きこえる

「松田さんのボールペン、返した?」

 雪平秋人は、松田美代とつきあいはじめてからも、呼び出せば私に会いに来てくれた。それは盗みを働いたことを告げ口しないという条件があったからだけれど、いつしか私は無条件で彼が会いに来ればいいと思っていた気もする。藤崎五月だけじゃなくて、松田美代もかわいそうになってほしかった。

「返してないよ。本当に誰にも言ってない?」

「言わないよ。噂になってないでしょ。私と会ってくれるなら、ずっと言わない」

 文化祭が終わった数日あとの放課後だった。冬が間近に迫ってきていて、夕方になるともうあたりは暗い。肌寒い空気のなかで、か細い虫の鳴き声が静かに響きわたっていた。

 がっしりとした体型なのに、寒そうに身を縮こませている雪平秋人。背中にたくさんの氷を入れたら、そのまましゃがんで倒れるだろう。彼の弱々しい姿を想像するのが好きだった。

「あのボールペンって、どうしてるの? 使ってるの? ほかにも盗んだものある?」

「……」

「教えてくれないと、泥棒したこと誰かに言っちゃうよ」

「国語のノートと、髪を留めるゴム。机のなかにあったから」

「使ってる?」

「……使ってる」

 少しの間をつくったあと、雪平秋人は小さく答えた。なにに使っているの、と訊いたら「するとき」と早口で言う。なんて正直で、なんて愚かで、そしてなんて可愛いのだろう。鳥肌がたつ。≪≪するとき≫≫、彼はどんな顔をしているんだろう。松田美代を思い浮かべて無防備にさらけ出す姿は、私の全身を熱くした。可愛い。いじめたい。立ち上がれないくらいに打ちのめしたい。そのあと私の手で立ち上がらせたい。

「きもちわるいね」

 声が異様に高揚しているのが、自分でもよくわかる。雪平秋人は、傷ついた顔をした。心臓じゃない。心臓よりももっと下、みぞおちでもない、身体のもっともっと奥のほうが唸っていた。

 男の子が性にまつわる会話をしているのは、よく教室で聞こえてきた。だけどそれはなんだかどこか無邪気で、ナイフできれいに輪切りにされた野菜みたいに、すとんとしていた。切ったらそれで終わり。けれど雪平秋人の言葉には、背徳感とそれによる快感が、ねっとりと絡みついていて、きもちわるいという言葉がぴったりだった。

 眉を下げ、頼りなさそうに目を細める彼の横顔に、沈みかけている日の光が当たっている。

「でも、そんな秋人のこと、私は好きだな」

 大勢からはアキくん。藤崎五月はアキ。松田美代は秋人くんと呼んでいるのだそうだ。私がはじめ何も言わずに秋人と呼んだとき彼は顔をしかめたが、今は慣れたのか表情を変えない。

 秋人が顔をぱっと上げる。迷子だった子どもが親と再会したとき、こんな表情をするんだろうなと思った。いたいけで、かわいそうで、けなげで、いとしい。蹴り飛ばしたら、簡単に転んでいきそう。

「松田さんのこと、好き?」

「うん」

「藤崎さんは?」

「そういうふうに考えたことない」

「私のことは?」

「……わからない。嫌いではない気がする」

 虫の鳴き声が、やたらと近くで聞こえてくる。それなのに姿をみつけられない。長く細い駅までの道のりは奥まで夕闇につつまれていて、私たち以外にだれもいない。

「ねえキスしない?」

 秋人が、ゆっくりとこちらに視線を向ける。私よりも十センチほど高い彼の肩に手を載せた。彼は私を拒否しなかった。いとも簡単に、身体がくっつく。

「松田さんと、もうした?」

「まだ」

「じゃあ初めて?」

「……初めてでは、ない」

 そうなんだ。答えながら、自分のなかにあらわれた具体的な感情に驚いた。初めて感じるのに、それがなんなのかすぐにわかった。嫉妬だ。雪平秋人とキスをした誰かに私は嫉妬している。母の気持ちがなんとなくわかった。自分だけのものにしたい。ほかのだれも、この身体にさわらないでほしい。

 せつなかった。秋人のことを思うと、無性にせつなくなった。

 踵を上げて、秋人の唇に自分の唇を重ねた。秋人はすぐに舌を入れてきて、私の口内を歩いた。前歯の裏側、奥にあるつるつるの銀歯、喉の手前にある空間。ゆきちゃんの顔が一瞬浮かんだ。ゆきちゃんも、父とこんなキスをしているんだろうか。けれど歯と歯が不格好にあたったとき、ゆきちゃんの顔は消えた。

 虫の声は聞こえない。互いの息遣いだけしか聞こえない。私は無我夢中でてろてろとアキの舌に絡まった。

「こういうのは、初めて」

 くちびるを離したとき、唾液をぬぐいながら秋人は言った。秋人は、私に対してあまり笑わない。けれどそんなことを言ったそのときは、照れくさそうにほほえんでいた。視線はまっすぐに私に向かっていた。

 父とゆきちゃんを思い出す。たまに三人で食事にいくと、父の食べたいものをゆきちゃんが何も聞かずに注文していた。ふたりは、視線を交わすだけで気持ちを伝えることができるのだ。

 いま、私は秋人と目が合っている。彼は、私のことも好きなんだと、言われなくても伝わってくる。それは松田美代に対する気持ちとは違う。ひみつを共有している、自分の悪事をゆるしてくれる、そんな自分を好きだと言ってくれる、私だけに対する感情。

「ほたーるの、ひかあーり」

 あたりの景色を視界に入れると、また鈴の音みたいな鳴き声が聞こえてくる。りりりりり、と細く響く声に合わせて口ずさんでも、秋人はもう怖いとは言わなかった。ほほえみかけると、私の頭をやさしく撫でた。

「もう一回キスしよ」

 私が言うと、今度は、秋人からくちびるを重ねてきた。今日こんなふうにキスをしたことを、彼には一生わすれてほしくないと思った。私たちのひみつを、ずっとおぼえていてほしかった。

 秋人といる私は、ゆきちゃんみたいだ。多くの言葉を交わさなくても、理解し合えるような気がしていた。けれど彼は最後まで、私のことを片瀬さんと呼んだ。

 彼が松田美代のことを「美代」と呼んでいるのを、いつか聞いたことがある。

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