しずまる

 アキが合格した大学とその春から住む町のことは、アキのお母さんが教えてくれたことだった。

「なんだかよくできた彼女がいるみたいでねえ、全然知らなかったから、本当にびっくりしちゃった」

 そんなことを言いつつ、誇らしげに話すアキのお母さん。裏切られたと思った。アキじゃない、アキのお母さんに。私を祝福しなくなった女の子たちと一緒。だけどアキのお母さんは私たちの輝かしい未来に必要な人物だ。

 アキは、だれでも名前を知っている有名大学に進むことになった。受験中は連絡をしてもほとんど返事がなくて、家に行っても上げてくれなっていた。

「五月ちゃんも一人暮らし? 女の子だから気をつけないとね」

 アキのお母さんは、もう私がお嫁に来てくれたらいいとは言わなくなった。けれどこうも思う。私がアキのもとへお嫁に行ったら「五月ちゃんがお嫁に来てくれてよかった」と言ってくれる。昔から私をかわいがってくれたアキのお母さん。「五月ちゃんはかわいい。秋人と結婚したらいい」と、私のお母さんと話していたこともあった。雪平家には娘がいないから、五月ちゃんが娘だったらよかったと、何度も言ってくれた。大丈夫。結婚したら娘になれる。本当の家族になれる。

 アキが私に会ってくれなくなっても問題はなかった。私がアキの近くにいればいいだけだ。アキが困ったとき、傷ついたとき、すぐ迎えに行ってあげられるように。

 アキの新居を知るまで、そんなに時間はかからなかった。私の大学とアキの大学が三駅分ほどしか離れていなかったのは幸いだった。そういうところも、私たちが結ばれるために用意された演出なんだと思う。

 三時頃から夕方にかけて大学の前でアキを待った。満開だった桜が散りはじめていたときで、少し強い風が吹くたび、花びらが目の前で舞い踊った。

 アキの姿はすぐにみつけることができた。ただ、松田美代と一緒に歩いていた。私がいるべき場所をのんきな顔で陣取る松田美代を憎んだし、あんな女に騙されているアキを心から心配した。

 二人のあとをついていったのは、当たり前の行動だった。私は知らなくてはいけない。アキがどんなふうに騙されているのか。アキが住むアパートに松田美代も入っていったのには慄いたが、だからといって私が突然そこに行くことはできない。だって、そんなことをしたら、

 十四歳の夏休み、あのときと同じだ。私は散歩のついでに偶然アキに出会う。理想のワンシーンのために、アキの行動を知っておかなくては。押しすぎないこと、しつこくしないこと、きもちわるくならないこと。この三か条をしっかり守って。

 アキの家の近くに引っ越すときは、親を説得させるのに苦労した。なにせ一人暮らしを始めた矢先に引っ越したいと言ったのだから。けれど隣の住人がうるさいということ、夜、家の近くに不審者がいるような気がすること、そんなことを話したらなんとか納得してくれた。

 私の部屋からみえるのは、アキの寝室だった。さすがに裸眼ではよくみえなくて双眼鏡を買ってのぞいてみたら、彼の姿がよく見えた。まるで私のためにあつらえた部屋じゃないか。そう思った。

 アキが起きるのはいつも七時半。朝起きて一番にカーテンを開けるのは彼の日課。雨でも晴れでも雪でもそれは変わらない。朝日を浴びて、大きく伸び。それから眠そうに瞼をこすって起き上がる。アキの後ろ髪には、いつもかわいい寝癖がついていた。

 土日の朝は、ときどき松田美代がいる。それに対して憎悪が膨らむことももちろんある。だけど私は信じているから。いまはまだ紛い物。本物の日がくると、私はちゃんとわかっているから。


「……五月?」

 おそろしく静かな夜道だった。夏は、昼間はうるさいのに夜になるとどうしてか無音になる。急にすべての虫が死んだみたい。

そのとき私はいつものようにアルバイト帰りのアキのあとをついていっているところだった。

 いつもと違う出来事に混乱した。それでも私の名前を呼ぶアキの声を久しぶりに聞いて胸がふるえる。まっすぐ家の方向へ進んでいたはずのアキは、突然立ち止まって振り返り、私へ向かって歩いてきていた。

 アキは、今日はひとりで帰宅している。松田美代と帰るのは、いつも金曜日。

「久しぶり。……なんでここにいるの?」

 じわりとした暑さには似つかわしい、ひやりとした声だった。なぜ私に、そんな冷たい態度をとれるのか。どうしてまだ、私への気持ちに気づかないのか。そんな疑問が浮かぶのは一瞬だけだ。だって私はアキを愛してるから、彼を責める言葉はひとつもない。

