ふるえる
ポケットで振動するものがなんなのか、すぐに理解できなかった。iPhoneが鳴ることは、最近はアラーム以外で滅多にない。二十一時、仕事を終えて駅のホームに立っているときだった。
数駅先で起こった人身事故の影響でダイヤが乱れていた。振り替え輸送を考えるのも面倒で、いつ到着するのかわからない電車を騒がしい地下鉄のホームでぼうっと待っていたら、ポケットの中が震えたのだった。
iPhoneを取り出し、番号を確認した。父か母だと思ったが、そこに映し出されていたのは知らない番号だった。
「……もしもし」
ひっきりなしに鳴る構内のアナウンスや行き交う人々の会話に負けないよう、声を張り上げたつもりだった。けれど声は喉の奥で引っかかり、思わず噎せた。息を整えていると、「手紙をもらったんですが」と、はっきりとした声が届いた。
高いな、と思った。電話越しでもわかる、甲高いともいかないが、決して低くはない女性の声。野太いわけではないのに、何者も寄せ付けないといった力強さがあった。わたしの周囲がどんなに騒がしくても、直接耳に響いてくる声。
手紙をもらった。彼女はたしかにそう言った。電話の相手は、のぞこだった。ぶわりと心臓が波打つ。
わたしが書いた手紙を、彼はちゃんとのぞこのもとへ届けてくれたのだ。あんまりにも心臓が鼓動を打つから、このまま飛び出してくるんじゃないかと、そう思った。
「こ、おろぎです」
心臓に気を取られて思わず
「手紙に書いてあったので、知ってます」
穏やかな口調だった。しかし言葉の奥になにかを不穏なものを潜めているようにも感じる。怒りだろうか。わたしは、彼女に訴えられてもおかしくないことをした。ただ、彼女だって訴えられてもおかしくないことをしているが。
ふいに水が飲みたくなった。一言、二言しゃべっただけで喉が渇いている。ごくっと水が喉を通る音を聞くと、なんだかいつも安心した。身体から出る音は、わたしが確かにここにいる証だった。
「いいですよ」
はい、と今度はわたしが答えた。しかしそれは彼女の言葉に釣られて思わず出た「はい」で、なにが「いいですよ」なのか実際わかっていなかった。
「いつにしますか」
「いつ」
「会う日ですよ」
「はい、あ、会う」
向こうで、小さなため息がこぼれた気がした。それに焦りを感じて、今しがたの会話を頭の中で繰り返す。
いいですよ。はい。いつにしますか。あうひですよ。はい、あ、あう。わたしは脳内で言葉を浮かべるとき、ひらがなで想像する癖がある。一文字一文字を描きながら、最後に漢字に変換するのだ。あうひ、あうひ、会う日。
「会う日ですか」
「だからそう言ってるじゃないですか」
今度は確かにため息の音が聞こえた。長い吐息が、小さな機械を伝って耳に触れる。
「いつに」
「さっき、たずねました」
「あ、はい」
「私、今夏休みなのでいつでも大丈夫です」
「じゃあ、あの、今週の土曜日は……」
こんなに早く、事が動き出すとは思っていなかった。むしろ、なにも動かない可能性だってあった。会えるのなら、早いほうがいい。わたしの前のめりな回答に、のぞこは「いいですよ」と返事をして、そのままするりと近くの喫茶店での待ち合わせを取り決めた。
「じゃあ、土曜日に」
のぞこの口調はあっさりしていた。双眼鏡をのぞいているときは、あんなに感情をむき出しにしているのに、いまは彼女の気持ちがよくみえない。ふいに不安になる。わたしはのぞこを書けるのか? 仮に書けたとして、それは本当にありふれていないか?
自問自答してもしかたがなかった。わたしは彼女を書くと決めたのだ。傑作にする。多くの人間に、わたしのことを認めさせてやる。
電話が切れる前に、はっとして慌てて口をひらいた。
「名前を聞いてもいいですか」
「ユキヒラです」
え、と声を漏らしつつ、そこまで困惑しなかったのは、私がすでにその名を記憶していたからだ。ゆきひら、ゆきひら、雪平。
「ユキダイラじゃなくて、ユキヒラ」
「あ、ああ。ゆきひら。あの、違うんです、あなたの名前」
突然、はしゃぐような笑い声が響いた。ふふ、ふふ、やだ、私、間違えちゃった。アキのことばかり考えていたから。長く長く、その笑い声は続いた。やけに耳に残る、高くてねばついた声だった。
「五月です。藤崎五月」
「さつきさん」
「
「はい」
ふふ。最後にもう一度笑って藤崎五月は電話を切った。手が汗ばんでいる。いままで聞いていた彼女の声がシールのように耳に貼られている。そしてその耳は、ホームに響き渡るアナウンスの声もしっかり拾う。
たいへんお待たせしております、ご迷惑をおかけし申し訳ございません、現在電車は二駅前にて停車中でございます……。
近くにあった自動販売機で水を買った。がたがたっとあばれるように水が取り出し口に落ちてくる。キャップを開け、三分の一ほどの量を一気に流し込んだ。飲み込むときの音を聞いて、自分がここにいることを確認する。
地下鉄は、生ぬるい風しか通らない。蒸れていて息苦しささえ感じる空間のなかで飲んでいる水の冷たさがいやに際立って、身体が震えた。
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