な歯をみせ、ケタケタと笑った。
「惜しいぃぃ」
私は馬鹿にされたような気がして、一瞬眉間にしわを寄せた。
「正解は120や。続いて最終問題。わしには命より大切なものがある。それは一体何でしょう」
救急車のサイレンが近くで止まった。
「家族とか友人・・・ですか?」
老人は人差し指を胸の前に立て、今にも消えそうな声で一つだけと口にした。
「家族ですか?」
これで最終問題。もし不正解なら、老人のいう動けない人間のままなのだろうか。そぉっと足を浮かせてみるが、体に変化はない。不正解でもペナルティはないのか。しかし、万が一のことを考えると怖い。
「いやぁ残念!!」
老人は頬を赤らめ、満面の笑みをみせている。小学生がゲームセンターでぬいぐるみを取った時のように、興奮を隠しきれていない声で言った。
「正解は天気や。太陽の光を浴びて、月の優しい光に照らされる。時々降る雨もいい。そんな毎日を、何事もなく過ごせるだけで幸せやと思わんか?」
「そうですけど・・・」
老人の余白が縮まり始めた。白いモヤが老人の体に溶けていく。まるで、焼きたてのパンにバターを乗せたようだ。心なしか、老人の顔が若返っていく。老人を覆っていた余白は全て溶けた。体はヨボヨボしたままなのに、顔だけが妙に若い。伝説の妖怪を目にしたような、怖さと不思議が混ざり合った感情に襲われた。
老人は一歩足を前に踏み出し、私の前で背筋を伸ばした。顔を近づけ、私の耳元に何かを語りかけるような優しい声で言った。
「あんたは動けない人間だ」
老人の言葉が鼓膜を通過し、心臓の最深部に刺さった。今まで、私を縛っていた価値観、大人たちの言葉が泣きわめいている。心の内側をドンドンと叩き、檻から出たいのに恐怖を抱いている。矛盾に対する怒り、悲しみ、嘆きをひたすらぶつけられる。私は胸をギュッと握り、その場にしゃがみ込んだ。
救急車のサイレンが再び鳴った時、ようやく症状から解放された。しかし、重力で押し潰されそうな、特大のチェーンが首からぶら下がっているような感覚が解消されていない。
「こんにちは。あらっ、今日は元気がないの?」
普段、散歩で会うおばさんだ。グレーのジャージを着て、白いタオルを首にかけ、ガムを噛んでいる。いつもと変わらない光景なのに、おばさんの足元近くに生えている雑草が枯れていく。自分だけを守るように、上空を飛んでいた小鳥、虫の命を奪っていく。おばさんは一歩も動かず、何もしていない。
私は怖くなり、自分でも意味が分からない言葉を口にしてから、家まで全速力で走った。
手を洗い、うがいをして、顔を入念に洗う。タオルで水分を拭き取り、鏡に映る自分の姿を見る。
余白が私を覆っていた。
余白の多い老人 氣嶌竜 @yasugons
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