 いままでたくさん広いあつめてきた甘いお菓子を、二人のあいだに浮かべていますぐここに並べたい。私の気持ちを知ってほしい。ねえだから理想のワンシーンを、祝福されるふたりに一緒になって。

「散歩、してるの」

 ほら、最近運動不足だから。夏休みの朝、会いに行ったときと同じ理由。もしアキが私をみつけてくれたらこう言おうと、何度も何度も練習した。

「いや……そもそも、このあたりに住んでるんだっけ?」

 そう言われて口ごもった。そうだった。アキは私が近くに住んでいることを知らないのだった。毎日アキをみつめているから、毎日会っているような気になっていた。

「うん、私、H大学に行っていて。ほら、三駅先の」

「ふうん」

 暗い夜道では、アキの顔はよくみえなかった。けれどうれしそうにしているに違いない。アキの気持ちだって高ぶっているはずだ。だって私たちは、久しぶりに再会したのだから。長い時間というのはやっぱり大切だ。それがたとえ一緒に過ごした時間でも、離れていた時間でも。

「……なんか、こんなこと言ったら変なんだけどさ、ストーカーかな、とか思った」

 アキが立ち止まったのは、小さな三叉路。ここを左に曲がれば、アキの住むアパートがある。彼が部屋に入って電気をつけるのを見守って、私はいつもおやすみとつぶやくのだ。

 アキの発言を理解するのに時間がかかってしまった。ストーカー? それは私に言っている? あんまりにも突拍子のない言葉に、なんと返すべきか迷う。迷っているあいだに、アキはどんどん眉を顰める。その表情は、大切な幼馴染みに向ける顔に適さない。やっぱり松田美代に騙されている。もしかしたら洗脳されている!

「ストーカーって」

 ふふ、と笑ったつもりだった。けれど実際に口から出たのは引き笑いだった。

「そんなわけないでしょ」

「……なんか、俺と会ってもあんまり驚いていないみたいだったから」

 だって毎日みているから。そう言いたかったけれど我慢した。しつこくしないこと、押しすぎないこと、きもちわるくならないこと。三か条が頭をよぎる。

なぜだろう。ぜんぶ、アキのことを愛しているからしていることなのに、なぜストーカー呼ばわりされてしまうんだろう。

「あんまりひとりで歩いてると危ないんじゃないの」

 これは前にも言われたことがある。遅い時間に実家の近くでアキが帰ってくるのを待っていたときだった。アキはやっぱりあのころと変わらずやさしい。私を心配してくれる。あれはそう、蟋蟀が鳴いていた秋だった。こおろぎに、あき。なんだかとても素敵な偶然だ。できすぎている、とさえ思う。いくら主人公といったって。

「大丈夫。このへんで不審者に会ったことないもん」

 繰り返している。あの日の会話。今もおぼえている。アキが私を心配してくれて、私が大丈夫だと返して、蟋蟀の細い鳴き声があたりには響いていて。私はせつない秋が好き。そう言った。

「ねえ」

 私はアキに聞いたのだ。

「昔、私たちキスしたことあったよね」

 アキは正直な人。嘘をつけない人。あのときも、「おぼえてないよ」と言いながら、恥ずかしそうに目を逸らしていた。街灯が、ちょうどアキを照らしている。今なら顔がよくみえる。

「……そうだっけ。おぼえてない」

 アキは正直な人。嘘をつけない人。だから嘘をつくときはよくわかる。だけどこのときのアキは、ただただきょとんとしていて、嘘をついているようにはみえなかった。本当に、おぼえていないのだと、言葉のとおりの気持ちを言った。

「じゃあここで」

 アキがあっさりと角を曲がろうとする。引き留めたくて、思わず手首を掴んだ。どちらの汗なのか、じっとりと濡れている。

「えっと、アキの誕生日だよね、もうすぐ」

「……ああ、そういえばそうだね」

「おめでとう」

「……ありがとう」

 アキはそれだけ言って、私の手を払った。そして一度も振り返らずに、自分の家へと帰っていく。

 まだ、お菓子が足りないのかもしれない。アキが落としてくれるお菓子。もっともっと拾ってあつめないと気づいてもらえないのかもしれない。

そこで私はふと思う。アキも、だれかのお菓子を拾うことをしたのだろうか。私ではないだれかのお菓子。それはいったい、どんなかたちをしているだろう。

 アキは、翌日からカーテンを開けることをしなくなった。双眼鏡をいくらのぞいても、姿がみえない。大丈夫。私はずっと信じている。

 

 愛情が目にみえるのなら、きっと、彼の寝癖みたいなかたちをしている。さりげなくて、かわいくて、その人のおまけみたいについていて、だけどとても魅力的なもの。ぴょっ、て跳ねていて、手をのばせばすぐ触れられる場所にある。私がそれにさわるまで、そのままのかたちでいてね。

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